やたら緊張した様子で、真宵があるものを見つめている。そこには、鉄製のフライパンと白く曇ってしまったガラスの蓋があった。


「いいですか。取りますよ」
「早くしろ、油が跳ねている音がしているではないか」
「獣頭の。真宵に任せておけと、何度言ったらわかる」
「失敗したくないので、黙っててください!」


 三人でコンロの前に集まって、押し合いながらフライパンを覗き込む。そして、ゆっくりと真宵が蓋を持ち上げると、ふわりと白い湯気と熱が頬を撫でて行った。


「「おおおお……」」


 フライパンの中には、こんがりと焼き目がついたおやきがあった。


 今まで蒸していたせいか、表面はしっとりと濡れていて、油が光を反射して艶めいている。それを見た瞬間、図体のでかい神ふたりで歓声を上げる。逆に、真宵は慣れた様子で、フライ返しでおやきの焼け具合を確認すると、満足そうに頷いた。


「うん、いいですね。かぼちゃのおやき、完成です!」


 そして、手早くおやきを皿に乗せると、俺にそれを渡した。


「熱々が美味しいんですよ! 食べてみてください」
「……ありがとう」


 俺は、遠慮がちにそれを受け取ると、じっと見つめた。


 ――あの時は、大事にしすぎて味がしなかった。
 コイツは、一体どういう味がするのだろう?


「嫁殿、早く我にも!」
「はいはい」


 獣頭の神が、自分にも寄越せと騒いでいる。真宵は、少し困ったような顔をして、相手をしてやっていた。それを他所に、俺は恐る恐るおやきに手を伸ばした。触れた瞬間、痺れるような熱さを感じて、手を引っ込める。箸を用意しようかと考えたが、俺は気を取り直すとそのまま指でつまみ上げた。


 人であれば火傷をするだろうが、神である俺が傷つくことは滅多にない。それでも一応、息を吹きかけて冷ますと――思い切り齧りつこうとして、やめた。


「えっ、朧。なんで素手で持ってるんですか⁉ 熱いでしょう……って、どうしたんですか?」


 首を傾げた真宵に、俺は「熱いわけではない」と首を振ると、ぼそりと言った。


「……もったいなくて」


 すると、真宵が突然噴き出した。口もとを手で覆って、肩を揺らして笑っている。すると、俺の小さな妻は、目端に涙を浮かべて言った。


「いっぱいありますから、大丈夫ですよ。おかわりしてくださいね」
「……わかった」


 恥ずかしくなって、真宵から視線を反らす。すると、真宵は益々笑った。
それを複雑に思いながら、指で摘んだままのおやきを、もう一度見つめる。
そして――思い切り齧りついた。


「……はふっ」


 その瞬間、具の熱さに息を漏らす。同時に、口の中に広がったその味に、思わず目を見開いた。


 味噌と生姜で炒めたひき肉の脂。それが、甘いかぼちゃと上手く調和している。味噌の香ばしさ、しょっぱさ、生姜の風味……それと、かぼちゃのねっとりした食感。舌の上で滑らかに広がるそれを味わっていると、時々肉の旨みに出会う。主役はあくまでかぼちゃだが、時々感じる肉の味がいいアクセントとなっている。


 それに、真宵が「もちカリ」と表現していた生地!


 外の蒸気に当たった部分は、もっちり。フライパンに直に触れていた部分は、油で揚がったようになっていてカリカリ。その食感の違いが楽しい。底の部分は、生地が少し厚くなっているから小麦の風味が強いし、逆に綴じ目に近い部分は薄いから、かぼちゃとひき肉の味がよく沁みていて、これもまた美味だ。


 ――お前は、こんな味をしていたのか。


 あの日、パサパサして味がしなかったお供え物を思い出す。


 ……ああ、早く食べてやれば良かった。


 こんなに美味いのに、執着するあまりに、台無しにしてしまった。
 ほんのり後悔して、もうひと口齧る。そして、しみじみと美味いと思った。


「あの、朧……? 大丈夫ですか?」


 すると、真宵が心配そうに俺を見つめているのに気がついた。懐から手ぬぐいを出し、懸命に体を伸ばして俺の頬を拭う。なにかあるのかと、自分の頬に触れてみる。そして、そこが濡れているのに気がつくと、俺は小さく声を上げた。


