部屋の入り口に佇む綾の気配に気付いたのだろうか、男が、ふっと顔を上げた。
重なる視線――。
驚きに見開かれる、男の黒い瞳。
男の手が止まり、ぴたりと、ピアノの音が止む。
「き……みは?」
男の発した声を聞いて、綾は驚いた。
やだ、声まで良平に似てる――。
少し低めの、ハスキーボイス。
もっと低くて深みのある声だけど、良平が大人になったら、こんな声になるのかも知れない。
「あ、邪魔してしまって、ごめんなさいっ!」
綾は、ピアノの演奏を中断させてしまったことに微かな罪悪感を覚えて、思わずぺこりと頭を下げた。
「……いや、良いんだよ」
答える男の声が、微妙に揺れる。
感情を無理に抑えているような、そんな声音だ。
「あの、電気、付けましょうか?」
これでは、真っ暗で譜面も見えないだろう。
綾が努めて明るく声を掛けると、男は『否』と、ゆっくり頭を振った。
「……このままにしておいて貰えるかい?」
穏やかな声は、やはり揺れている。
「あ、はい」
音楽室に沈黙が落ちた。
静かな、痛いほどの時の流れ。
それは、決して不快ではないが、なんだか居たたまれない。
「あの、私はもう、帰らないと……」
本格的に、外は夜になっていた。
いくら何でももう帰らないと、家で心配するだろう。
「それじゃぁ、お邪魔しました」
『さようなら』と小さく呟いて、綾が部屋を出て行こうとすると、男が声を掛けて来た。