「なにはともあれ、朧様の朝食が最優先です。その子どもは預かりますから」
「え、えええ……? 不安しかないんだけど⁉」
「やだ! 僕、お姉ちゃんとい……モゴッ!」
「この子どもに危害なんて加えませんよ。さっさと行きなさい!」
――ほ、本当に……⁉
あの後、かなり不安に思いつつも、凜太郎に男の子を預けた私は、急いで家庭菜園で食材を収穫すると、朝食を用意した。
凜太郎があの子に意地悪しないかと気がかりではあったが、今日は朧の友人が来ていたので、遅れるわけにはいかなかったからだ。
今日の朝食は、真っ白な炊きたてごはんに、ぷりぷりの明太子。
擦りたての胡麻と、サッと茹でたほうれん草で作った和え物に卵焼き。箸休めは、キャベツにみょうが、青じそと生姜を、酢でさっぱりと漬け込んだ浅漬け。お味噌汁は、朝採れのナスを白味噌で。
毎日、朧のために料理をするようになってから、以前よりもレパートリーが抜群に増えた。それに、シンプルな素材で、あまり手間をかけずに美味しく仕上げるコツもわかってきたように思う。プロ並みの櫻子に教わり、食べて貰いたい相手のことを考えながら料理する……それは、上達の近道だったのだろう。
けれど、朧が料理を口にするまで、緊張するのは相変わらずだ。
今日の料理はどうだろう――。
ドキドキしながら反応を待っていると、一通り料理に口を着けた朧は、私に向かって小さく頷いた。
「――今日も美味い。ありがとう」
「そ、そうですか」
嬉しくなって、指をモジモジと絡ませる。
美味しいごはんができた時は、朧はいつもお礼を言ってくれる。それを聞くたびに胸がポカポカして、どこか落ち着かない気持ちになるのだ。すると、そんな私たちの様子を見て、朝食に同席していた朧の友人がクツクツと喉の奥で笑った。
「……朝から見せつけてくれる。ああ、熱い熱い。日本の夏は、ただでさえ暑いというのに、勘弁して欲しいものだ」
その人は、一見すると奇妙な格好をしていた。
狼の毛皮を帽子よろしく被って、肌は濃い褐色、そして、金粉を散りばめた濃紺の長い布を身に纏っている。艶やかな夜色の長い髪を彩る髪飾りや、首飾り、ピアスなどはすべて黄金でできていて、焦げた肌色に非常に映えている。逞しい身体には、赤、青、黄色の原色で複雑な文様の刺青が彫られていた。その腕には、金の腕輪を何重にも嵌めていて、彼が動くたびに、シャラシャラと軽快な音を立てる。
唇が厚く、彫りの深い顔をしている彼は、「獣面(じゅうめん)の神」と呼ばれている。
朧の古くからの友人で、色々と仕事を斡旋して貰っているらしい。
仕事の打ち合わせがてら、昨日からマヨイガを訪れていた獣面の神は、夜通し朧とお酒を飲んでいたようだ。
獣面の神は、ニヤニヤと私と朧を交互に見つめると、どこか嬉しそうに言った。
「人間の嫁を貰ったと聞いた時は、どうなることかと思ったものだが。飯も美味いし、いい嫁ではないか。めでたいことだ」
そして、手にしたグラスを傾けると、満足そうに息を吐いた。ちなみに、グラスの中に入っているのは、水で薄めた葡萄酒である。
「これで、益々仕事も捗るだろう。我にとっても、朧にとっても喜ばしいことだ。乾杯をしようではないか。友よ」
獣面の神は、鷹揚な仕草で杯を掲げると、朧に期待に満ちた視線を注いでいる。
初めて会う朧以外の神……かの神が来ると言われた時は、どうしても身構えてしまって、かなり緊張した。けれど、特に偉ぶることもしない、まるで砂漠に吹く一陣の風のような獣頭の神の性格は、そんな私の緊張をあっという間に解してしまった。
