「冬の夜ほど明るいものはない。そう思わぬか、嫁殿よ」
満天の星々が照らす、かつて美しい庭が広がっていたその場所で、太陽と砂漠の国からやってきた神は、歌うように私に話しかけた。
辺り一面、雪で覆われているせいか、明かりひとつないというのにぼんやりと明るい。きっと、雪が星の明かりを反射しているせいなのだろう。頼りなくも幻想的な光に包まれた場所で、私は緊張でカラカラになった喉を、唾で湿らせた。
私の後ろには、みんなが勢揃いしている。私ひとりで行くと言ったものの、心配だからと着いてきてしまったのだ。
すると、それを見た獣頭の神は、片眉を僅かに上げて笑った。
「……随分と大勢で来たものだな。それはいいとして、我は待ちくたびれたぞ。嫁殿は朧の状況を理解しておらぬのではないかと、危惧しておった」
「申し訳ありません。必要なものが瓦礫に埋もれていたので、時間がかかってしまいました」
「ほう?」
私は、不敵な笑みを浮かべている獣頭の神を軽く睨みつけると、ゆっくりと近づいていった。
獣頭の神の足もと、そこには巨大な黒いものが蹲っていた。
幾重にも重なった黄金の輪にがんじがらめに囚われ、ひゅうひゅうとか細い息を漏らしているのは、朧だ。
朧は、真っ赤な瞳をギョロギョロと動かし、何度も身を捩っては、逃げる隙を窺っているようだった。
正気を失ってしまったというのは本当だったらしい。四対の赤い瞳からは、私が好きだった温かみは失われ、辺り構わず鋭い敵意を撒き散らしている。
「――で。どうするつもりだ、嫁殿」
朧の上で胡座をかいていた獣頭の神は、にんまりと黄金色の瞳を細めた。それは、これから舞台でも見ようとしている観客のような、好奇心と期待感に溢れた眼差し。私は、それに言い知れない不快感を覚えながら、獣頭の神に言った。
「朧と話をします。どうか、ふたりきりにしてくださいませんか」
すると、獣頭の神は益々面白そうな顔になって、身を乗り出してきた。
「この状態の朧と対話をすると言うか。心を失い、己の生命が削れるのも厭わぬ、獣と成り果てた朧と?」
私は、囚われている朧に視線を向けた。口の端から涎を零し、金の輪から逃れようと、必死に身を捩らせている。普通ならば、近づくのも躊躇するだろう。
でも――。
「私、朧の奥さんですから」
「……フ。便利な言葉よな」
「でも、間違ってないでしょう?」
獣頭の神は、私の言葉に何度か目を瞬くと――「そうだな」と優しげな笑みを浮かべた。そして、ひらりと朧の上から飛び降りると、「健闘を祈る」と、雪を踏みしめながらみんなの方へと歩いて行った。
「……ふう」
獣頭の神が去って行ったのを確認すると、私はゆっくりと息を吐いた。
白く烟る吐息を視線で追って、それが空気に溶けて消えたのを確認すると、ゆっくりと一歩踏み出す。
――さくり、さくり。
踏みしめるたびに、雪は軽快な音を立てて、不規則に沈み込む。ともすれば転びそうになりながらも、徐々に朧に近づいていく。
冬の空はどこまでも透き通っていて、いつもよりも星がくっきりと見える。空気を吸い込むたびに、胸の奥がスッと冷やされて、ともすれば怖気づきそうな自分を奮い立たせてくれている。
「真宵!」
父が私を呼ぶ声がして、足を止める。見るからに、人ならざるものに近寄っていく私が心配なのだろう。焦った様子で叫んだ。
「本当に――その化け物が夫でいいんだな⁉」
「……」
私は、それには答えなかった。朧を初めて見た両親は、恐怖に身を引きつらせていた。朧の放つ存在感は、普通の人からすれば本能的な恐怖を呼び起こすものだ。不安になったって仕方がない。でも、私にとっては違う。
私は顔だけ父に向けて、ニッと敢えて気楽そうに見えるように笑った。朧が化け物じゃないと反論したい気持ちもあるけれど、今はその時間さえ惜しい。
「朧」
「グルルルルル……」
雪まみれになって、金の輪から逃れようともがいている朧の真正面に立つ。
……ああ、黒い毛のあちこちに雪が絡みついて、大変なことになっている。
巨大な金の輪が、脚に、体に、首に、更には口にまで嵌っていて、とても苦しそうだ。早く解放してあげたい。そんな衝動に駆られるけれど、朧が正気に戻らなければ難しいだろう。
軽く息を整えて、そっと朧に手を伸ばす。
「グアァァァアアアア‼」
すると、朧は威嚇するように叫んだ。そして、拘束されたままの体を、ズルズルと後退させていく。それはまるで、私を恐れているようだった。
「……朧、逃げないで」
小さな声で語りかけ、さくり、雪を踏みしめて一歩前に出る。
緊張で手が湿っている。苦しいくらい、心臓が早鐘を打っている。呼吸が乱れて、目眩がしそうだ。
「朧」
