* * *
悠希の部屋に足を踏み入れた琥珀は、久しぶりに入る幼なじみの部屋に声を上げた。
「汚い!」
「言うと思った」
部屋の中には服が散乱し、本が読みかけのまま、いたるところに落ちている。
「あのさあ……まさかこの部屋に希望ちゃん入れてないでしょうね? さすがに嫌われるよ、これは」
大きな溜息をつきながら私は手当たり次第に散らかっている服をかき集め、ベッドの上へひとまずまとめていく。
「いいや、今日はリビングで昼飯食って終わり。だって足の踏み場ねーじゃん、この部屋」
「自覚してるなら手伝いなさいよ!」
的確なツッコミを入れながら、私は悠希の言葉に納得した。
だからリビングに希望ちゃんの忘れ物があったのだ。
「聞いてるの? 悠希――――」
悠希の服を片づけながら振り返った瞬間、突然腕を掴まれ、言葉を失った。
「俺、ずっとお前に聞きたいことがあったんだ」
「聞きたいこと?」
「お前、彼氏出来たのか?」
意外な質問に私はポカンと口を開けるばかり。
「はあ?」
呆れ半分に返すと、悠希は言葉を噛みながら気まずそうにこちらの様子を伺っていた。
「何言ってんの?」
「お、俺が怪我した試合の日、お前、俺の知らない男と一緒にいただろ? 随分仲良さそうだったし、最近お前、俺のこと避けてるし、彼氏でも出来たのかと思って……」
そういえば、悠希は橘くんの存在を未だ知らないままだった。
「なーんか、すごい顔でこっち睨んでたもんね……橘真広くんっていうんだけど、ただの友達」
「本当に?」
「いや、嘘つく意味ないでしょ。ていうか、悠希にも彼女いるんだから、私に彼氏がいても普通でしょ? いないけどさ」
「俺は心配してるんだよ……お前、昔から男運ないだろ? 変な奴と付き合ってないか心配で」
悠希が私に対して抱いてる気持ちは異性へ対する「やきもち」ではなく、身内として、妹を心配する兄のような立場としての「心配」のように感じた。
「悠希っていつもそうだよね。いっつも私を小さい妹扱いしてさ」
私がいつまでも小さな子供のままだと思ってる。
「私もう高校生だよ? 悠希と何も変わらない。心配なんて、いらない」
その気がないのなら、優しくなんてしないで。
優しくされるたび、勝手に心が期待して、傷つくの。
「だって、琥珀は女の子だから」
その言葉に一体どんな意味が込められていたのかは分からない。
けれど今の私には、悠希の言葉が何より苦しく重く感じられた。
窓の外は数分前には考えられないほど黒い雲が広がり、ポツリと雨が散らばり始める。
私は感情を抑ええきれず、思いのたけを悠希にぶつけた。
「こういう時ばっかり女の子扱いしないでよ! 私の気持ちなんて、何にも知らなくせに!」
ポツリと雨粒が落ち、私の瞳から涙の粒が落ちる。
「お前、変わったよな。高校入ってから俺と距離置いてるだろ。俺のこと、悠ちゃんって呼ばなくなったし」
「それはもう大人だからでしょう! 学校でそんな呼び方してたらいい加減笑われるし」
「学校じゃ、明らかに俺のこと避けてるだろ? だいたい、今日だって、何日ぶりに話してると思ってるんだ」
「私だって気使ってんの分かんないの?」
「はあ? 誰に気を使う必要があるんだよ」
「バーカ。希望ちゃんに決まってんでしょーが! 彼女の立場から女の子の幼なじみなんて、邪魔でしかないからね! 学校の中でも希望ちゃんより私の方があんたと仲良かったら、みんな良く思わないでしょう!」
悠希と本気で喧嘩をしたのは一体いつが最後だっただろう。
「……あんたは本当に何も分かってない。分かってないよ……これじゃ、希望ちゃんが可哀相」
本当は、こんな喧嘩をしに来たはずじゃなかったのに。
私は泣きながら、悠希をキッと睨み付け、言った。
「そんなことだから、ケガなんてするんでしょ! バーカ!」
言ってしまった。
今の彼が一番気にしている一言を。
口から思わずこぼれた言葉に私は青ざめる。
しかし、撤回することは叶わなかった。
「このっ……!」
叩かれる。
振り上げられた悠希の右手を見て、私はギュッと身を縮ませた。
一秒、二秒、間を置いて私を襲ったのは、悠希の平手打ちではなく、地響きを伴った、雷鳴だった。
* * *
悠希は右手を振り上げたまま、急に勢いを増した雷雨を見つめていた。
「雷……さっきまであんなに晴れてたのに」
呟きながら、俺はいつの間にか暗くなった室内に気が付いた。
うっすら見える視界を頼りに俺は部屋の電気を点けようとした。
しかし、電気は点かず、部屋の中は暗いままだ。何度かスイッチを押してみるが、状況は変わらない。
どうやら先ほどの雷がどこかに落ち、停電してしまったらしい。
「マジかー、停電……俺今日一人なのに」
薄暗い部屋の隅っこで、何かが震えている。
「おい琥珀、大丈夫か?」
「ムリムリムリ……なんで雷、真っ暗……」
俺は溜息をつきながらスマホの画面をつける。
時刻は現在十七時。
「どこかに雷落ちたんだな……琥珀、そんなところにいないで俺の方に来いって」
恐怖のせいか、俺の声は聞こえないようだ。
「なあ琥珀」
俺は琥珀の前にしゃがみ込み、優しい声で語りかけた。
「大丈夫、怖くない」
頭を撫でると、ようやく琥珀の返答を聞くことが出来た。
「悠ちゃん……手、握ってて」
