オシャレでも新しくもない。
 けれども、常連さんに愛されている下町の食堂――。


 私、高杉(たかすぎ)真宵(まよい)はそこの看板娘だ。


 裕福ではないし、海外旅行なんて夢のまた夢。


 けれど、穏やかに、そして賑やかに食堂で過ごす日々は、私にとってかけがえのないものだった。

 
 高校を卒業してすぐから両親の経営する食堂を手伝っていた私は、いつか誰かと結婚するまでは、同じような毎日が続くのだろうと朧気に思っていた。


 それが、ごくごく普通の自分が歩む道なのだと、信じていたというのに。


『……ご両親が、事故にあわれました』


 ある店休日、自宅にかかってきた電話。単独の自損事故で、車が大破――それを聞いて、慌てて家を飛び出した。


 祈るようにして駆け込んだ病院。待っていたのは、物言わぬ両親の亡骸だった。そこからは、正直あまり覚えていない。気がついたら葬儀は終わっていたし、がらんとした自宅にひとり取り残されていた。


 私に遺されたのは、両親の預貯金、死亡保険金と自宅兼店舗。
 そして――莫大な借金だった。


 知らなかったことだが、人の良かった両親は、親友だった人の連帯保証人となっていたらしい。それは、両親の預貯金や死亡保険金を充てても、私ひとりでは返せないほどの額だった。


 このままじゃ、私の人生滅茶苦茶になる……そう思い、一時は途方に暮れた。

 しかし、それから色々と調べた結果、相続放棄なるものがあることを知った。

 
 遺産には、プラスの遺産とマイナスの遺産というものがある。プラスの遺産というと、店舗や自宅などの不動産だとか、両親の預貯金などだ。そして、マイナスの遺産とは、借金などが該当する。


 つまり相続放棄をすれば、私が借金を返す必要はないのだ。
 しかし、それには条件があった。
それは、被相続者から受け継ぐものすべてを放棄すること。つまり、プラスの遺産も放棄しなければならない。


「ここから出ていかなければならないなんて」


 仏壇の前に座り、唇を噛みしめる。家族と過ごした思い出の詰まった家を手放す。それはひとりぼっちになってしまった私にとって、身を引き裂かれるも同然だった。

 ただでさえ、両親の食堂でしか働いたことのない私だ。この先のことを考えるだけで気が重いのに、住む場所すら失ってしまうなんて。


「私、これからどうすればいいの」


 深く、深く嘆息して肩を落とす。


 そして、おもむろに窓の外に目を遣った。
 夕暮れ時となった町が、茜色に染まっている。下校途中の小学生だろうか。子どものはしゃぐ声が聞こえる。窓から見える家々に、徐々に明かりが灯り始めている。


 夕暮れ時は、バラバラになっていた家族が一同に集う時間だ。食堂を経営していた両親も、夕食時の混雑を前に、この時間だけはゆったりと過ごしていた。夕暮れ時は、両親に甘えても許される時間。私は、この時間がとても好きだった。


 けれど、今となってはもう虚しいだけだ。


 やたら色鮮やかな窓の外に比べて、古びた六畳間は静かに夕闇に侵食されようとしている。私は、電気を点けないまま、闇に同化するかのように両膝を抱えて、ゆっくりと目を閉じた。


 ――ピン、ポォン。
 その時だ。電池が切れかかって、少し間延びしたチャイムが聞こえた。