はらり、一枚の落ち葉が俺の鼻に乗った。


 それは、真っ赤な色をした紅葉だった。秋の透き通った光を浴びて、色鮮やかに変化した紅葉は、穏やかな風に吹かれてゆらゆらと揺れている。


 俺は、それを払うこともせずに、薄目を開けて眺めた。まるで血管のような葉脈を見つめているうちに、また一枚、また一枚と俺の上に紅葉が降り注いでくる。


 次に、こつんと落ちてきたのは、どんぐりだ。小さな帽子を被ったどんぐりは、俺の鼻に当たると、ころころと転がっていった。洞窟の天井の裂け目付近に、楢の木が生えているらしい。毎年秋になると、それ目当てで食欲旺盛なリスがやってくる。それを眺めるのが、俺の小さな楽しみだった。


 俺は――この時、すでに人と関わり合うのを諦めていた。


 なにをしても恐れられるばかりで、信仰を得るどころか、まともに話をすることすらままならない。それでも、数百年はどうにかならないかと足掻いた。だが、足掻けば足掻くほど、虚しくなるばかりだった。


 神として生まれたのに、神であることができない。誰からも心を預けて貰えないことが苦しくて、俺はすべてを諦めて山に引きこもった。


 それ以来、適当に見つけた洞の中でじっとしている。一度、山に入り込んだ人間に目撃されてしまった時は、どうなることかと思ったが――ほとぼりが冷めた頃に戻って来てみると、なぜかこの場所が禁足地とされていた。小さな祠が造られ、よくわからない石像が祀られていたのには笑ってしまったが、人間から近づかなくなってくれたのはこれ幸いと、この場所に居座っている。


 ――地上に降り立ってから、何百年経過したのだろう。


 長年、誰とも話していない。そのせいで、声を出す方法も忘れてしまった。なにをするでもなく、まるで元からそこにあったように、春は新緑を眺め、夏は燦々と振り注ぐ太陽の光を浴び、秋は落ち葉に埋もれて、冬は雪の下に眠る。それが、俺の世界のすべてだった。


 常に脳裏に浮かんでいるのは、信仰を得られなかった神の末路――。
神は人の信仰心によって、力を得る。逆に言えば、人から信仰して貰えなければ、元々持っていた力をすり減らしていくだけだ。


 ……神の死。それは、誰にも信じて貰えなくなった時だ。


 今日もまた、昨日の続きがやってくる。俺は、体の内にある力の残量が尽きるのを、ただひたすら待っていた。


 そんなある日のことだ。
 四季しか変わらないと思っていた俺の日常に、変化が現れた。


「おお……。いい感じじゃん‼」


 それは、元気いっぱいな少女の声だった。どうも、洞の入り口の辺りで騒いでいるらしい。少女の他にも、複数の少年の声が聞こえた。


「ここはやばいって、母ちゃんが言ってた」
「そうそう、近づくなって。お化けが出るんだって」


 随分と時が流れているはずなのだが、人の間では、まだここは禁足地という扱いらしい。なのに、子どもたちはここにやってきてしまったようだ。話の内容から、乗り気なのは少女だけで、少年ふたりは嫌々のようだが。


「そんなの、大人がここに近づけないようにって、方便を使ってるだけよ。ほら、なにもいないし、なにも起こらないでしょ?」


 ……ここに、忘れられた神がいるのだが。


 まあ、俺は子どもたちに害を与えるつもりはないから、特別なことは起こり得ない。だが、木の葉に埋もれて身動きひとつしない俺の存在を、少年たちは本能で敏感に察知したらしい。どこか、不安そうな声を上げた。


「俺、なんか寒気がする」
「……俺も。帰ろうぜ? 真宵~」


 すると、真宵と呼ばれた少女は、勝ち気そうな声で言った。


「じゃあ、あんたたち帰れば。私は残るから! 欲しかったんだ。こういう洞穴の中にある秘密基地‼」


 ……この子どもは、一体なにを言っているのだろう。


 思わず呆気に取られていると、なにやら話し合いをしていた子どもたちは、それぞれ別の方向に歩き出した。残ったのは、真宵と呼ばれた少女ひとり。本当に、ここを秘密基地にするつもりなのだろうか。