一方、普段から寡黙な朧は、友人の乾杯の要求に、緑茶の入った湯呑みで応えていた。まるで正反対のように見えるふたりは、随分と仲がいいらしく、獣面の神に相対している時の朧の表情は、とても穏やかだ。
するとその時だ。朧が僅かに眉を顰めたのが見えた。
続いて、廊下をバタバタと激しく走る音。
そして、スターン! と派手な音を立てて、障子戸が勢いよく開いた。
「キャー! 逃げろ‼︎」
入ってきたのは、あの陽介と名乗った男の子だった。
陽介君は、部屋の中に走ってくると――朧を見つけて真っ青になった。人形をしているとはいえ、朧の放つ底知れぬ存在感が恐ろしいのだろう。私の下へと全速力で走ってくると、背中にしがみついて隠れてしまった。
若干遅れて、凛太郎が姿を現わす。汗だくになり、ややげんなりとした様子の凛太郎は、素早く室内に視線を巡らせると――私の背後に隠れた陽介君を見つけて、眦を釣り上げた。
「お前っ……いい加減に、大人しくしろ‼︎」
「やだよーだ‼︎」
陽介君は私の背中からひょっこり顔を出すと、「お姉ちゃんと一緒がいい‼」と言い放った。凛太郎は、ヒクヒクと口の端を引き攣らせると、ちらりと朧へ視線を向けた。その瞬間、さあっと顔を青ざめさせて、勢いよく頭を下げた。
「朧様。申し訳ございません」
「……」
「すぐに、そこの小僧を連れ出しますので……」
顔を上げた凛太郎は、キッと陽介君を睨みつけると「こっちへ来るんだ!」と叫んだ。獣面の神は、その様子を心から楽しげに眺め、口もとを押さえて笑いを必死に堪えている。
「……クッ、ククク。朧よ。そんな顔をするほど、飯を中断されたのが気に食わなかったのか。どれだけその娘を気に入っているのだ」
「……うるさいぞ、獣面の」
獣面の神の言葉に、思わず朧の顔をまじまじと見つめる。
普段からあまり表情を浮かべない朧だが、確かに不機嫌そうに見える。それを意外に思っていると、私の背中にしがみついていた陽介君が、私の膝の上にちょん、と乗った。そして、ここからは絶対に動かないぞと言わんばかりに、私の胸に顔を埋め、抱きついてきた。
「…………」
その瞬間、朧の整った眉が盛大に引き攣ったのが見えた。
驚きのあまり、目を瞠る。
じとりと陽介君を見つめる様は、あからさまに不満そうだ。
――嫉妬してくれている? 子ども相手に?
その可能性に思い至った瞬間、とくんと心臓が跳ねた。
動揺して、思わず陽介君を抱き返す。すると、朧は益々顔を顰めた。
すると、ニヤニヤ笑いながら、私たちの様子を眺めていた獣面の神が、こんなことを言い出した。
「フム。面白いことになった。なあ、朧。その小僧……例のアレ(・・)であろう。それほど、嫁殿に懐いているのならば、任せてみたらどうだ」
「……ッ。待て、獣面の。それはならん」
「なぜだ。お前の嫁なのだろう? 嫁は夫を助けるものだ」
「そういう問題では――」
「朧よ、黙れ。お主に聞いても、駄目ばかりでつまらん」
すると獣面の神は、長いまつ毛で縁取られた黄金色の瞳を私に向けると、やけに楽しそうな様子で言った。
「嫁殿。――お主は、どうしたい?」
「……」
私は、ごくりと唾を飲み込むと、かすかに眉を顰めている朧を見た。私の今の気持ちを正直に口にしたら、怒るだろうか。
でも――折角の機会だ。
私は心を決めると、獣面の神をまっすぐに見つめて言った。
「私は、朧の妻ですから。できることがあるなら、やらせてください!」
すると、朧は目を閉じると、僅かに天を仰いだ。それとは対照的に、獣面の神は、まるで太陽みたいな笑みを浮かべて――ぽん、と手を打った。
「それは、大変結構‼」
――シャラン‼
