「なにもかも、不幸なことが重なった結果だった」


 ようやく遂げた母子の邂逅――それを眺めながら、朧は語った。


 陽介君は母子家庭だった。ある夏の日――。家に陽介君を置いて、母親は小銭だけを握りしめてコンビニに出かけた。陽介君がアイスを食べたいとねだったからだ。


 しかし、外は酷暑とも呼べる状況で、子どものことを慮った母親は、ひとりで買い物をすることに決めた。けれども、それが間違いだったのだ。


「ふとした瞬間に、部屋のクーラーが切れてしまった。しかし、この幼い子どもは自分でつけ直す事ができなかった」


 普通ならば、数分も経てば母親が帰ってくるのだから、そう問題にもならなかっただろう。けれども、間の悪いことに、母親は家に帰る途中、事故に巻き込まれて死亡してしまった。身分証も、携帯電話すら持たずに出かけた母親。身元を特定するまでにかなりの時間を要した。父親とは離婚して以来、連絡を取っておらず、祖父母とも頻繁に連絡を取り合う仲ではなかった。陽介君の通っていた幼稚園は夏休みで、母親は求職中だった。


 誰も――幼い子が取り残されていることに気がつけなかったのだ。


「……暑くて、暑くて。玄関で、ずっとママを待ってたんだ。でも……全然帰ってこなくて」


 母親に抱かれた陽介君は、当時のことを思い出したのか、また泣きそうな顔になった。そして、母親の首にギュッと抱きつくと、震える声で言った。


「もう僕のこと……置いていかないよね?」


 すると、母親は酷く優しげな表情を浮かべると、「絶対に」と愛おしそうに陽介君を抱き返した。


「――これで、幼子の未練は解消された」


 すると、朧がそう言うのと同時に、陽介君の全身を覆っていた黒い穢れが、みるみるうちに抜けていった。あっという間に、健康的な肌の色を取り戻していく陽介君に呆気にとられていると、朧が口を開いた。


「遅くなってすまなかった」


 朧の謝罪の言葉に、陽介君は明るい笑顔を浮かべて答えた。


「いいよ。お姉ちゃんといっぱい遊んで、そんなに寂しくなかったしね」


 そして陽介君は、今度は私に視線を向けると、悪戯っぽく笑った。


「ごはん、いっぱい作ってくれてありがとう。美味しかった! まあ、ママの作ったごはんの方が美味しかったけどね‼」
「こら、陽介」


 陽介君は、母親に咎められてもニコニコと笑っている。


 私は、苦笑を零すと――大きく頷いた。


「そりゃあね。お母さんのごはんって格別だもの」
「だよね~‼」


 ふたりで笑い合う。すると陽介君の体が、半透明になっているのに気がついた。


 陽介君もそれに気がつくと、一瞬だけ驚いたような顔をした。夕日に小さな手をかざして、まじまじと見つめる。するとなにかを感じたのか、私たちに笑顔を向けると、ひらひらと手を振った。


「神様、お姉ちゃん。色々とありがとう。本当に、本当にありがとう‼」
「息子のために、手を尽くしてくださって――感謝しています」


 陽介君と母親は、感謝の言葉を告げると、お互いに笑い合って――夕暮れ時の、黄昏色に染まる世界に、ふっと溶けるように消えてしまった。


 この世に未練を遺し、天に昇ることもできずにいた幼い子どもの魂は、これでようやく、本来あるべき場所へと戻っていったのだ。





「……いいものを見せて貰った‼」


 朧とふたりで、ぼんやり赤い空を眺めていると、やけに上機嫌な笑い声が響き渡った。笑い声の主――獣頭の神は、朧の背中を容赦なくバシバシと叩いている。


「なるほど。なるほど。これが主ら夫婦のあり方か。面白い見世物だった」
「み、見世物って……」


 あんまりな言い方に脱力していると、獣頭の神は黄金色の瞳を細めて言った。


「見世物に違いあるまい。人間の魂のひとつやふたつ、消えようが悪霊と成り果てようが、神からすれば些細なことだ。なのに、こんなにも大騒動を起こして送ってやるなど……まるで喜劇のようであった。我は満足している」
「……っ。些細なことだなんて。獣頭の神、それはあなたが、そういう風に思うだけではないのですか?」
「いいや?」


 すると獣頭の神は、まるでなんでもないことのように、さらりと言い放った。


「神とはそういうものだ、嫁殿。神にとって、人なぞ取るに足らぬものよ。人がおらねば、困ることは確かだが――。この世界に無数にいるうちの、ひとつに拘ったとて、意味はない。代わりは掃いて捨てるほどいるのだ」


 そう言うと、獣頭の神は黄金色の瞳に冷たい光を宿して、朧に向かって言った。


「――相変わらず優しいことよな、朧よ。その外見を恐れるあまり、自分に心を寄せてくれなかった相手に、いつまで媚びている?」
「…………。俺は、自分のしたいようにしているだけだ。獣頭の」
「フハハハハ‼ 後先考えず、心のままに行動するのも、また神か。フム」


 そして、獣頭の神は私たちに背を向けると――夕日に照らされた霧の中に向かって、ゆっくりと歩き出した。


「相変わらず、お前は興味深い。――また来よう。友よ」


 そんな獣頭の神の後ろ姿を、朧はじっと見つめている。


 神――計り知れないほどの力を持ち、人間を超越した存在。
 私は、獣頭の神の言葉に反発を覚えながら、同時に納得もしていた。
 私たち人は、神に心を寄せる側であって、神が人間に歩み寄ることなんて滅多にない。そういうものだと思っていたし、そのこと自体は間違ってないとも思う。


けれども、同じ神だというのに、朧はどうだろう?


 ひとりひとりの未練を解消したら、手厚くもてなしてから送り出す。なかなか未練を解消できない魂だって、責任を持って最後まで面倒を見ている。
 それは、とても神の為すことだとは思えない。
 どちらかというと、とても人間に寄った行動のように思えた。


 ――ああ。朧は、やっぱり優しい。


 なぜか、その事実がじんと胸に沁みて、泣きそうになる。


 この人が、私の夫であるという事実が誇らしい。
人間にこんなにも寄り添ってくれる神がいるだなんて、その事実が尊くて――気まぐれだったとしても、そんな神に選ばれた自分の幸運を嬉しく思う。


「……俺はきっと、神としては不適格なのだろうな」


 だから、寂しそうに、ぽつんと呟いた朧を放って置けなかった。


 甘酸っぱいような、苦しいような、不思議な感情が胸の奥から溢れてきて、どうしようもなかったのだ。


「……っ、真宵?」


 無言で、朧を背中から抱きしめる。私よりもずっと、ずっと背の高い神様を。


 でも、とても寂しそうな神様の背中を、強く、強く抱きしめた。


 すると、朧が身を固くしたのがわかった。息をするのも忘れて、私の行動に戸惑っているのが伝わってくる。
 私は、微笑みを浮かべると、一言、一言、心を籠めて言った。


「朧、ありがとう」
「……」
「陽介君を、見捨てずに救ってくれて……本当にありがとう……」


 はらはらと、温かい涙が私の瞳から零れて落ちる。
 そうしながら、私は自分の胸が、普段よりもずっと早く鼓動しているのに気がついていた。全身に心地よいものが満ちて、布越しに朧から伝わってくる体温に、どうしようもなく安心感を得ていることを、自覚していた。