翌朝。今日こそはと意気込んで、朝食の支度をするために台所に向かう。
煤けたかまどと、ガスコンロが同居する不思議な台所で、櫻子に教わった通りに調理を進める。丁寧に下ごしらえして、手間暇かけて出汁を取る。時間はかかるけれど、徐々に料理が形になっていくこと自体は、とても楽しい。
「あ、ごはん……」
肝心のお米を炊き忘れていたことを思い出し、慌ててお釜を取り出す。
お米だけは、かまど炊きに拘っている。ここに来て、初めて食べたかまど炊きの白米のおいしさに、私自身が感動したからだ。それに、苦労して炊くぶん、美味しくできた時の感動はひとしおだ。
教わった通りに、かまどに火を入れる。はじめチョロチョロ、なかパッパ。徐々に火力を上げていく。すると突然、薪が弾けて火の粉が散った。
「熱っ……」
慌ててかまどから離れる。
腕がヒリヒリ痛む。確認してみると、米粒くらいの大きさの赤みができていた。どうやら、火傷してしまったようだ。
「あーあ……」
若干うんざりしながら、腕を冷やそうと動き出した、その時だ。
ドタドタとやけに騒がしい足音が近づいてきた。
「――真宵‼︎」
「へっ⁉︎」
それは朧だった。朧は、いきなり私を両手で抱き上げると、どこかへ向かって怒涛の勢いで走り出した。
「まままま、待って⁉︎ え、どこに……!」
「黙っていろ‼︎」
「……はい!」
あまりの剣幕に、素直に口を閉ざす。普段よりも、随分と高い視界に困惑しつつ、お姫様抱っこなんて初めてだな、なんてぼんやり思う。
まるで飛ぶように屋敷を駆け抜けた朧は、外にある水場までやってきた。そして、思い切り水を出すと、私の腕をそこに突っ込んだ。
台所の水道でもよかったのでは……? なんて思っていると、続けて、朧は聞いたことのないくらい大きな声で叫んだ。
「凛太郎、櫻子はいるか‼︎」
「はーい」
「凛太郎、馳せ参じました!」
「手当ての準備をしろ。急げ‼︎」
「「承知」」
指示を聞いた神使ふたりが、猛スピードで走っていく。朧はそれを見送ると、いつも無表情な顔を、苦しげに歪ませて言った。
「じきに薬がくる。他はどうだ、痛いところはないか」
「別にありま……」
「本当か⁉ 我慢しているのではないだろうな。お前はよく怪我をするから」
そして、その場にしゃがみ込むと、私の全身を大きな手でパタパタと叩き、ジロジロとあちこちを眺め始める。この屋敷に来てから怪我をしたことがあったっけ、なんて思いながら、そのまるで子どもの具合を確かめるような仕草に、思わず噴き出しそうになってしまった。
――なんだこの人。なんか……可愛いかも。
一瞬、そんな風に思って、慌ててその考えを振り払う。
相手の正体は、あんな怖い化け物で、更に神様なのだ。可愛いわけが――。
「痛いところは、本当にないんだな? 人間はすぐに死ぬから……」
ああ、朧が泣きそうに見える。
赤と黒、色違いの瞳を揺らして、私を祈るように見つめている。
……どうしてだろう。
この化け物な神様が、私を心から心配しているのがわかってしまった。
「……ぷっ」
「真宵?」
――駄目。我慢できない。
「……っ、ふふ。ふふふ……」
「ど、どうした。やはりどこか……」
「あははははははは!」
笑いが止まらずに、お腹を抱えてしゃがみこむ。朧は、どういう状況なのか理解できずに、ひとりオロオロしている。私の視界に、彼の長い尻尾が不安げに揺れているのがチラチラ入り込んで、それもまた笑いを誘う。
「ああ、真宵が変になってしまった。どうすれば、どうすればいい……」