その瞬間、幾重にも重なった金の腕輪が、軽やかな音を上げた。
「え、えええ……? 不安しかないんだけど⁉」
「やだ! 僕、お姉ちゃんとい……モゴッ!」
「この子どもに危害なんて加えませんよ。さっさと行きなさい!」
――ほ、本当に……⁉
あの後、かなり不安に思いつつも、凜太郎に男の子を預けた私は、急いで家庭菜園で食材を収穫すると、朝食を用意した。
凜太郎があの子に意地悪しないかと気がかりではあったが、今日は朧の友人が来ていたので、遅れるわけにはいかなかったからだ。
今日の朝食は、真っ白な炊きたてごはんに、ぷりぷりの明太子。
擦りたての胡麻と、サッと茹でたほうれん草で作った和え物に卵焼き。箸休めは、キャベツにみょうが、青じそと生姜を、酢でさっぱりと漬け込んだ浅漬け。お味噌汁は、朝採れのナスを白味噌で。
毎日、朧のために料理をするようになってから、以前よりもレパートリーが抜群に増えた。それに、シンプルな素材で、あまり手間をかけずに美味しく仕上げるコツもわかってきたように思う。プロ並みの櫻子に教わり、食べて貰いたい相手のことを考えながら料理する……それは、上達の近道だったのだろう。
けれど、朧が料理を口にするまで、緊張するのは相変わらずだ。
今日の料理はどうだろう――。
ドキドキしながら反応を待っていると、一通り料理に口を着けた朧は、私に向かって小さく頷いた。
「――今日も美味い。ありがとう」
「そ、そうですか」
嬉しくなって、指をモジモジと絡ませる。
美味しいごはんができた時は、朧はいつもお礼を言ってくれる。それを聞くたびに胸がポカポカして、どこか落ち着かない気持ちになるのだ。すると、そんな私たちの様子を見て、朝食に同席していた朧の友人がクツクツと喉の奥で笑った。
「……朝から見せつけてくれる。ああ、熱い熱い。日本の夏は、ただでさえ暑いというのに、勘弁して欲しいものだ」
その人は、一見すると奇妙な格好をしていた。
狼の毛皮を帽子よろしく被って、肌は濃い褐色、そして、金粉を散りばめた濃紺の長い布を身に纏っている。艶やかな夜色の長い髪を彩る髪飾りや、首飾り、ピアスなどはすべて黄金でできていて、焦げた肌色に非常に映えている。逞しい身体には、赤、青、黄色の原色で複雑な文様の刺青が彫られていた。その腕には、金の腕輪を何重にも嵌めていて、彼が動くたびに、シャラシャラと軽快な音を立てる。
唇が厚く、彫りの深い顔をしている彼は、「獣面(じゅうめん)の神」と呼ばれている。
朧の古くからの友人で、色々と仕事を斡旋して貰っているらしい。
仕事の打ち合わせがてら、昨日からマヨイガを訪れていた獣面の神は、夜通し朧とお酒を飲んでいたようだ。
獣面の神は、ニヤニヤと私と朧を交互に見つめると、どこか嬉しそうに言った。
「人間の嫁を貰ったと聞いた時は、どうなることかと思ったものだが。飯も美味いし、いい嫁ではないか。めでたいことだ」
そして、手にしたグラスを傾けると、満足そうに息を吐いた。ちなみに、グラスの中に入っているのは、水で薄めた葡萄酒である。
「これで、益々仕事も捗るだろう。我にとっても、朧にとっても喜ばしいことだ。乾杯をしようではないか。友よ」
獣面の神は、鷹揚な仕草で杯を掲げると、朧に期待に満ちた視線を注いでいる。
初めて会う朧以外の神……かの神が来ると言われた時は、どうしても身構えてしまって、かなり緊張した。けれど、特に偉ぶることもしない、まるで砂漠に吹く一陣の風のような獣頭の神の性格は、そんな私の緊張をあっという間に解してしまった。