涙が滲んでくる。視界が歪んで、鼻の奥がツンと痛くなった。
「朧、待って。朧……」
私は、震えそうになりながらも、何度も朧の名を呼んだ。そして、朧の目の前に辿り着くと、その場に膝をついた。
「朧、会いたかった」
一言だけ言って、私は朧の鼻先に指で触れた。朧の湿った鼻先は冷たくて、口の周りの毛は、ゴワゴワと独特の手触りがする。なんとも懐かしい触り心地に、顔が緩む。そして、温かな感情に体が満たされて、私は満足げに微笑んだ。
――この時、私の心を占めていたのは、恐怖なんかじゃない。
甘ったるくて、頭がふわふわする。切なくて、辛くない程度に苦しい。
きっとそれは、朧を想う気持ち。恋と呼ばれる感情。
朧を目の前にして、しみじみと実感する。
――ああ、私は本当に朧が好きなのだ。
「会いたかったよ、朧……」
もっと朧に触れたくて、体を寄せる。指先に、そして手のひらに朧の体温を感じて、心が喜びのあまりに震える。
お前のような嫁はいらないのだと、朧に言われたのだと勘違いしていた間は、何故か常に息苦しくて堪らなかった。それはまるで、私が生きる上で必要なものが、失われてしまったような――そんな感覚。
けれど、今はそんなものはどこかへ行ってしまった。あれは朧の言葉ではなかった。まだ、朧に私の気持ちを伝える機会がある。私は、目の前に愛おしい存在がいるという事実だけで、どうしようもないほどの満足感を覚えていた。
「グウゥゥウウウ……」
朧は、唸り声をしきりに上げて、私を四対の真紅の瞳で睨みつけている。朧から注がれる視線には、決していい感情は籠もっていなかった。このままでは、危害を加えられるかもしれない。私は、その可能性に気がついてはいたけれど、自分を抑えることができず、もっと、もっとと手を伸ばした。
その時だ。なにか硬いものにヒビが入るような音が聞こえたかと思うと、朧の鼻面に嵌っていた金の輪が弾け飛んだ。
「――ぬ。まずい。嫁殿、下がれ!」
同時に、獣頭の神の焦ったような声が聞こえて、一瞬、なにが怒ったのかわからずに硬直する。すると、口の戒めが解かれた朧は、私を丸呑みにできそうなほど巨大な口を、勢いよく開いた。
「……ッ!」
視界いっぱいに映ったのは、ずらりと並ぶ鋭い牙。糸を引く唾液。それに、ぬらぬらと濡れて、やけに色鮮やかな赤色を持つ口内――。
――噛みつかれる‼
満天の星々が照らす、かつて美しい庭が広がっていたその場所で、太陽と砂漠の国からやってきた神は、歌うように私に話しかけた。
辺り一面、雪で覆われているせいか、明かりひとつないというのにぼんやりと明るい。きっと、雪が星の明かりを反射しているせいなのだろう。頼りなくも幻想的な光に包まれた場所で、私は緊張でカラカラになった喉を、唾で湿らせた。
私の後ろには、みんなが勢揃いしている。私ひとりで行くと言ったものの、心配だからと着いてきてしまったのだ。
すると、それを見た獣頭の神は、片眉を僅かに上げて笑った。
「……随分と大勢で来たものだな。それはいいとして、我は待ちくたびれたぞ。嫁殿は朧の状況を理解しておらぬのではないかと、危惧しておった」
「申し訳ありません。必要なものが瓦礫に埋もれていたので、時間がかかってしまいました」
「ほう?」
私は、不敵な笑みを浮かべている獣頭の神を軽く睨みつけると、ゆっくりと近づいていった。
獣頭の神の足もと、そこには巨大な黒いものが蹲っていた。
幾重にも重なった黄金の輪にがんじがらめに囚われ、ひゅうひゅうとか細い息を漏らしているのは、朧だ。
朧は、真っ赤な瞳をギョロギョロと動かし、何度も身を捩っては、逃げる隙を窺っているようだった。
正気を失ってしまったというのは本当だったらしい。四対の赤い瞳からは、私が好きだった温かみは失われ、辺り構わず鋭い敵意を撒き散らしている。
「――で。どうするつもりだ、嫁殿」
朧の上で胡座をかいていた獣頭の神は、にんまりと黄金色の瞳を細めた。それは、これから舞台でも見ようとしている観客のような、好奇心と期待感に溢れた眼差し。私は、それに言い知れない不快感を覚えながら、獣頭の神に言った。
「朧と話をします。どうか、ふたりきりにしてくださいませんか」
すると、獣頭の神は益々面白そうな顔になって、身を乗り出してきた。
「この状態の朧と対話をすると言うか。心を失い、己の生命が削れるのも厭わぬ、獣と成り果てた朧と?」
私は、囚われている朧に視線を向けた。口の端から涎を零し、金の輪から逃れようと、必死に身を捩らせている。普通ならば、近づくのも躊躇するだろう。
でも――。
「私、朧の奥さんですから」
「……フ。便利な言葉よな」
「でも、間違ってないでしょう?」