私が笑っている間も、朧はひとりそんなことを呟いている。
笑いが収まった頃。私は、目端に浮かんだ涙を拭うと、朧に向かって手招きをした。すると、心底不思議そうに首を傾げた朧は、私の傍にしゃがんだ。
私は、間近に迫った彼の顔を真っ直ぐに見つめた。
よくよく考えると、こうしてまともに顔を見るのは初めてかも知れない。あちこち作りは普通の人間とは違うけれど、私の感覚からすればとんでもなく整った顔をしている。まるで、映画で主役を張る俳優さんみたいだ。
朧は、そんな私の様子に動揺したのか、僅かに瞳を揺らしている。
「あなたは怖いのと優しいのと、どっちなの?」
すると、朧はキョトンとして、何度か目を瞬いた。
私は、朧が口を開くより前に話を続けた。
「過保護な旦那様。あなたが私に求めているのはなに? 子ども? でも、寝室は別だし、一年間だけ一緒にいればいいんでしょう?」
どうして、私を嫁にと望んだのか。朧の本当の気持ちを知りたい。
そう思って、朧に問いかける。
その時、不思議と恐怖心は湧いてこなかった。それは、目の前の化け物で神様な夫が、人間と同じように、感情をありありと顔に浮かべていたからかもしれない。
「俺は――……」
朧は言葉を詰まらせると、大きな手をゆっくりと動かして、私に近づけてきた。けれども、もう少しで触れそうなところで、手を止めて下ろしてしまう。
そして、おもむろに立ち上がると、私に背を向けて言った。
「俺は、真宵が心安くいて欲しいだけだ。……じきに、あのふたりが来るだろう。そこで大人しくしておけ」
そして、朧はどこかへ去っていった。
――どうして、話してくれないの。
不満に思って、唇を尖らせる。話せない事情でもあるんだろうか。期間限定と言えど、私は朧の妻だ。正直に話してくれてもいいのに。
するとそこに、救急箱を持った神使ふたりがやってきた。彼らは到着するなり、テキパキと手当てを始めた。自分の腕に、真っ白な包帯が巻かれるのを眺めていると、思わず弱音を零してしまった。
「ねえ、私……これから、上手くやっていけるのかな」
すると、救急箱の片付けをしていた凛太郎が、途端に眦を釣り上げた。
「なにを言ってるんです? 上手く行っていただかないと、困るんですよ」
「うっ……だって、朧が満足するようなごはんも作れないし」
――本当のことも教えてくれないし。
最後の言葉はぐっと飲み込んで、瞼を伏せる。すると、途端に凛太郎が笑い出した。ケラケラと本当におかしそうに笑う凛太郎を、思わずキョトンと見つめていると、彼は私にこう言った。
「真面目ですねえ、キミは。適当でいいんですよ、適当で」
「て、適当⁉」
「そうです。適当です。旦那様はキミの作ったものになら、不満は言いませんよ」
凛太郎は、糸のように細い目をうっすらと開けて、私を愉快そうに眺めている。
「……なによ」
その言葉に、なんとなくムッとする。
それじゃまるで、「適当」というより「なんでもいい」と言われているみたいだ。それって、私が料理をする意味があるの……⁉
「適当なんて、絶対に嫌」
「はい?」
私は、凛太郎をジロリと睨みつけると、やや興奮気味に言った。
「私、この婚姻と引き換えに、借金の肩代わりをして貰っているの。だったら、それ相応のことはしたい。行き詰まっていた私に、朧は手を差し伸べてくれた。ちゃんと、その恩は返したいの」
――たとえ、本人が真意を語ってくれなかったとしても。
助けて貰ったっきりで甘えたままなんて、耐えられない!
