あれだけどろどろになったというのに、いつも通り日が昇るころに目が覚めた。むくりと体を起こした広は、眠気と戦いながらしばらくじっとしていた。ようやく意を決して立ち上がると窓の外には相棒が待っていて、広が頷いてみせると、烏はばさばさと飛び去っていった。
さて、仕事をしに行くか。
階下で手早く朝食を終えた広は、荷物をまとめて早々に宿を発った。それから、依頼人から聞いていた山を目指して歩き出す。
その山を越えて隣町に商談をしに行った呉服屋の長男は、日が暮れても帰ってこなかった。心配した使用人が探しに行くと、山中に気を失って倒れていたということである。
そして目が覚めたときには、言葉を失っていた、と。
(言葉を失うっていうのは、一体どうしてなのだろう)
まだ活気づいていない朝の町をさっさと抜けて、広は山の中に入っていった。人が通ってできた道はあれど、幅は狭く、また傾斜がきついところも多い。あまり足元は良くはなくて、何度か転びそうになった。昨晩もこの山について話をした。
――あの山は、少し険しいように見えます。木も多く薄暗そうだ。山を通ると呪われる、などという言い伝えなどはないんですか。
――いやあ特にはないかねえ。慣れれば案外大したことないんだよ。ああ、でも確かに、山で亡くなる人はたまにいるね、可哀想に。
(アヤカシが相手を恨むなら、いっそ生気を奪うとか、命を奪うとかの方が手っ取り早いんだ。あえて言葉を奪うというのはどういうわけなんだろう。言葉でひどい罵倒をされたとか、皮肉を言われ続けたとか)
それとも、
(実は依頼主の方とは全く関係ない、いたずら小僧のような奴なのかも分からない)
いや、この推測が誤っているのは分かっているんだ。可能性としてはなくはない、けれど限りなく低い。昨日の当主の態度からも明らかだ。
『アヤカシは往々にして人の恨み辛みが変化するものです』
その通り、偽りはない。けれど真実もない。
アヤカシという名があったところで、誰にもそれが何だと明確に述べることなど出来ない、退治屋が知っているのは退治する方法だけだ。
人の悪い感情いくらも集まって、いつの間にかアヤカシとなって、無差別に人を襲う。
誰かに抱いた恨みがその魂を喰って、本人の意思と関係なく形を持って暴走する。
死んだ人の未練が、ずるずるのその場に残り続け、そこを通る人通る人を襲う。
深い悲しみが、激しい羨望が、他人の幸福が、転じていつの間にか、誰かの不幸を願うことだって。
分からない、分かるはずもない。つまりは人のこころなど。そして誰が悪くて、誰が正しいのかだって。
そのあと広は小一時間ほど黙々と山を登り続けた。ここら当たりだろうかと周りを見回していると、烏の鳴き声が聞こえた。声のした方へ、山道を逸れて木々の中に分け入る。
少し行くと一本の木に烏が留まっていて、広の姿を見るとまた笠の上に移動した。
「この辺だね」
『あまり厄介ではなさそうだよ』
「そうか、お前は下がっておいで」
返事の代わりに羽を鳴らして、烏は高く飛んで消えた。それを見届けてから、広は帯に差してある脇差を鞘から抜き放った。刀身が葉を透けて射した日を映す。
「さて、と」
分かっていることは、アヤカシはもとは誰かの感情だ、ということだ。どこかに隠れているそれを呼び起こすには、こちらも感情で対峙すればいい。そうすれば呼応するようにアヤカシは姿を現すのだ。いやそれはただ、急に他人の感情をぶつけられて、気が狂いそうになるだけかもしれない。そんなことはどっちだっていいのだ、奴が姿を現せば。
広は刀身に気持ちを込めた。それは大層きれいなものじゃない。他人を逆なでするものだ。荒々しい感情だ。普段は人に見せないような、けれど誰にでもあるようなものだ。
思い出すのは、昨日の依頼主。
横暴な態度への苛立ち。くだらない矜持への蔑み。