獣頭の神は、私の言葉に何度か目を瞬くと――「そうだな」と優しげな笑みを浮かべた。そして、ひらりと朧の上から飛び降りると、「健闘を祈る」と、雪を踏みしめながらみんなの方へと歩いて行った。
「……ふう」
獣頭の神が去って行ったのを確認すると、私はゆっくりと息を吐いた。
白く烟る吐息を視線で追って、それが空気に溶けて消えたのを確認すると、ゆっくりと一歩踏み出す。
――さくり、さくり。
踏みしめるたびに、雪は軽快な音を立てて、不規則に沈み込む。ともすれば転びそうになりながらも、徐々に朧に近づいていく。
冬の空はどこまでも透き通っていて、いつもよりも星がくっきりと見える。空気を吸い込むたびに、胸の奥がスッと冷やされて、ともすれば怖気づきそうな自分を奮い立たせてくれている。
「真宵!」
父が私を呼ぶ声がして、足を止める。見るからに、人ならざるものに近寄っていく私が心配なのだろう。焦った様子で叫んだ。
「本当に――その化け物が夫でいいんだな⁉」
「……」
私は、それには答えなかった。朧を初めて見た両親は、恐怖に身を引きつらせていた。朧の放つ存在感は、普通の人からすれば本能的な恐怖を呼び起こすものだ。不安になったって仕方がない。でも、私にとっては違う。
私は顔だけ父に向けて、ニッと敢えて気楽そうに見えるように笑った。朧が化け物じゃないと反論したい気持ちもあるけれど、今はその時間さえ惜しい。
「朧」
「グルルルルル……」
雪まみれになって、金の輪から逃れようともがいている朧の真正面に立つ。
……ああ、黒い毛のあちこちに雪が絡みついて、大変なことになっている。
巨大な金の輪が、脚に、体に、首に、更には口にまで嵌っていて、とても苦しそうだ。早く解放してあげたい。そんな衝動に駆られるけれど、朧が正気に戻らなければ難しいだろう。
軽く息を整えて、そっと朧に手を伸ばす。
「グアァァァアアアア‼」
すると、朧は威嚇するように叫んだ。そして、拘束されたままの体を、ズルズルと後退させていく。それはまるで、私を恐れているようだった。
「……朧、逃げないで」
小さな声で語りかけ、さくり、雪を踏みしめて一歩前に出る。
緊張で手が湿っている。苦しいくらい、心臓が早鐘を打っている。呼吸が乱れて、目眩がしそうだ。
「朧」
涙が滲んでくる。視界が歪んで、鼻の奥がツンと痛くなった。
「朧、待って。朧……」
私は、震えそうになりながらも、何度も朧の名を呼んだ。そして、朧の目の前に辿り着くと、その場に膝をついた。
「朧、会いたかった」
一言だけ言って、私は朧の鼻先に指で触れた。朧の湿った鼻先は冷たくて、口の周りの毛は、ゴワゴワと独特の手触りがする。なんとも懐かしい触り心地に、顔が緩む。そして、温かな感情に体が満たされて、私は満足げに微笑んだ。
――この時、私の心を占めていたのは、恐怖なんかじゃない。
甘ったるくて、頭がふわふわする。切なくて、辛くない程度に苦しい。
きっとそれは、朧を想う気持ち。恋と呼ばれる感情。
朧を目の前にして、しみじみと実感する。
――ああ、私は本当に朧が好きなのだ。
「会いたかったよ、朧……」
もっと朧に触れたくて、体を寄せる。指先に、そして手のひらに朧の体温を感じて、心が喜びのあまりに震える。
お前のような嫁はいらないのだと、朧に言われたのだと勘違いしていた間は、何故か常に息苦しくて堪らなかった。それはまるで、私が生きる上で必要なものが、失われてしまったような――そんな感覚。
けれど、今はそんなものはどこかへ行ってしまった。あれは朧の言葉ではなかった。まだ、朧に私の気持ちを伝える機会がある。私は、目の前に愛おしい存在がいるという事実だけで、どうしようもないほどの満足感を覚えていた。
「グウゥゥウウウ……」
朧は、唸り声をしきりに上げて、私を四対の真紅の瞳で睨みつけている。朧から注がれる視線には、決していい感情は籠もっていなかった。このままでは、危害を加えられるかもしれない。私は、その可能性に気がついてはいたけれど、自分を抑えることができず、もっと、もっとと手を伸ばした。
その時だ。なにか硬いものにヒビが入るような音が聞こえたかと思うと、朧の鼻面に嵌っていた金の輪が弾け飛んだ。
「――ぬ。まずい。嫁殿、下がれ!」
同時に、獣頭の神の焦ったような声が聞こえて、一瞬、なにが怒ったのかわからずに硬直する。すると、口の戒めが解かれた朧は、私を丸呑みにできそうなほど巨大な口を、勢いよく開いた。
「……ッ!」
視界いっぱいに映ったのは、ずらりと並ぶ鋭い牙。糸を引く唾液。それに、ぬらぬらと濡れて、やけに色鮮やかな赤色を持つ口内――。
――噛みつかれる‼