すると、後ろから誰かに抱きしめられた。
それは櫻子で、彼女は私の頭を撫でながら言った。
「あはは。やっぱり真面目~。あたし、そういう真宵ちゃん好きだよ」
「櫻子……あまり奥様を甘やかすと……って、拳を下ろしてくれないか。頼む」
櫻子は私を腕の中から開放すると、にんまりと笑って言った。
「ふふ、本当は自分で気がつくまで黙っておこうと思ったんだけどね~」
そして、櫻子は私の耳元に顔を寄せて言った。
「化け神さんが喜ぶごはんの作り方、知りたい?」
私は、ごくりと唾を飲み込むと、神妙な顔になって頷いた。
煤けたかまどと、ガスコンロが同居する不思議な台所で、櫻子に教わった通りに調理を進める。丁寧に下ごしらえして、手間暇かけて出汁を取る。時間はかかるけれど、徐々に料理が形になっていくこと自体は、とても楽しい。
「あ、ごはん……」
肝心のお米を炊き忘れていたことを思い出し、慌ててお釜を取り出す。
お米だけは、かまど炊きに拘っている。ここに来て、初めて食べたかまど炊きの白米のおいしさに、私自身が感動したからだ。それに、苦労して炊くぶん、美味しくできた時の感動はひとしおだ。
教わった通りに、かまどに火を入れる。はじめチョロチョロ、なかパッパ。徐々に火力を上げていく。すると突然、薪が弾けて火の粉が散った。
「熱っ……」
慌ててかまどから離れる。
腕がヒリヒリ痛む。確認してみると、米粒くらいの大きさの赤みができていた。どうやら、火傷してしまったようだ。
「あーあ……」
若干うんざりしながら、腕を冷やそうと動き出した、その時だ。
ドタドタとやけに騒がしい足音が近づいてきた。
「――真宵‼︎」
「へっ⁉︎」
それは朧だった。朧は、いきなり私を両手で抱き上げると、どこかへ向かって怒涛の勢いで走り出した。
「まままま、待って⁉︎ え、どこに……!」
「黙っていろ‼︎」
「……はい!」
あまりの剣幕に、素直に口を閉ざす。普段よりも、随分と高い視界に困惑しつつ、お姫様抱っこなんて初めてだな、なんてぼんやり思う。
まるで飛ぶように屋敷を駆け抜けた朧は、外にある水場までやってきた。そして、思い切り水を出すと、私の腕をそこに突っ込んだ。
台所の水道でもよかったのでは……? なんて思っていると、続けて、朧は聞いたことのないくらい大きな声で叫んだ。
「凛太郎、櫻子はいるか‼︎」
「はーい」
「凛太郎、馳せ参じました!」
「手当ての準備をしろ。急げ‼︎」
「「承知」」
指示を聞いた神使ふたりが、猛スピードで走っていく。朧はそれを見送ると、いつも無表情な顔を、苦しげに歪ませて言った。
「じきに薬がくる。他はどうだ、痛いところはないか」
「別にありま……」
「本当か⁉ 我慢しているのではないだろうな。お前はよく怪我をするから」
そして、その場にしゃがみ込むと、私の全身を大きな手でパタパタと叩き、ジロジロとあちこちを眺め始める。この屋敷に来てから怪我をしたことがあったっけ、なんて思いながら、そのまるで子どもの具合を確かめるような仕草に、思わず噴き出しそうになってしまった。
――なんだこの人。なんか……可愛いかも。
一瞬、そんな風に思って、慌ててその考えを振り払う。
相手の正体は、あんな怖い化け物で、更に神様なのだ。可愛いわけが――。
「痛いところは、本当にないんだな? 人間はすぐに死ぬから……」
ああ、朧が泣きそうに見える。
赤と黒、色違いの瞳を揺らして、私を祈るように見つめている。
……どうしてだろう。
この化け物な神様が、私を心から心配しているのがわかってしまった。
「……ぷっ」
「真宵?」
――駄目。我慢できない。
「……っ、ふふ。ふふふ……」
「ど、どうした。やはりどこか……」
「あははははははは!」
笑いが止まらずに、お腹を抱えてしゃがみこむ。朧は、どういう状況なのか理解できずに、ひとりオロオロしている。私の視界に、彼の長い尻尾が不安げに揺れているのがチラチラ入り込んで、それもまた笑いを誘う。
「ああ、真宵が変になってしまった。どうすれば、どうすればいい……」