 すると、真宵はゆっくりと洞の中に入ってきた。
 天井の裂け目から差し込む光が、警戒しながら入ってきた少女の姿を照らし出す。


 真宵は、日本人にしては明るい色の髪を、かなり短く切っていた。俺が知る人の女性は、長い髪であることに価値を見出していた気がするのだが、今はそうでもないらしい。着物ではなく、やたらとペラペラした薄い布で作った、露出の多い服を着ていて、勝ち気そうな発言とは裏腹に随分と小柄だ。


 体のあちこちに傷を作っていて、膝小僧なんて青あざで黒くなってしまっている。本人がまったく意に介していない様子から、自分でこさえた傷のようだ。発言通りに、やんちゃであることが窺える。


「わあ……。綺麗」


 真宵は、焦げ茶の瞳をまん丸にすると、天井を見上げてにっこりと笑った。釣られて、俺も上に視線を移した。天井の裂け目から、はらはらと赤い欠片が舞い散る様は、確かに美しく思えるかもしれない。けれども、俺にとっては何年も繰り返し見てきた光景だ。笑顔になるほどの感動なんてない。


 すると、真宵は近くに落ちていた木の枝を拾うと、洞の中を探検し始めた。


 俺はその様子を、身じろぎひとつせずに眺めていた。別に、見られて困るも
のなんてひとつもないが、久しぶりの人間に興味があったからだ。


「わ……。なんだこれ」


 すると、真宵はあるものに気がついた。


 それは、遠い昔に人間が造った祠だ。
 おそらく、そこに祀られているのは俺なのだろう。恐ろしい見た目の化け物を鎮めるために……とか、適当な理由で造ったのだと推察できる。けれど、その中にはなにもいない。なんてたって、本人は落ち葉に埋もれて、絶賛、人間観察中だ。


 けれど、そんなことは真宵が知るはずもない。


 真宵は、興味深そうに祠を覗き込むと、ぽつりと言った。


「……神様がいるんだ」


 その瞬間、真宵はシュンとして肩を落とした。そして、途端に不安そうに辺りを見回し始める。どうやら、ここに先住(・・)がいた事を知って、居心地悪く感じているらしい。ゆっくりと立ち上がると、小走りで洞を出ていってしまった。


 ――行ったか。


 胸を撫で下ろし、同時に少しだけ寂しく思った。


 やはり、俺は生まれついての神なのだ。人が傍にいると、どうにも面倒を見てやりたくて仕方がない。


 ……この想いを再確認できただけで、僥倖だった。
 

 なぜならば、人に必要とされていない自分が、如何に「無価値」であることを感じることができたからだ。やはり、ここで命尽きるのを待っているのは、間違いではなかった。俺は痛む胸を宥めながら、ゆっくりと目を瞑った。
 

 そしてそのまま、とろとろと眠りの淵へと落ちていった。


「よっし、始めるかー‼︎」


 しかし、その眠りはすぐに妨げられた。驚きのあまり、思わず立ち上がりかける。俺の上に降り積もっていた落ち葉が、まるで雪崩みたいに滑り落ちた。すると、声の主――真宵は、驚いたように辺りを見回すと、「地震?」と首を傾げた。


 ……少女が戻ってきた。


 その事実に、俺は驚きを隠せなかった。やたら大きなリュックサックを背負っている様子から、ただ荷物を取りに帰っただけなのだとわかる。真宵は、リュックの中身を探ると、そこから色々なものを取り出し始めた。それは松ぼっくりや、山に生えている木の実だ。真宵は、それを満足げに眺めると、いきなり祠に供え始めた。


「こんなもんかなあ」


 仕上げに、空き缶に花を供えて大きく頷いている。岩を削って作られた、苔生した味気ない小さな祠が、一気に賑やかになる。


「あ、どんぐりもいるかな」


 最後に、葉っぱのお皿にそこらで拾ったどんぐりを山盛りにすると、真宵は祠に向かって手を合わせた。そして言ったのだ。


「――神様。しばらくの間、ここを使わせてください。秋休みの間だけですから」


 そう言うと、真宵は白い歯を見せて笑って、またリュックの中身を漁り始めた。


 その時――俺は、なんとも言えない気持ちでいっぱいだった。


 初めて貰ったお供えもの。初めて貰った願いの言葉。
 あまりのことに、思考が停止する。


「神様」と自分を呼ぶ声が、耳の奥に残っている。


 目頭が熱くなって、呼吸が乱れる。ずっと――ずっと欲しかったものが、不意に与えられて、小さな子どものように戸惑う。


 すると、今までリュックを探っていた真宵が、なにかを取り出して動き出した。そして、辺りをキョロキョロと見回すと――突然、俺の方に足を向けた。
 

 ……絶対にバレてはいけない。


 咄嗟にそう思って、息を潜める。そんな俺を余所に、無防備な表情をした真宵は、テクテクと俺の腹の近くで立ち止まると――手にしたそれを広げた。
ふわりと広がったのは、ひとりが座れば埋まってしまうほどの小さな敷物だ。それを、降り積もった落ち葉の上に広げると、真宵はリュックを手にそこに座った。