「……あ」


 知らぬ間に泣いていた自分に、心底驚き、動揺する。そしてそんな自分を、真宵に見られてしまったことを恥ずかしく思った。


「目に、ゴミでも入っちゃいましたかね?」


 自分を気遣って、声をかけてくれる妻に視線を向ける。真宵は心配そうに眉を八の字にして、俺を見つめていた。


「真宵」


 俺は、小柄な妻に手を伸ばした。
 そしてそのまま、その小さな体を思い切り抱きしめる。か細く、すぐに折れてしまいそうな体を腕の中に収めて、ほうと熱い息を吐いた。


「えっ? おぼ、ろ……っ⁉」


 動揺したのか、真宵の声が裏返っている。俺はそれに構わず、真宵の首もとに顔を埋めると、声が震えそうになりながらも言った。


「――美味い。本当に美味い。真宵、ありがとう」
「ど、どういたしまして……?」
「これなら、何個でも食べられる。また作ってくれるか」


 すると、真宵は弾んだ声で答えた。


「もちろんです!」


 俺は、真宵の首もとに顔を埋めたまま、「頼む」と小さく呟いた。


 小さな体から伝わる体温、少し汗ばんだ首もとから香る、甘い匂いに浸る。するとその時、ふと俺の耳に小さな声が聞こえてきた。


『――……朧が喜んでくれて良かった』


 それは、真宵の心の声だ。
 それを耳にした瞬間、心臓が跳ねた。聞いてはいけない――そう思うのに、真宵の体温が心地良すぎるあまりに離れがたくて……行動が遅れてしまった。


 次の瞬間、俺は後悔した。絶対に耳にしたくないと思っていた、妻の「本心」が聞こえてきたからだ。


『実家の食堂を再開したら、今日の朧みたいに、みんなに喜んで欲しいな』


 その声を聞いた瞬間、俺は息を呑んだ。


 それは、真宵の小さな願い。けれども、実家でもあり、店舗でもある場所を守るため、人外に嫁ぐ決意をするほどの願い。
そしてそれは、俺の下を離れた後の願いだ――……。


 俺は、ゆっくりと真宵の体を離した。俺に抱きしめられていた真宵は、まるで茹で蛸のように全身が赤く染まっている。彼女は、視線を宙に彷徨わせると、慌てた様子で言った。


「わ、私……凜太郎と櫻子を呼んできますね。ほら、いっぱい作ったから、食べて欲しいですし‼」


 そして俺に背を向けると、パタパタと足音を立てて走り去っていった。


「――まったく。我の存在を忘れるな、阿呆」


 すると、非常に不機嫌そうな声が聞こえたので、ゆるゆると視線を移す。そこには、板間に座り込んで、ガツガツとおやきを食べている獣頭の神の姿があった。


 獣頭の神は、指に着いたかぼちゃを赤い舌で舐め取ると、俺に鋭い視線を向けた。


「なんぞ、変なものでも聞いたか。朧よ」
「……」
「だから言ったであろう。人に執着すると碌なことがない」
「――言うな、獣頭の」


 近くにあった椅子にどかりと腰掛ける。すると、胸に違和感を覚えて手で擦った。同時に、息苦しさも感じる。これは一体どうしたことだろう。


 すると、それを見た獣頭の神が、僅かに眉を顰めて言った。


「どうしたのだ、朧。どこかおかしいのか」
「……わからない。どうにも体の調子がおかしい。胸の辺りが苦しくて息苦しい。最近、こういう事が多くて困惑している」


 すると、獣頭の神がポンと手を叩いた。
 しゃらん、と金の腕輪が、派手な音を鳴らす。


「フム、なるほど――。おそらく、それは人間風に言えば、『愛おしさ』を感じているということではないか?」
「愛おしさ……?」


 俺が首を傾げると、獣頭の神はクツクツと喉の奥で笑った。


「愛に伴う感情のことだ。苦しく、胸が締め付けられるようになり、対象への執着が増す。……フン、お前はアレを愛している。つまりはそういうことだ」


 ――俺に、『愛』が?