十分集中できたと思ったとき、広はその脇差を地面に突き刺した。アヤカシの領域に、直接流し込む。受け取りたくなどない、他人の感情を。
一瞬にして空気が激しく震えた。散っている木の葉が舞って、目の前を遮る。広が笠を傾けて顔面を守ろうとしたとき、視界の端に黒いものが映った。咄嗟に避けると耳元で、ひゅっ、と鋭い音がした。
(お出ました)
素早く体を起こして数歩後ろに下がると、広は笠を投げ睨むように顔を上げた。
人間大ほどの黒く渦巻いた何かが、薄暗い木々の影に不気味に佇んでいた。じっとこちらの様子を窺っているようでもあった。
広は隙のない構えを保ったまま、黒い渦の気配を探った。ああ、間違いない、呉服屋の息子から感じた禍々しさと同じものが、この黒さの中から放たれている。
それを確信した広は、相手を刺激しないよう注意しながら少し距離を詰めた。相手に反応はない。
「伊作さん、ですね」
黒いそれはただぐるぐると全てを果てのない様子であった。
「違いますか、数年前に足を滑らせて、この山で行方不明になった、伊作さん」
二度の呼びかけに、渦は何も変化を見せなかった。ふう、と溜息のような息を吐くと「違うか」と残念そうに呟いた。
――山に慣れたこの町の人間だって、数十年の間に何人かは不幸に遭っているよ。
昨晩、酔った男性との会話を思い出す。
――鍛冶屋の伊作だろ、金貸しの平助に
「平助さん」
ぐるぐるぐるぐる。
――小物商いの一二三。
「一二三さん」
その瞬間、広は空気の揺れを鋭く感じ取った。
(当たり、か?)
「一二三さん、ですね。三十年近く前、隣町に商いに行ったきり,戻ることがなかった」
渦がいびつにゆがみ始めた。
「思い出してください。あなたはもともとそんな姿ではないはずだ。アヤカシなんかじゃない、人間のはずだ」
はっきり言ってしまえば、広の呼びかけはただのはったりだった。道中考えたとおり、可能性の話だ。
多くの人がこの山道を行き来しているはずなのに、害を被ったのは呉服屋の息子ただ一人。あの家に対して大きな恨みを遺した人間が一人、この地に埋まっているのではないか。
長い年月をかけて、元の姿を忘れるほどに、気持ちだけで存在してきたのではないか。
黒い影は落ち着きのない様子で、動きが定まらなくなった。まるで軸のぶれた独楽のようだ。
次の瞬間、渦の中心から何かが広めがけて飛んできた。右に飛んで、それを避ける。広の後ろにあった木には、黒く太い針が突き刺さっていた。連続して飛んでくる攻撃に、今度は握っていた脇差で弾く。
(人の形を思い出してくれればいいのだけど)
そうすれば話が早い。戦わなくとも、退治しなくとも、呉服屋の息子にかかった念を解いてもらえるかもしれない。
「あなたには、呉服屋の家と揉め事があった」
混乱しているような渦の攻撃は、激しさを増した。
「彼をひどく憎むような何かがあったはずだ。だから先日、あなたは、その血筋のものを呪ったんだ」
黒い針を払い、避け、弾き、広は言葉を続ける。
「何があったのか覚えていますか。人の言葉を奪うような呪いだ。言葉に何か因縁があるんでしょう」
渦に対して推測を踏まえ、知っている情報はこれで全てだ。
黒い渦は、忘れたはずの記憶を刺激する情報に動揺している。まだ忘れきってはいないのだ。
(思い出せ)
黙ってその時を待つ。ふいに攻撃が止んだ。影はぐにゃりと形を変え始める。
(思い出してくれ)
形を取るかと思われたそれは、しかし期待に反して、再び渦となってしまった。
「だめか」
広は小さく溜息を吐く。それから刃を構え直すと、影に向かって走り出した。
飛んでくる針を、かんかん、と払い落とす。一気に距離を詰める。
右手を真っ直ぐに振り下ろし、影を両断する。真っ二つに割れたそれは、悲鳴のような耳につく不快な音を上げ、断面から崩れ始めた。
「悪く思うなよ」
