元の部屋に戻るなり、「それで」と当主は続きを促した。
「これ以上何が必要だというんだ。早くそのアヤカシを退治してこい」
「ええ、そのつもりですが、確認したいことがいくつかございます」
当主の責め立てるような態度を、広はのらりくらりと躱す。それが気に障るのか、当主は黙ったまま眉間に皺を寄せた。
「アヤカシと言いますのは、無差別に人を襲うこともあれば、特定の人を狙って襲うこともございます。後者がどのように襲う相手を決めるのかと申しますと、それはアヤカシの成り立ちに関わってくることなのですが」
広の講釈に、当主の顔に明らかな不快が浮かんだ。広の弁舌を遮って、圧のある声で怒りを抑えずに言う。
「そんなことはどうだっていい、お前が退治すればいいだけの話だろう。いいから早く行け」
しかし広はそれにも動じなかった。
「いえ、大切なお話です。これがあれば退治は楽になります」
どん、と男は拳で畳を激しく叩き、声を荒げる。
「貴様が楽だろうがなんだろうが、こっちは金を払っているんだ。さっさと退治してこい」
広は正面から怒鳴られても、やはり顔色を変えなかった。それどころか、ふう、と一息吐く。
「貴様」
怒りに震える当主の声を、今度は広が遮った。
「アヤカシは往々にして人の恨み辛みが変化するものです」
淡々とした説明を聞いて、当主は吐き捨てるように答える。
「うちは何もやましい商売はしていない。それは逆恨みもあるかも分からんが」
「では」
広の目は、真っ直ぐに当主に向いていた。当主の瞳だけを捕えて、逃げることを許さない視線だった。当主はその眼光に一瞬たじろぐ。
(なんだ、この目は)
奇妙なほどに、静かに威圧する目だった。いつの間にか、すっと、広の瞳の中に呑み込まれていくような。全て見透かされているような、言いようのない感覚に当主は襲われた。
「質問を変えましょう。例の山で何かあなた方に関係する事件があったことは」
それを聴いたとき、当主は目がわずかに開いた。依頼主のそのささいな揺れを、広は冷静に見つめた。固く結んだその口を開けばいいのだけれど。
しかし広の期待に反して、一瞬の動揺を押し込んだ当主は先までの勢いを取り戻し、怒りを込めて口を開いた。
「馬鹿にするのも大概にしろ。我が家の事情を嗅ぎまわろうという犬か貴様は」
「違いますが、アヤカシの正体が分かった方が、退治が楽なもので。言っておきますが、『楽』というのは、より確実に退治ができるということです。私としては別段、退治できなくとも、報償がもらえなくなるだけなので構わないのです」
はっきりとそれだけ言って、なお広は当主の目を見ていた。
「困るのはどちらでしょうか」
当主が急いでいるのは、単に息子のことが心配だからじゃない。その空気を広は察していた。
言葉を失った息子は、病で床に伏せたことになっているが、一体いつまで誤魔化せるか。十日も篭りきりで、いつ訝しがられるだろう。まさか家のものがアヤカシに呪われたなんてこの界隈で知られたら、この家は、商売は、私は、どうなるというのだ。
その目は広のことを見ていなかった。焦点の合わないどこかを見ていた。
「話すことなど何もない」
その瞳をしたままはっきりとそう言い残し、当主は立ち上がると部屋を去った。襖が勢いよく閉まる耳を突くような音に、広はひとり顔を顰めた。小僧とは違う、重みのある足音が遠のいていく。
「ふぅ」
広は終始正していた姿勢を崩し、溜め息を吐いた。
その日は客間に泊めてもらうつもりだったが、そんな話をする間もなかった。それにこの分だと言ったところで、家を探るつもりか、と追い出されるのが落ちだろう。広は荷物をまとめて立ち上がった。
廊下を進んで表に向かう。そのときふと、次の曲がり角に人影が見えた気がして立ち止まる。しかし向こうから人が現れることはなかった。おや、見間違いだろうかと、廊下を進んで角を曲がる。
「あ、」
すると曲がってすぐのところに、五十ほどの品の良い女性が立っていた。驚きで思わず声を漏らす。おそらく当主の妻だろう、自分に何か用だろうか、と広も彼女の前で足を止めた。
しかし女性は広の方を向いたかと思えば、ぱっと顔を俯けた。その視線は迷いを表すように、あちこちに揺れている。
なんだろう、と広は何も言わずに女性が話すのを待った。
「あ、あの」
そのとき、消え失せそうな細い声が聞こえた。広は「はい」とゆったりと落ち着いた声で返す。
女性が思いを固めたように顔を上げる。しかしその脆い決意は、広の前に分かりやすく平衡を失った。女性はまた視線を落とすと「息子をお願いします」とだけ言って、歩いて行ってしまった。