 知らぬ間に、そんな感情が芽生えていたことに、驚きを隠せない。


「どうして、そんなことを知っている。獣頭の」


 すると、獣頭の神は皮肉な笑みを浮かべると、どこか遠くを見て言った。


「……我も、随分と永い時間を現世で過ごしたからな」
「そうか」


 俺は、なにか抱えているらしい友に苦笑すると、ぽつりと漏らした。


「俺の能力が、他人の欲しいものがわかる能力で良かった」
「何故だ?」
「何故って……」


 俺は、自嘲気味に笑って言った。


「自分の望むものまで知れたら、苦悩のあまり、おかしくなっていただろうからな」


 すると、獣頭の神はブッと勢いよく噴き出した。


「人がどうしてこれほどまで、お前を恐れるのか……今まで不思議に思っていたのだが、今日その答えを見つけた気がする」


 そして、俺に指を突きつけると、自信たっぷりに言った。


「お前は神の癖に、魂が人に寄り過ぎているのだ。しかも、人のように薄汚れていない。なのに、異形の姿をしている……。人からすれば、なるほど恐怖であろうな。自分によく似たものが、化け物となって現れるのだ。逃げたくもなる」
「そういうものか?」
「あながち、外れてはいないと思うがな。愛、いいではないか。それに、アレとお前は夫婦だ。過剰な執着は避けるべきだとは思うが、そんな感情が芽生えても不自然ではない。さっきはなにを聞いたのかは知らぬが、そんなもの無視してしまえ。人は環境によってコロコロ望みを変える。今、嫁殿が抱いた望みが、不変のものだとは限らぬであろう?」
「……獣頭の、それは――」


 ――したり顔の獣頭の神に、相槌を返そうとしたその時だ。全身に激痛が走り、思わず口を閉ざす。そして、どうにも座っていられなくて、土間の上に崩れ落ちた。


「お、おい? 朧?」


 獣頭の神が、驚いた様子で俺にかけよってきた。


「どうした。なにがあった。しっかりしろ‼︎」
「……ッ! あ、ああ……っ!」


 焦った声で、獣頭の神が俺に呼びかけている。けれども、全身を苛む激痛のせいで、それに反応を返すことはできなかった。


 痛みと共に、徐々に体が熱を持ち始める。内臓から肌まで、燃えるように熱く、そしてその熱は激痛を伴っている。まるで、体の内から、外から、轟々と燃え盛る炎に炙られているようだ。呼吸もままならず、声も上手く出ない。
なにが起こったのかと、恐る恐る体の内に意識を向ける。すると、自分の中に、ほぼ力が残っていないのに気がついた。


 先ほど力を補充したはずなのに、これはどうしたことだろうか。
 苦労して目を開けて、自分の体を見下ろす。すると、人を模した肌色の腕から、黒い毛がはみ出しているのが見えた。


 人化が解け始めている――?


 それを理解した瞬間、すべてが繋がった。


 ……ああ、真宵と共にいたいがために、人化ばかりしていたからか。
 巨大な体を、小さな体に押し込めるこの術は、体への負担が大きい。真宵が来てからというもの、毎日人化していたのも仇になったようだ。無理をしていたのが、ここにきて、ドッと皺寄せが来たということらしい。


――来年の春までは、と思っていたのだが。


 すると、酷く焦った様子の獣頭の神が、俺の顔を覗き込んできた。奴は、太陽みたいな瞳を大いに揺らし、なにかを悟ったように慎重な口調で尋ねてきた。


「朧……主、まさか。妻殿と、なにもしておらぬのではないだろうな」
「……」
「人と交わること。それと、後継を作ることは、神にとって力を強める手っ取り早い手段よ。そのための嫁取り、そのための人身御供――。お前が知らないはずがなかろう。力の補充のために嫁取りをしたのだと、この先も生きる気になったのだと、安心しておったのに。違ったのか⁉ 説明せよ、朧‼」


 俺は、黄金色の瞳に激しい怒りを湛えている獣頭の神を手で制すと、無理矢理笑みを形作って言った。


「……大切、なのだ」
「大切?」
「真宵を傷つけたくない。あの娘の番(つがい)が、こんな恐ろしい化け物などと……可哀想であろう? 元々、一年経てば手放すつもりだった。そこまで見守ることができれば、俺はそれで満足だったのだ」