影が苦しみ暴れだす。それに巻き込まれないように広は二三歩離れる。
広が見守る中、影は完全に崩壊し、細かく砕け散ってなくなった。
さて、仕事をしに行くか。
階下で手早く朝食を終えた広は、荷物をまとめて早々に宿を発った。それから、依頼人から聞いていた山を目指して歩き出す。
その山を越えて隣町に商談をしに行った呉服屋の長男は、日が暮れても帰ってこなかった。心配した使用人が探しに行くと、山中に気を失って倒れていたということである。
そして目が覚めたときには、言葉を失っていた、と。
(言葉を失うっていうのは、一体どうしてなのだろう)
まだ活気づいていない朝の町をさっさと抜けて、広は山の中に入っていった。人が通ってできた道はあれど、幅は狭く、また傾斜がきついところも多い。あまり足元は良くはなくて、何度か転びそうになった。昨晩もこの山について話をした。
――あの山は、少し険しいように見えます。木も多く薄暗そうだ。山を通ると呪われる、などという言い伝えなどはないんですか。
――いやあ特にはないかねえ。慣れれば案外大したことないんだよ。ああ、でも確かに、山で亡くなる人はたまにいるね、可哀想に。
(アヤカシが相手を恨むなら、いっそ生気を奪うとか、命を奪うとかの方が手っ取り早いんだ。あえて言葉を奪うというのはどういうわけなんだろう。言葉でひどい罵倒をされたとか、皮肉を言われ続けたとか)
それとも、
(実は依頼主の方とは全く関係ない、いたずら小僧のような奴なのかも分からない)
いや、この推測が誤っているのは分かっているんだ。可能性としてはなくはない、けれど限りなく低い。昨日の当主の態度からも明らかだ。
『アヤカシは往々にして人の恨み辛みが変化するものです』
その通り、偽りはない。けれど真実もない。
アヤカシという名があったところで、誰にもそれが何だと明確に述べることなど出来ない、退治屋が知っているのは退治する方法だけだ。
人の悪い感情いくらも集まって、いつの間にかアヤカシとなって、無差別に人を襲う。
誰かに抱いた恨みがその魂を喰って、本人の意思と関係なく形を持って暴走する。
死んだ人の未練が、ずるずるのその場に残り続け、そこを通る人通る人を襲う。
深い悲しみが、激しい羨望が、他人の幸福が、転じていつの間にか、誰かの不幸を願うことだって。
分からない、分かるはずもない。つまりは人のこころなど。そして誰が悪くて、誰が正しいのかだって。
そのあと広は小一時間ほど黙々と山を登り続けた。ここら当たりだろうかと周りを見回していると、烏の鳴き声が聞こえた。声のした方へ、山道を逸れて木々の中に分け入る。
少し行くと一本の木に烏が留まっていて、広の姿を見るとまた笠の上に移動した。
「この辺だね」
『あまり厄介ではなさそうだよ』
「そうか、お前は下がっておいで」
返事の代わりに羽を鳴らして、烏は高く飛んで消えた。それを見届けてから、広は帯に差してある脇差を鞘から抜き放った。刀身が葉を透けて射した日を映す。
「さて、と」
分かっていることは、アヤカシはもとは誰かの感情だ、ということだ。どこかに隠れているそれを呼び起こすには、こちらも感情で対峙すればいい。そうすれば呼応するようにアヤカシは姿を現すのだ。いやそれはただ、急に他人の感情をぶつけられて、気が狂いそうになるだけかもしれない。そんなことはどっちだっていいのだ、奴が姿を現せば。
広は刀身に気持ちを込めた。それは大層きれいなものじゃない。他人を逆なでするものだ。荒々しい感情だ。普段は人に見せないような、けれど誰にでもあるようなものだ。
思い出すのは、昨日の依頼主。
横暴な態度への苛立ち。くだらない矜持への蔑み。
十分集中できたと思ったとき、広はその脇差を地面に突き刺した。アヤカシの領域に、直接流し込む。受け取りたくなどない、他人の感情を。