一方、普段から寡黙な朧は、友人の乾杯の要求に、緑茶の入った湯呑みで応えていた。まるで正反対のように見えるふたりは、随分と仲がいいらしく、獣面の神に相対している時の朧の表情は、とても穏やかだ。
するとその時だ。朧が僅かに眉を顰めたのが見えた。
続いて、廊下をバタバタと激しく走る音。
そして、スターン! と派手な音を立てて、障子戸が勢いよく開いた。
「キャー! 逃げろ‼︎」
入ってきたのは、あの陽介と名乗った男の子だった。
陽介君は、部屋の中に走ってくると――朧を見つけて真っ青になった。人形をしているとはいえ、朧の放つ底知れぬ存在感が恐ろしいのだろう。私の下へと全速力で走ってくると、背中にしがみついて隠れてしまった。
若干遅れて、凛太郎が姿を現わす。汗だくになり、ややげんなりとした様子の凛太郎は、素早く室内に視線を巡らせると――私の背後に隠れた陽介君を見つけて、眦を釣り上げた。
「お前っ……いい加減に、大人しくしろ‼︎」
「やだよーだ‼︎」
陽介君は私の背中からひょっこり顔を出すと、「お姉ちゃんと一緒がいい‼」と言い放った。凛太郎は、ヒクヒクと口の端を引き攣らせると、ちらりと朧へ視線を向けた。その瞬間、さあっと顔を青ざめさせて、勢いよく頭を下げた。
「朧様。申し訳ございません」
「……」
「すぐに、そこの小僧を連れ出しますので……」
顔を上げた凛太郎は、キッと陽介君を睨みつけると「こっちへ来るんだ!」と叫んだ。獣面の神は、その様子を心から楽しげに眺め、口もとを押さえて笑いを必死に堪えている。
「……クッ、ククク。朧よ。そんな顔をするほど、飯を中断されたのが気に食わなかったのか。どれだけその娘を気に入っているのだ」
「……うるさいぞ、獣面の」
獣面の神の言葉に、思わず朧の顔をまじまじと見つめる。
普段からあまり表情を浮かべない朧だが、確かに不機嫌そうに見える。それを意外に思っていると、私の背中にしがみついていた陽介君が、私の膝の上にちょん、と乗った。そして、ここからは絶対に動かないぞと言わんばかりに、私の胸に顔を埋め、抱きついてきた。
「…………」
その瞬間、朧の整った眉が盛大に引き攣ったのが見えた。
驚きのあまり、目を瞠る。
じとりと陽介君を見つめる様は、あからさまに不満そうだ。
――嫉妬してくれている? 子ども相手に?
その可能性に思い至った瞬間、とくんと心臓が跳ねた。
動揺して、思わず陽介君を抱き返す。すると、朧は益々顔を顰めた。
すると、ニヤニヤ笑いながら、私たちの様子を眺めていた獣面の神が、こんなことを言い出した。
「フム。面白いことになった。なあ、朧。その小僧……例のアレ(・・)であろう。それほど、嫁殿に懐いているのならば、任せてみたらどうだ」
「……ッ。待て、獣面の。それはならん」
「なぜだ。お前の嫁なのだろう? 嫁は夫を助けるものだ」
「そういう問題では――」
「朧よ、黙れ。お主に聞いても、駄目ばかりでつまらん」
すると獣面の神は、長いまつ毛で縁取られた黄金色の瞳を私に向けると、やけに楽しそうな様子で言った。
「嫁殿。――お主は、どうしたい?」
「……」
私は、ごくりと唾を飲み込むと、かすかに眉を顰めている朧を見た。私の今の気持ちを正直に口にしたら、怒るだろうか。
でも――折角の機会だ。
私は心を決めると、獣面の神をまっすぐに見つめて言った。
「私は、朧の妻ですから。できることがあるなら、やらせてください!」
すると、朧は目を閉じると、僅かに天を仰いだ。それとは対照的に、獣面の神は、まるで太陽みたいな笑みを浮かべて――ぽん、と手を打った。
「それは、大変結構‼」
――シャラン‼
その瞬間、幾重にも重なった金の腕輪が、軽やかな音を上げた。