私が笑っている間も、朧はひとりそんなことを呟いている。
笑いが収まった頃。私は、目端に浮かんだ涙を拭うと、朧に向かって手招きをした。すると、心底不思議そうに首を傾げた朧は、私の傍にしゃがんだ。
私は、間近に迫った彼の顔を真っ直ぐに見つめた。
よくよく考えると、こうしてまともに顔を見るのは初めてかも知れない。あちこち作りは普通の人間とは違うけれど、私の感覚からすればとんでもなく整った顔をしている。まるで、映画で主役を張る俳優さんみたいだ。
朧は、そんな私の様子に動揺したのか、僅かに瞳を揺らしている。
「あなたは怖いのと優しいのと、どっちなの?」
すると、朧はキョトンとして、何度か目を瞬いた。
私は、朧が口を開くより前に話を続けた。
「過保護な旦那様。あなたが私に求めているのはなに? 子ども? でも、寝室は別だし、一年間だけ一緒にいればいいんでしょう?」
どうして、私を嫁にと望んだのか。朧の本当の気持ちを知りたい。
そう思って、朧に問いかける。
その時、不思議と恐怖心は湧いてこなかった。それは、目の前の化け物で神様な夫が、人間と同じように、感情をありありと顔に浮かべていたからかもしれない。
「俺は――……」
朧は言葉を詰まらせると、大きな手をゆっくりと動かして、私に近づけてきた。けれども、もう少しで触れそうなところで、手を止めて下ろしてしまう。
そして、おもむろに立ち上がると、私に背を向けて言った。
「俺は、真宵が心安くいて欲しいだけだ。……じきに、あのふたりが来るだろう。そこで大人しくしておけ」
そして、朧はどこかへ去っていった。
――どうして、話してくれないの。
不満に思って、唇を尖らせる。話せない事情でもあるんだろうか。期間限定と言えど、私は朧の妻だ。正直に話してくれてもいいのに。
するとそこに、救急箱を持った神使ふたりがやってきた。彼らは到着するなり、テキパキと手当てを始めた。自分の腕に、真っ白な包帯が巻かれるのを眺めていると、思わず弱音を零してしまった。
「ねえ、私……これから、上手くやっていけるのかな」
すると、救急箱の片付けをしていた凛太郎が、途端に眦を釣り上げた。
「なにを言ってるんです? 上手く行っていただかないと、困るんですよ」
「うっ……だって、朧が満足するようなごはんも作れないし」
――本当のことも教えてくれないし。
最後の言葉はぐっと飲み込んで、瞼を伏せる。すると、途端に凛太郎が笑い出した。ケラケラと本当におかしそうに笑う凛太郎を、思わずキョトンと見つめていると、彼は私にこう言った。
「真面目ですねえ、キミは。適当でいいんですよ、適当で」
「て、適当⁉」
「そうです。適当です。旦那様はキミの作ったものになら、不満は言いませんよ」
凛太郎は、糸のように細い目をうっすらと開けて、私を愉快そうに眺めている。
「……なによ」
その言葉に、なんとなくムッとする。
それじゃまるで、「適当」というより「なんでもいい」と言われているみたいだ。それって、私が料理をする意味があるの……⁉
「適当なんて、絶対に嫌」
「はい?」
私は、凛太郎をジロリと睨みつけると、やや興奮気味に言った。
「私、この婚姻と引き換えに、借金の肩代わりをして貰っているの。だったら、それ相応のことはしたい。行き詰まっていた私に、朧は手を差し伸べてくれた。ちゃんと、その恩は返したいの」
――たとえ、本人が真意を語ってくれなかったとしても。
助けて貰ったっきりで甘えたままなんて、耐えられない!
すると、後ろから誰かに抱きしめられた。
それは櫻子で、彼女は私の頭を撫でながら言った。
「あはは。やっぱり真面目~。あたし、そういう真宵ちゃん好きだよ」
「櫻子……あまり奥様を甘やかすと……って、拳を下ろしてくれないか。頼む」
櫻子は私を腕の中から開放すると、にんまりと笑って言った。
「ふふ、本当は自分で気がつくまで黙っておこうと思ったんだけどね~」
そして、櫻子は私の耳元に顔を寄せて言った。
「化け神さんが喜ぶごはんの作り方、知りたい?」
私は、ごくりと唾を飲み込むと、神妙な顔になって頷いた。