一瞬にして空気が激しく震えた。散っている木の葉が舞って、目の前を遮る。広が笠を傾けて顔面を守ろうとしたとき、視界の端に黒いものが映った。咄嗟に避けると耳元で、ひゅっ、と鋭い音がした。
(お出ました)
素早く体を起こして数歩後ろに下がると、広は笠を投げ睨むように顔を上げた。
人間大ほどの黒く渦巻いた何かが、薄暗い木々の影に不気味に佇んでいた。じっとこちらの様子を窺っているようでもあった。
広は隙のない構えを保ったまま、黒い渦の気配を探った。ああ、間違いない、呉服屋の息子から感じた禍々しさと同じものが、この黒さの中から放たれている。
それを確信した広は、相手を刺激しないよう注意しながら少し距離を詰めた。相手に反応はない。
「伊作さん、ですね」
黒いそれはただぐるぐると全てを果てのない様子であった。
「違いますか、数年前に足を滑らせて、この山で行方不明になった、伊作さん」
二度の呼びかけに、渦は何も変化を見せなかった。ふう、と溜息のような息を吐くと「違うか」と残念そうに呟いた。
――山に慣れたこの町の人間だって、数十年の間に何人かは不幸に遭っているよ。
昨晩、酔った男性との会話を思い出す。
――鍛冶屋の伊作だろ、金貸しの平助に
「平助さん」
ぐるぐるぐるぐる。
――小物商いの一二三。
「一二三さん」
その瞬間、広は空気の揺れを鋭く感じ取った。
(当たり、か?)
「一二三さん、ですね。三十年近く前、隣町に商いに行ったきり,戻ることがなかった」
渦がいびつにゆがみ始めた。
「思い出してください。あなたはもともとそんな姿ではないはずだ。アヤカシなんかじゃない、人間のはずだ」
はっきり言ってしまえば、広の呼びかけはただのはったりだった。道中考えたとおり、可能性の話だ。
多くの人がこの山道を行き来しているはずなのに、害を被ったのは呉服屋の息子ただ一人。あの家に対して大きな恨みを遺した人間が一人、この地に埋まっているのではないか。
長い年月をかけて、元の姿を忘れるほどに、気持ちだけで存在してきたのではないか。
黒い影は落ち着きのない様子で、動きが定まらなくなった。まるで軸のぶれた独楽のようだ。
次の瞬間、渦の中心から何かが広めがけて飛んできた。右に飛んで、それを避ける。広の後ろにあった木には、黒く太い針が突き刺さっていた。連続して飛んでくる攻撃に、今度は握っていた脇差で弾く。
(人の形を思い出してくれればいいのだけど)
そうすれば話が早い。戦わなくとも、退治しなくとも、呉服屋の息子にかかった念を解いてもらえるかもしれない。
「あなたには、呉服屋の家と揉め事があった」
混乱しているような渦の攻撃は、激しさを増した。
「彼をひどく憎むような何かがあったはずだ。だから先日、あなたは、その血筋のものを呪ったんだ」
黒い針を払い、避け、弾き、広は言葉を続ける。
「何があったのか覚えていますか。人の言葉を奪うような呪いだ。言葉に何か因縁があるんでしょう」
渦に対して推測を踏まえ、知っている情報はこれで全てだ。
黒い渦は、忘れたはずの記憶を刺激する情報に動揺している。まだ忘れきってはいないのだ。
(思い出せ)
黙ってその時を待つ。ふいに攻撃が止んだ。影はぐにゃりと形を変え始める。
(思い出してくれ)
形を取るかと思われたそれは、しかし期待に反して、再び渦となってしまった。
「だめか」
広は小さく溜息を吐く。それから刃を構え直すと、影に向かって走り出した。
飛んでくる針を、かんかん、と払い落とす。一気に距離を詰める。
右手を真っ直ぐに振り下ろし、影を両断する。真っ二つに割れたそれは、悲鳴のような耳につく不快な音を上げ、断面から崩れ始めた。
「悪く思うなよ」
影が苦しみ暴れだす。それに巻き込まれないように広は二三歩離れる。
広が見守る中、影は完全に崩壊し、細かく砕け散ってなくなった。