太陽が南の空に至るころ、広は呉服屋に報告に戻った。昨日と同じように、当主のもとに通される。するとその場には、床に伏せていた息子も同席していた。どうやら無事に回復したようだ。
「ご苦労だった」
 広は当主から報奨金を受け取って、それを懐に収める。
「アヤカシを退治してくださって、ありがとうございました。お陰さまで言葉が戻りました」
 息子が広に向かって頭を下げる。
「あの、あなたは昨日まで、本当に言葉を失っておられたのですか」
 そう尋ねた広を、当主が睨んだ。余計な詮索だ、と言いたいのだろう。しかし息子は顔を上げると答え始めた。
「ええ、聞こえてくる言葉は、ただの音として聞こえてきました。まるで異国のようだったと思います。それに言葉で考えるということもできませんでした。自分の身に起こったことは分かるのに、それを伝える術がありませんでした」
 そのとき広は、彼が昨日筆を渡したに際、黒い塊をぐるぐると描いたのを思い出した。なるほど、あれは、アヤカシの姿を描いていたのか。
「ぼうっとして、夢の中にいるようでしたが、先ほど急に目覚めました。本当にありがとうございます」
 まだ何かを尋ねようかとする広を、当主の声が遮った。
「もういいだろう、下がれ」
 ふう、と息を吐いて、広は「それでは」と一礼してから立ち上がった。部屋を出ようと襖に手を掛けてから、ふと振り返る。
「関係ないかと思いますが、一応報告させていただきます」
 何を言い出すのかと、当主は訝しむように視線を送った。それを意に介さず、淡々と続ける。
「アヤカシを退治した後、『幸せになってください』という誰かの声が聞こえた気がしました」
 一瞬、時が止まったのかと思った。それくらい当主の表情が色を失った。しかし徐々に意味を繋ぐにつれて、彼の顔には様々な感情が浮かびあがってこようとしていた。
 それが全て見える前に、広は彼をそこに置き去りにするように、ぱたん、と襖を閉めた。


 僕が死ぬ理由を勘違いしないでください
 好いたあの人が君に奪われたから
 自ら命を絶つのではありません
 僕を味方してくれると言った君と
 僕と一緒になってくれると言ったあの人が
 僕の最も信頼していた二人が
 僕を裏切ったことが
 どうしようもなく僕を絶望させるのです

 広は帰路に就くために、山とは反対の、狭く平坦な道を歩いていた。周りに木は少なく、背の低い草が青々と生い茂っている。太陽は真上に昇り、空は青く高かった。
 見晴らしの良い場所を進みながら、広は懐から一枚の紙を取り出す。それはアヤカシが消え去った後、その場に落ちていたものだった。

 あの日から
 もうどんな言葉も虚ろに聴こえています 
 君に幸せになってください、と
 言うことさえ何の意味も持たないようです
 誰の、自分の、どんな言葉も
 何も信じられません
 このまま生きていくことは
 僕には苦しすぎます

「『さようなら』……か」
 手紙、というよりも遺書と言うのが正しいのだろう。あの当主と奥さんとアヤカシの過去に何があったのか、これで大体見当が付く。しかしここにあるということは、きっとこの遺書は誰にも読まれなかったのだ。だからこそ、アヤカシとなってしまったのかもしれない。
 そのとき、頭にずしりと重みがかかった。不意のことに前に倒れた首を持ち上げると、頭の上から烏の声がした。
『なぜすぐに退治しなかったんだ』
 黒い渦と向かい合ったまま話しかけたりして、と続いた烏の言葉に、広は「ああ」と答えた。
「思い出してほしかったんだよ」
 アヤカシは退治すると霧散する。あれは消滅だ。人の感情が、魂が消滅しているんだ。
「人に戻ってくれれば、きちんと弔いもできる」
『ふうん』
 烏はあまり解せないようで、気のない返事をして『人間は面倒なことを考える』と言った。
「そうかな」
『そうだ。それになぜ依頼主にあんなことを言ったんだ。手紙には恨み節しか書いていないじゃないか。いやそれよりなぜ手紙を渡してしまわなかった』
「そうだね」
 今度は広が適当な相づちを打った。しかし烏が続きの言葉を待っているようだったので、少し考えてから口を開いた。
「ああ言うのが、一番具合が良いと思ったんだよ」
『どうして』
「長いよ」
『構わない』
 広は、そうだな、と唸りながら頬を掻いた。
「例えば、呪いをかけた正体が友人だったと分かったとして、まあ、薄々気がついていたようだったけれど、呉服屋の主人はとても気に病むだろう」
『それで』
「それで、彼の恨みを今一度思い知る。そしてたぶん、ずっと抱えていた後悔の念が、激しく彼らを襲うだろう」
『それで』
「急かすなよ。それでも、『幸せになってください』と言ってくれたと、最後は許してくれたと思えば、やがては少し気が楽になるかもしれない。そもそも彼の死は山での不運ということになっている。手紙を渡すと裏切りを苦にした自死だったことはっきりしてしまう。それは耐え難い苦しみだろう」
『それで』
「それで、と言おうか、その前にだね、『君に幸せになってください、と 言うことさえ――』という文面を読んだとき、本当は彼はそう言いたかったんじゃないかと思ったんだ。だからそう言った節もある」
 そこまで聴いた頭上の烏は、すっかり黙ってしまった。広は気にせず、しゃりしゃりと土を踏む。
『つまり、お前はどちらの味方だ』
 しばしの無言を破って、また烏が尋ねた。
「どちらでも」
 人の情は、特に好いた惚れたの話は分からないけれど、二人して裏切ったことは誉められたことではないことは分かる。しかしだからといって、長々と恨み続け、腹いせにその息子を呪った彼にばかり同情できる訳でもない。
『分からない』
「そうだね」
 広はふいに立ち止まるとしゃがみ込んだ。烏は笠から降りる。彼は荷物から火打石を取り出すと、カツカツと数度音を鳴らし紙に火を点けた。
『何を』
「弔いの真似事さ」
 火は徐々に燃え広がって、紙を焦がして失くしていく。火が紙を食い尽くす前に、広は手を放した。地面に着く前に、全てが燃え尽きる。
『それに意味はあるのか』
 煤が風に吹かれて舞った。
「ないな」
 消えた者を弔うことも、その意を少し汲んで、依頼主を苦しめることも、本当はきっと、意味もなければ、大義もない。いや、それで言えば、彼を討つことにだって、真の大義はなかったはずだ。
 ここにはもうたぶん、どうすることが正しいかなんて存在しない。
 もう一度吹いた風に、全て浚われていった。
 火打ち石を仕舞う広の横で、烏はさも億劫そうに言った。
『お前は面倒だな』
 言われた広は「そうかもしれない」と軽く笑った。それから荷を背負うと、少しまじめな調子で言った。
「けれど案外単純だ。詰まるところ、ただ自分の気の済むように、やっているだけなのさ」
『ふうん』
 烏はやっぱり解せないというように、曖昧な返事をした。会話に満足したのか飽きたのか、先に戻ると言って飛んでいった。
 その姿を追って青空を見上げていた広は、笠を深くかぶり直し、また歩き始めた。