「……今日、ありがとうね。ごめんね、心配かけて」


 花音は、ボクの背中でそんなことを言った。

 面と向かって話すのが恥ずかしいからって、実の兄の寝床に潜り込むだなんて、羞恥の基準がおかしい気もするけれど、案外慣れてしまえば人肌は存外心地よく、暗闇も心を落ち着かせてくれるいいスパイスになっていた。

 普段とは違う状況に、開放的になっていたのだ。

 だから。


「なあ、花音。素朴な疑問なんだけど、お前、好きな奴っているのか?」


 だから、つい、魔が差した。

 花音はボクの言葉に一瞬体を強張らせ、一度深く息を吸い込んでから言った。


「私が中学生になったばかりの頃、お兄ちゃんに好きな人の話をしたの覚えてる?」


 それは、夕方、花音を探していた時にボクの脳内にあった昔話と同じだろう。

 彼女の言葉の意味を、ボクはこの後知り、期待し、落胆し、後悔することになる。


「もちろん」


「今でも私、ずっとその人のことが好きだよ」


「おう……そっか」


「今ならあの時の質問に答えてもいいよ。教えてあげよっか、私の好きな人」


 それ以上は口にさせてはならない。そう思うのに、強烈な誘惑にボクは負けそうになっていた。


「教えてあげる。私の好きな人は……」


 その言葉を彼女の口から言わせてしまう事がどれほど罪深いことかと知りながら、ボクは心のどこかで喜んでいる。

 喉が渇いて干からびそうな時、目の前に、手の届く距離に飲み水を差し出され、何が入っているか分からないからと受け取ることを拒否できる理性を持った人間が、この世に一体どれほどいるだろう。

 ボクは、それほどの理性を持ち合わせてはいなかった。

 だから、最愛の妹に、言わせた。言わせてしまった。







「私の好きな人は、お兄ちゃんだよ」



 取り返しのつかない一言を。