 そのせいで、俺は益々混乱することになる。なぜならば、真宵が俺に体を預けて寄りかかったからだ。


「いい感じ〜」


 真宵からすれば、背もたれにするのに丁度いい岩があった、くらいの認識なのだろう。なにせ長年動かないでいたせいで、俺の体の上には大量の落ち葉が降り積もっていたし、体の至る所から植物が生えているような始末だったから、無機物と勘違いされたって仕方がない。


 でも――不意に与えられた、小さな、それでいて柔らかいものから伝わってくる温かさに、目頭がまた熱くなってきた。


 腹部から、じわじわと得体の知れない……けれども、酷く優しいものが広がっていくような感覚がして、固く目を瞑る。


 そのあまりの居心地のよさに、頭がクラクラしてきた。


「……」


 そんな俺を余所に、当の真宵は、本を取り出して読み耽っている。手の中の別世界に没頭し、俺の存在になんてこれっぽっちも気づきそうにない。
 

 俺はゆっくりと息を吐き出すと、そっと耳を澄ませた。
 この娘の願いを知りたい。
 そして、できることなら叶えてやりたい。そう、強く思ったからだ。


 その時、聞こえてきたのは、意外な願い。少女の――ちっぽけな願いだ。


『……秘密基地、嬉しいなあ。ここでのんびりしたいな』


 俺は、何度か四対の瞳を瞬くと、苦い笑みを零した。
 ――お安い御用だ。
 俺は少女のひと時を邪魔しないように息を潜めると、目を瞑った。


 それはまるで、夢のような時間だった。
 一生、この時間が続くようにと願うくらいには、心地がよくて。


 空の色が、青いまま変わらなければいいのにと、ずっと祈るような気持ちでいた。
 

 けれども、神といえど俺のような力のない存在が時間を操れるわけもなく、空はあっという間に黄昏色に染まった。すると、帰り支度を済ませた真宵は、祠に向かってまた手を合わせたのだ。


「神様、この場所を使わせてくれてありがとう‼︎」


 その瞬間――俺はやられてしまった。
 少女が紡いだ感謝の言葉。その言葉は、力へと変化して、俺の糧となった。


 その甘さと言ったら‼︎


 とろみがあって、決してしつこくなく、優しく俺の中に染み渡っていく。得も言われぬ上品な甘さ。ゾクゾクと快感が全身を駆け巡り、俺は思わず身じろぎした。


 やがて、真宵がいなくなった洞の中。
 俺は、天井にある裂け目から見える星に願った。


 ――明日も、あの少女が来ますように。


 神だと言うのに、他のなにかに願い事をする矛盾に気づかないほど、真剣に願う。誰かから貰える感謝の言葉。信じる心――そのあまりの心地よさに、俺は夢中になってしまった。その時には、もう頭の中は真宵のことでいっぱいで、自分の寿命が尽きるのを願っていたことなんて、すっかり忘れてしまった。


 俺の願いに応えるように、連日、真宵は洞を訪れてくれた。


 菓子を持ち込んだり、大声で歌ったり、ラジオを聞いたり……。真宵は、秘密基地での生活を楽しんでいるようだった。楽しんでいたのは、なにも真宵だけではない。俺も、少女と過ごす時間を心地よく思っていた。


 同時に、自分の姿を万が一にでも見られたら……という恐怖もあった。
 真宵に拒否されたら――俺は、おかしくなってしまうかもしれない。そんな想いがあったからだ。だから、絶対にバレないように慎重に気配を消した。なにより、真宵の願いは、秘密基地を「ひとり」で楽しむことだ。そこに、俺の存在は必要ない。


「……むにゃ」


 俺にもたれかかって眠る真宵を眺めて、ほうと吐息を漏らす。
 俺は全身に染み渡った甘い感覚に身を任せ、真宵を守るように身を丸めた。