涙声でそっと差し出された手を俺は握った。
手の平にすっぽり収まってしまう琥珀の手に、俺は時の流れを感じていた。
琥珀は、こんなに小さな女の子だったのか。
「琥珀、大丈夫だから、もう泣くな」
「うん……」
鼻を啜りながら頷く琥珀。
姿は変わっても、心は昔のまま、お互い何も変わらないままだった。
* * *
しばらくして、雨があがり、燃えるような夕焼けを窓の外に感じながら、琥珀はぼんやり考えていた。
誰が何と言おうと、自分の気持ちをないがしろにするのは良くない。
思い出まで否定してしまっては、心が可哀相だ。
強くならなくちゃ、大切な想いを守れない。
悠希を好きだという気持ちを守れるのは自分しかいないのだから。
「悠ちゃん、手、もう離していいよ」
「え? あ、ああ! ごめん」
私と同じく窓の外の夕陽を見つめていた悠ちゃんは、未だ繋いだままだった手を指摘され、慌てて手を離した。
名残惜しさを感じながらも私はクスリと笑いながら赤くなる悠ちゃんを見つめて言った。
「ありがとね、悠ちゃん」
それが夕陽のせいなのか、本当に赤くなっていたのかは不明だが、それでも確かに、私は自分の想いを再確認していた。
私は、彼が好きなのだ。
人に押し付けられたものじゃない。
流された結果でもなく、彼を好きになった。
この気持ちは、私だけのもの。
私はそっと悠ちゃんの肩にもたれかかった。
「琥珀ー、先にお風呂入っちゃいなさーい」
「はーい」
いつもどおりの日常が戻ってきた。
私は自分の中の気持ちに整理をつけ、「悠ちゃん」呼びを再開した。
ある日のこと。
夕食を済ませ、お母さんに言われたとおり入浴しようと着替えを取りに自室を訪れた私。
闇に包まれた部屋の奥、ベッドの上で、私は充電していたスマホが光っていることに気が付いた。
それを手に取った私は、画面を見て、そのままスマホを放り投げた。
ベッドに放られたスマホは相変わらず何かを受信して光り続けている。
画面を覗くと、そこにはおびただしい数の無料通信アプリの通知と、非通知の着信が。
「なんなの……これ」
震える手で恐る恐る放り投げたスマホを再び手に取ると、無料通信アプリから最新のメッセージが受信された。
その内容は。
【許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない】
数十件にも及ぶ過去のメッセージも似たような言葉が延々と続いていた。
怖くなった私は慌ててスマホの電源を落とした。
7話 【スタート】
* * *
不審なメッセージや着信が来るようになってから一週間。琥珀の体力もいよいよ限界に近づいてきた。
直接危害が加えられることはなかったものの、誰かが強い思いで自分に嫌がらせをしているのだという変えようのない事実がどうしても気にかかる。
悩めど何かいい解決案が出るといったこともなく、私は眠れない夜を過ごしていた。
「琥珀、どうしたの? 顔色悪いよ」
一限目の終わり、頭痛で項(うな)垂(だ)れる私を心配して、七海が声をかけてきた。
私は青い顔のまま、ゆっくり口を開いた。
「めっちゃ頭痛い……それになんだかフラフラする」
「ちょっと本当に大丈夫? 保健室行った方が良くない?」
「んー。どうしよう……行った方がいいかな」
チラリと七海の顔色を伺うと、珍しく本気で心配そうな顔をしていた。
「今にも倒れそうだよ。最近寝てないって言ってたし、少し寝てきた方がいいと思う。次の先生には七海が言っておくから、行きなって」
言われて私は鉛(なまり)のような体を持ち上げると、フラフラと歩き出した。
「じゃあ、行ってくるよ」
「一人で大丈夫? 一緒に行こうか?」
「もう予鈴鳴っちゃうし、一人で大丈夫だよ」
「そう……気をつけてね、琥珀」
「うん、七海、ありが――――」
言葉を紡げたのはそこまでだった。
平衡感覚がなくなり、体がゆっくりと床に沈む。
ああ、本当に死にそうな顔をしていたのかもしれない。
このまま倒れたら、床、冷たいだろうな。
そんな呑気なことを考えていた私が倒れ込んだのは冷たい床の上ではなく、温かい、誰かの胸の中だった。
「おっと、大丈夫か、琥珀」
「琥珀! 大丈夫?」
慌てて駆け寄って来た七海の声にゆっくり目を開けると、目の前には驚いた様子でこちらを見る悠ちゃんの姿があった。
クラスメイトたちも、突然の事態に心配そうにこちらを見つめていた。
「え……何? どうなったの?」
事態が呑み込めないまま首を傾げる私に七海は声を荒げて言った。
「倒れたんだよ! 二宮くんがいなかったらそのまま床に頭打ってたんだからね? もー、気を付けてって言ったのに!」
「え……あ……そうなの」
悠ちゃんは、ふらつく私の体を支えながら言った。
「琥珀、保健室、行くぞ」
落ち着いたような、怒っているような悠ちゃんの低い声に、私はビクリと体を震わせる。
「いや、大丈夫だって……一人で行けるし、それに、みんな見てるから離して」
私は無言で手を引かれていく。
クラス中が一連の流れを呆然と見ていた。
一年生の教室は三階、保健室は一階の端にあり、歩くと少し遠い。
しばらく無言のまま悠ちゃんに手を引かれていた私だったが、階段を下りながらようやく口を開くことが出来た。
「悠ちゃん、もういいよ。一人で歩ける」