マヨイガに、夏が来た。


 花がすっかり散ってしまった桜の木は、青々とした葉を茂らせ、霧混じりの風が吹くと、さわさわと心地よい音をさせる。ここの夏は、現世に比べると、随分と過ごしやすい。霧がいつも周囲に満ちているからだろう。まるで高原の避暑地のような、爽やかな夏だ。麦わら帽子を被って、群青色の夏空を見上げる心地よさ。暑い季節を喜ばしく思う心を、ここに来て初めて知った。


 けれども今日に限っては、その暑さにうんざりしていた。


 夏の空気に加えて、体の内から滲んでくる熱に、意識が朦朧としてくる。汗が絶え間なく噴き出し、シーツがしっとりと濡れている。


 浴衣の襟をくつろげ、はあと熱い息を吐く。いくら眠っても足りないのに、眠りすぎたせいで頭の芯の部分に鈍い痛みがある。


「夏風邪はしんどいよねえ。早く元気になってね」


 櫻子が、心配そうに私の顔を覗き込んでいる。喉の痛みのせいで禄に食事もできない私に、果物を剥いて持ってきてくれたのだ。


「私、暫くお仕事でいないんだ~。看病できなくてごめんね」
「忙しいのにありがとう」


 けれども、どうにもそれに口をつけるのが億劫で、私は曖昧に笑うと、また目を閉じた。すう、と襖が閉まる音がして、櫻子の気配が遠ざかっていく。


 うっすらと目を開けると、サイドテーブルの上に、ガラスの器に盛られた瑞々しい黄白色が見えた。それは熟れた桃だった。柔らかく熟した桃は、辺りに甘い匂いを放ち、誰かに食べられるのを今か今かと待っている。


「美味しそうだけど。……今、欲しいのは――それじゃないんだなあ」


 私は大きく息を吐くと、またゆっくりと目を瞑った。
 すると、いつしか意識が沈み込んでいき――とろり、とろとろとすべてが溶けて、境が曖昧になり、夢の世界に迷い込んで行く。




 世界を薄い布越しで眺めているような、鈍い感覚がする。目は映像を捉えているものの、そのものに現実感がない。夢だとすぐにわかる夢――。その中で、幼い頃の私は、熱を出して寝込んでいるようだった。


「ああ、真宵は大丈夫かな」
「心配しすぎよ。ただの発熱」
「病院に連れて行かないでいいのかい? なんなら、隣から車を借りようか」
「小さい子がいきなり高熱を出すなんて、よくあることよ。それに、熱冷ましもあるし……焦って連れて行かなくても大丈夫。それよりも、ペーパードライバーの癖に。そっちの方が心配だわ」


 ――ああ。なんて懐かしい。


 夢の中には、見慣れたわが家の光景が広がっていた。幼い私が、アニメのシールを貼ってベタベタにしてしまった家具。少し黄ばんだ壁紙。天井から下がる、箱型の照明。そして、記憶よりも随分と若い両親の姿があった。


 今にも泣きそうなほど、情けない顔をした父。一方、平気そうな口ぶりの母。けれどその手は、まるで大切な宝物に触れるように、優しく私の頭を撫でている。


 その光景に、愛おしさと懐かしさが溢れて胸が苦しくなる。けれども夢だからか泣けないことに気がついて、どうにもやるせなくなった。


 すると、私が目覚めたことに気がついた母が、顔を綻ばせた。


「あ、起きたわ。真宵、喉が乾いてない? お着替えしようか?」
「汗をたくさんかいてる。暑いか? 母さん、氷枕が温いよ。新しいの持ってきて」
「はいはい。待っていてね。着替えも持ってくるわ」


 母が傍からいなくなると、いそいそと、父は乱れた布団を直したり、タオルで汗を拭ったりしてくれた。父はいつだって、私が体調を崩した時は甲斐甲斐しく看病してくれる。食堂を早く閉めることもあったくらいだ。娘が大病をしている(ただの風邪なのに)時に、料理なんてしてられるかというのが、父の口癖だった。


