危機感を覚えて、思わず腕を前に出して庇う。すると、ぶつんと嫌な音がして、今まで感じたことがないくらいの激痛が襲った。

「うっ、ああああっ……‼」
「ま、真宵――――‼」
「真宵ちゃん!」


 堪らず悲鳴を上げて、固く目を瞑る。ボタボタと生暖かいものが流れて行き、末端から体が冷えてくる感覚がした。


 誰かの焦る声、悲鳴、それに慌ただしく走り寄ってくる音がする。
 私は、全身にじわじわと汗が滲むのを感じながらも、倒れそうになるのを必死に堪えて、叫んだ。


「駄目! 誰も来ないで‼」


 すると、足音が止んだ。代わりに、自分の乱れた呼吸音と、朧の唸り声が聞こえてくる。私は間近に迫った朧の顔を見つめると、ぎこちなく笑みを浮かべて言った。


「なーんにも、怖くないよ。朧」


 そして、無事だった方の手で朧の鼻面を撫でてやる。口の周り、喉の下にも手を伸ばして、擽るように軽く撫でてやった。


「……」


 すると、朧の唸り声が収まった。ホッと胸を撫で下ろし、頭がくらくらするのを感じながら、腕に噛み付いたままの朧に言った。


「大丈夫、私は朧に怯えたり、朧を傷つけたりしない。どこにも行かない。約束するよ。だから朧……私の話を聞いてくれる?」


 そう言い終わると、じっと朧を見つめた。


 もう、手の感覚がない。あまりの痛みに、脳はそれを伝えるのを止めてしまったらしい。絶え間なく温かいものが私から零れ、流れていく感覚だけが残っている。


 すると――朧は、ゆっくりと口を開いていった。
 赤く染まった牙が抜け、私の腕から離れていく。私は、その様子を瞬きひとつせずに見つめていた。


「……なぜだ」


 その瞬間、朧が声を発した。
 四対の赤い瞳に、徐々に暖かい色が戻ってくる。私はそれを見るなり、ホッとしてしまって、思わずその場にへたりこんだ。噛みつかれた腕を見ると、着物の袖が真っ赤に染まっている。随分と出血が多いようだ。


 けれど、今は手当てどころじゃなかった。朧がまた、私と言葉を交わしてくれた。そのことが嬉しくて、私は舞い上がってしまった。


「よかった……朧が戻ってきた」


 ポロポロと涙を零し、安堵の息を漏らす。
 すると、朧は酷く険しい顔になって言った。


「お前は、俺を見限ったのではなかったのか」


 その言葉に、私は一瞬きょとんとすると、次の瞬間には破顔一笑した。


「よく考えてみてください。私が朧を見限る理由がありません」
「しかし……」
「あなたの友人が、いらぬ気をきかせただけのようですよ。私も随分と悩みました。後で、かの神を叱ってくださると私の気も晴れます」
「そういうことか。……アレの言葉を真に受けた俺が愚かだった」


 朧は深く嘆息すると、私を改めて見て、盛大に顔を顰めた。


「俺はなんということを」


 そして、怪我をした腕に鼻面を近づけると、ぺろりと舐めた。


「あっ……」


 流石に痛みを感じて、腕を引っ込める。すると、朧は途端に動揺し始めた。


「ま、真宵。すまなかった。――ああ、これはいかん。真宵が、真宵が……! さ、櫻子、凛太郎‼ なにをしている。早く手当てを……!」
「朧、そんなに慌てないで」
「けが人が言うことか‼ ええい、黙っていろ。誰か真宵をどこか温かい場所に」


 ――ああ、なんだか懐かしいな。


 くすりと笑みを浮かべる。
 誰よりも優しく、私を想ってくれる朧が戻ってきたのだと実感しながら、朧の大きな体に寄りかかった。どうにも、頭がぼんやりして仕方ない。けれども、すぐ傍に朧がいるという安心感が私を包み込んでいて、欠片も不安はなかった。


 朧は、慌ただしく指示を飛ばしている。そんな彼に、私はポツポツと話しかけた。


「朧……私ね、ごはんを作ったんですよ。朧が大変だってきいて、みんなで作ったんです。とっても美味しいですよ。お腹の底から温かくなるごはんです。朧に食べて欲しくて作ったんですよ」
「真宵、頼むから喋らないでくれ。出血を止めなければ」


 ムッとして唇を尖らせる。私は首を横に振ると、朧の体毛に頬を擦りつけた。


「嫌です。ずっと話せなかったんですよ? 朧に伝えたいこと、話したいこと。いっぱいあるんですよ、ちゃんと私の、話、を……」
「真宵?」


 どうにも瞼が重くて仕方がない。


 けれど、まだ私の想いを伝えられていないのだ。ここで眠るわけにはいかない。私は、懸命に瞼をこじ開けると、話を進めた。


「朧、私はどこにも行きませんから。朧も、どこにも行かないでくださいね……」
「真宵? 真宵、しっかりしろ‼」
「ずっと一緒にいてください。ごはんも一緒に食べましょう。家族は、同じ食卓を囲まなくちゃ。今日のごはん、きっと美味しくでき……た……」


 やがて、私はとうとう瞼の重みに耐えられなくなって、目を閉じてしまった。
 徐々に沈んでいく意識の中、私は朧の声を聞いていた。
 ふわふわの黒い毛に包まれ、朧の声を聞いているのは本当に心地が良かった。


 それはまるで、私のために用意された天国みたいだ。


 ――ちょっとだけ、眠ろうかなあ。起きたら、朧とたくさん話さなくちゃ。
 私は、体を弛緩させると、ゆっくりと意識を手放した。