「これ以上何が必要だというんだ。早くそのアヤカシを退治してこい」
「ええ、そのつもりですが、確認したいことがいくつかございます」
当主の責め立てるような態度を、広はのらりくらりと躱す。それが気に障るのか、当主は黙ったまま眉間に皺を寄せた。
「アヤカシと言いますのは、無差別に人を襲うこともあれば、特定の人を狙って襲うこともございます。後者がどのように襲う相手を決めるのかと申しますと、それはアヤカシの成り立ちに関わってくることなのですが」
広の講釈に、当主の顔に明らかな不快が浮かんだ。広の弁舌を遮って、圧のある声で怒りを抑えずに言う。
「そんなことはどうだっていい、お前が退治すればいいだけの話だろう。いいから早く行け」
しかし広はそれにも動じなかった。
「いえ、大切なお話です。これがあれば退治は楽になります」
どん、と男は拳で畳を激しく叩き、声を荒げる。
「貴様が楽だろうがなんだろうが、こっちは金を払っているんだ。さっさと退治してこい」
広は正面から怒鳴られても、やはり顔色を変えなかった。それどころか、ふう、と一息吐く。
「貴様」
怒りに震える当主の声を、今度は広が遮った。
「アヤカシは往々にして人の恨み辛みが変化するものです」
淡々とした説明を聞いて、当主は吐き捨てるように答える。
「うちは何もやましい商売はしていない。それは逆恨みもあるかも分からんが」
「では」
広の目は、真っ直ぐに当主に向いていた。当主の瞳だけを捕えて、逃げることを許さない視線だった。当主はその眼光に一瞬たじろぐ。
(なんだ、この目は)
奇妙なほどに、静かに威圧する目だった。いつの間にか、すっと、広の瞳の中に呑み込まれていくような。全て見透かされているような、言いようのない感覚に当主は襲われた。
「質問を変えましょう。例の山で何かあなた方に関係する事件があったことは」
それを聴いたとき、当主は目がわずかに開いた。依頼主のそのささいな揺れを、広は冷静に見つめた。固く結んだその口を開けばいいのだけれど。
しかし広の期待に反して、一瞬の動揺を押し込んだ当主は先までの勢いを取り戻し、怒りを込めて口を開いた。
「馬鹿にするのも大概にしろ。我が家の事情を嗅ぎまわろうという犬か貴様は」
「違いますが、アヤカシの正体が分かった方が、退治が楽なもので。言っておきますが、『楽』というのは、より確実に退治ができるということです。私としては別段、退治できなくとも、報償がもらえなくなるだけなので構わないのです」
はっきりとそれだけ言って、なお広は当主の目を見ていた。
「困るのはどちらでしょうか」
当主が急いでいるのは、単に息子のことが心配だからじゃない。その空気を広は察していた。
言葉を失った息子は、病で床に伏せたことになっているが、一体いつまで誤魔化せるか。十日も篭りきりで、いつ訝しがられるだろう。まさか家のものがアヤカシに呪われたなんてこの界隈で知られたら、この家は、商売は、私は、どうなるというのだ。
その目は広のことを見ていなかった。焦点の合わないどこかを見ていた。
「話すことなど何もない」
その瞳をしたままはっきりとそう言い残し、当主は立ち上がると部屋を去った。襖が勢いよく閉まる耳を突くような音に、広はひとり顔を顰めた。小僧とは違う、重みのある足音が遠のいていく。
「ふぅ」
広は終始正していた姿勢を崩し、溜め息を吐いた。
その日は客間に泊めてもらうつもりだったが、そんな話をする間もなかった。それにこの分だと言ったところで、家を探るつもりか、と追い出されるのが落ちだろう。広は荷物をまとめて立ち上がった。
廊下を進んで表に向かう。そのときふと、次の曲がり角に人影が見えた気がして立ち止まる。しかし向こうから人が現れることはなかった。おや、見間違いだろうかと、廊下を進んで角を曲がる。
「あ、」
すると曲がってすぐのところに、五十ほどの品の良い女性が立っていた。驚きで思わず声を漏らす。おそらく当主の妻だろう、自分に何か用だろうか、と広も彼女の前で足を止めた。
しかし女性は広の方を向いたかと思えば、ぱっと顔を俯けた。その視線は迷いを表すように、あちこちに揺れている。
なんだろう、と広は何も言わずに女性が話すのを待った。
「あ、あの」
そのとき、消え失せそうな細い声が聞こえた。広は「はい」とゆったりと落ち着いた声で返す。
女性が思いを固めたように顔を上げる。しかしその脆い決意は、広の前に分かりやすく平衡を失った。女性はまた視線を落とすと「息子をお願いします」とだけ言って、歩いて行ってしまった。