 すると、獣頭の神はくしゃりと顔を歪めると、怒りに顔を染めて言った。


「馬鹿者めが‼ 妻殿から注がれる視線を! 言葉を! そこに籠もった気持ちを! お前は、なにひとつとして受け取っていなかったのか‼」


 獣頭の神は、俺の胸ぐらを掴むと、激しく揺さぶりながら言った。


「お前は、俺からすればまだまだひよっこぞ。神になってから、まだ数百年ほどしか経っておらぬであろう。嫁殿が言っていた。初めは不格好でいいと。そのうち、お前を信じてくれる信者が現れるかもしれないではないか! 足掻け。がむしゃらに生きろ! 嫁殿を置いて逝くつもりか!」


 獣頭の神が叫んだ瞬間、みしりと嫌な音が周囲に響いた。


 痛みを耐えながら、辺りに視線を向ける。すると、屋敷の至る所が歪み、亀裂が入って、柱が、天井がみしみしと悲鳴を上げているのに気がついた。


「な、んて、ことだ……」


 ――このままでは、屋敷が崩れてしまう。


 このマヨイガは、俺の力によって形作られている。源となる俺の存在の危機に引きずられて、早くも崩壊を始めているようだ。俺は緩慢な動きで唇を無理やり動かすと、獣頭の神に頼み込んだ。


「……もし、俺が死んだら、妻と、屋敷のみんなを頼む」
「――この期に及んで、言うことはそれか。この、馬鹿者めが」


 獣頭の神は、顔を盛大に歪めると、けれども力強く頷いてくれた。
 俺は、ホッと安堵の息を漏らすと、ゆっくりと瞼を下ろしていった。
 残り少ない命を、これ以上削るわけには行かない。人化を解き、体を休眠状態に導く。こうしておけば、かろうじて春までは保つだろう――。


 その時、あることが脳裏を過った。


 それは、もったいないと時間を置き過ぎて、味がしなくなってしまった供物のことだ。白くて丸くて、平べったい。あれほど美味しいのに、俺が食べずにいたせいで、すべてが台無しになってしまったもののことだ。


 ――俺は、また同じ過ちを犯そうとしているのかも知れんな。


 ふう、とゆっくりと息を吐く。たったそれだけのことで、全身に激痛が走る。俺は、口もとを緩めると、一年間限定の妻のことを想った。


 ――真宵。


 お前は、ここにいた間、なにを思って過ごした?


 やはり、お前の幸せの在り処はあの食堂にあるのだろうか。
 なら、化け物に嫁ぐほどに大切なあの食堂で、必ず幸せになってくれ。
 今まで、お前から充分過ぎるほどに色々と貰った。だから、俺はこれで充分。


 人から恐れられ、誰にも心を預けて貰えない神失格の俺は――。
 多分、お前が幸せになる手伝いをするためだけに生まれたのだ。


 だから、真宵。
 どうか、どうか、どうか、幸せに。
 お前の美味い飯で、また誰かに笑顔を与えてやってくれ。
 俺は、もう充分過ぎるほどに味わったから、今度は俺じゃない誰かを笑顔にしてやってくれ。


『『これからも、ずっとふたりで』』


 その時、未練を解消して天に昇っていった夫婦の心の声を思い出した。
 お互いに、正直に気持ちを言葉にしていたなら、こんなに遠回りしなくて良かったのにと語るふたりは、とても幸せそうだった。


 ――もし俺が、真宵に自分の気持ちを正直に伝えていたならば。
 なにかが、変わっていたのだろうか。


「朧! 朧、死ぬなよ‼ 今まで散々面倒を見てやったではないか。恩を返せ。それまでは死ぬな‼ 頼む、友よ……」


 ……ああ、獣頭の神の声が、遠くに聞こえる。
 真宵は、今ごろなにをしているのだろう。凛太郎は、櫻子は……。




 俺は、徐々に重くなっていく瞼の向こうに、色鮮やかな紅葉を見た。
 秋が終わる。
 色鮮やかな――俺の、好きな季節の終わりが近づいていた。