「母さん遅いな。ほら、父さんの手を貸してやろう」


 そんな父の自慢は冷たい手だった。父の大きな手が私の額に触れる。ひんやりとして、けれども冷たすぎないその手は、熱で火照った体を心地よく冷やしてくれた。


「気持ちいいだろう。手が冷たい人間は、心が温かいんだぞ。ぐっすり眠るんだ。風邪の時は眠るのが一番の薬だからね」


 まるで子どもみたいに、自慢気に語る父。そんな無邪気なところがある父が、私は大好きだった。するとそこに、母が戻ってきた。母は、着替えの他にお盆を手にしている。そこに乗っていたのは、ガラスの器に入った目にも色鮮やかな橙色。


 それは、風邪を引いた時の大定番。
 具合の悪い時にしか食べられない、大好きな一品だった。


「やった。食べていいの?」
それが堪らなく嬉しくて、起き上がろうとした――その時だ。
「……っ」


 プツンと映像が途切れ、懐かしいわが家から、マヨイガにある私室へと景色が塗り替えられてしまった。


 ――ミィン、ミンミンミン……。


 優しい父と母の声は途切れ、その代わりだと言わんばかりに、蝉の喧しい声が鼓膜を震わせた。温かな言葉も、心配そうに――それでいて、愛おしそうに触れる手もなくなってしまった。変わらないものと言えば、重だるい体だけだ。


 指で頬に触れると、知らぬ間に涙で濡れてしまっている。夢の中ではちっとも泣けなかったのに、現実ではしっかりと泣いていたようだ。


「……熱が出ると駄目だね。心が弱っちゃう」


 涙を拭って、なんとなしに視線を移す。すると、サイドテーブルの上に、眠る前まではなかったものを見つけて、思わず目を見開いた。


 襖越しに、室内に薄日が差し込んでいる。それを、鮮やかな橙色を抱いた、ガラスの器が優しく受け止めていた。果汁がたっぷり詰まった、透明感のある粒々。それがみっしりと寄り集まり、半月を形作っている。


 ――みかん。それも、甘いシロップに漬かった缶詰のみかんだ。それがまるで、私を誘うように、サイドテーブルに置かれていたのだ。


「どうして?」


 先ほどまでは、桃があったはずの場所に、私の大好きなものが置かれている。これが好物だと知っているのは、亡くなった両親くらいだ。一体、誰が――? 


 ……まさか。


「起きたのか?」


 その時だ。襖が開いて、誰かが部屋に入ってきた。
 それは朧で、彼は私から少し離れた場所に座った。


「これは、朧が?」


 思わず尋ねると、朧はゆっくりと首を縦に振った。


「……そうですか」


 ――なにを、がっかりしているのだろう。


 両親が死んでしまったこの世界こそが……夢なのではないかなんて、幻想を一瞬でも抱いてしまった。そんな、都合のいいことがあるわけないのに。


 苦い笑みを溢して、朧にお礼を言う。すると空腹を覚えたので、朧にみかんを食べてもいいかと尋ねた。


「それは、お前のために用意したものだ。遠慮なく食べるといい」
「ありがとうございます」


 シロップに漬かったみかんは、とても綺麗な色をしていた。それはまるで、もう二度とやってこない、家族の団らんみたいな温かな色。スプーンで口に運ぶと、噛み締めた途端に、ぷちんと甘い汁が口内に広がった。


 それは、甘くて――どこまでも甘くて。
 それでいて、奥にこっそりと酸味が潜んでいるような味。
 その懐かしい味に、喉の痛みも忘れて目を細める。


「美味しい」
「そうか」
「少し……元気が出ました」
「そうか」


 食べ終わった皿を受け取った朧は、私にまた横になるようにと促した。
そして――横になった私の額に、その大きな手を当てて言った。


「眠れ。風邪の時は、眠るのが一番の薬だ」
「…………っ、はい」


 夢の中の父と、同じ言葉。それに――なんて、冷たくて心地がいい手なのだろう。


 私は、ゆっくりと目を瞑ると――ふと、浮かんだ疑問を口にした。


「朧は、どうしてこんなに良くしてくれるんですか……?」


 すると、朧は「ああ」と小さく声を漏らして、やや平坦な声で言った。


「俺は――お前の夫だ」
「一年間、限定でも?」
「…………時間は関係ない」
「そう、ですか。朧は……優しいですね」


 ――ぽろり。
 その時、やけに熱い涙が一粒、溢れ落ちた。