昼休みになった。五限目のリーダーの教師は、いつも出席番号順で指名していく。今日あたり、指されそうだ。ノートを開いて、英語が得意な亜美のノートとつき合わせて訳の間違いをつぶしていると。
「島本ー。島本、いるかー?」
担任が教室に入ってきた。ハルが何かやらかしたのだろうか。知りませーん、と、教室にいた男子たちが答える。
「しょうがないなー。放送かけるか」
先生のぼやきが聞こえる。私はため息をついて、ノートを閉じた。立ち上がり、出ていこうとした先生を呼び止めた。
「私、呼んできます」
ハルのいるところなど、あそこに決まっている。
教室を出て階段を下り、靴を履きかえた。コの字型になった校舎の真ん中にある、中庭、その端に銀杏の木がある。校舎ができる前からこの土地に生えていたらしい銀杏の木は、それなりに大きくて、秋になると黄金色の葉が舞い落ちて、芝生の上に降り積もる。今はまだ色づき始めた程度だけど、陽に照らされると明るく光って見えた。
ハルは銀杏の下のベンチで眠りこけている。雨風にさらされて変色してぼろぼろになったせいで誰も座ろうとしないのをいいことに、ハルはここを勝手に自分のスペースにしている。
ベンチに仰向けになって、開いた漫画本を顔に伏せて置き、すうすうと寝息を立てる、ハル。長い足はベンチから大きくはみ出していた。とてもじゃないけどリラックスできる体勢とは言い難い。よく熟睡できるよね、と感心してしまう。
それだけ、疲れているのかもしれないけど。
「ハル」
起きない。
「ハル!」
耳を思いきり引っ張り上げると、さすがに目を開けて、いててて、と身を起こした。
「なんだよ、果歩かよ」
不機嫌な声。私はこれ見よがしにため息をついてみせた。
「田辺先生が探してた」
「俺、何かしたっけ?」
「進路希望調査票。白紙で提出してたんでしょ。先生に聞いたよ」
一年のときだって、進路調査も面談もあったのに、ハルはどうしていたんだろう。千尋さんはノータッチなんだろうか。
「果歩は、ちゃんと書いたわけ?」
「ま、一応ね」
ふうん、と、ハルは、気のない答えを返して、そのあといきなり顔をしかめた。
「どしたの?」
「いや。ちょっと首がちくっと……。やべ、蟻だ。噛まれた」
ハルは首筋を掻いた。そのせいで、太くて筋張った首が赤く染まって、私は思わず目をそらす。
「蟻って。今噛んだ俺のこと、ちゃんと認識できてないよな」
「は?」
「いや。蟻は小さいだろ? だから、俺の全体像は把握できない。あまりに小さすぎて、壁か何かだと思っているだけだろうな、って」
「……はあ」
「人間もそうだよな、蟻みたいなもんだ。思考する蟻」
何を言っているんだろう。ハルは昔から、いきなり、そういう突拍子もないことを語り出すことがある。
「小さいんだよ、小さすぎて、自分たちの外側にある壁がなんなのか認識できない。たとえば宇宙とか時間とか、運命とか、そういうの。でかすぎてさ。一生懸命考えるけど、本当の姿にはたどり着けない」
「……進路希望調査票」
「わかんねーことだらけだ」
「進路、希望、調査票。ちゃんと書けって、先生が」
「頭がおかしくなりそうだ。何で、どうして、って、ずっと考えてて」
「とりあえず今から職員室に来いって言ってた、時間ないから急いで行きなよ」
「果歩は、看護師になんの?」
不意打ちに、え、と、私は言葉を詰まらせた。
「仕事きついって言ってるけど、うちの母親」
「ていうか何で知ってんの?」
私が看護師になると決めていることを。
その問いを、ハルはさらりと無視した。
「時間は不規則だし、精神的にも、肉体的にも、きついって。若いときは乗り切れたけど、最近はからだがついていかない、きついってやたら言ってる」
「きつくない仕事なんてないでしょ」
「いや、それはそうだけど。きついからやめとけって言ってるわけじゃない、けど」
誰にも言ったことはないが、看護師に憧れているのは、千尋さんの影響だ。暗い淵に沈んでいた私を、いったん、岸まで引っ張り上げてくれたひと。私は彼女を目標とすることで、とりあえず、先に進む力を得た。
「いいじゃん。私が何を目指そうがハルには関係ないし」
「関係なくない。おまえ、やっていけんの?」
「やっていけると思う。私、誰かの役に立ちたい。誰かの命を救う手伝いをしたい」
せめて、せめて。苑子を助けられないのなら、せめて、他の、たくさんの病めるひとを。
「救えればいいけど。救えないことだってあるだろ? ……ひとが死ぬとこ、たくさん、立ち会うんだよ。耐えられんの?」
まだ青いままの銀杏の葉が、一枚、ひらりと落ちてくる。蝶のように。
ひとが死ぬ。ハルがその言葉を口にした刹那、心臓が氷で撫でられた。三年前のあの日から、私たちは、ナーバスになりすぎている。いい加減、強くならなくてはいけない。
「耐えられるよ、きっと」
ハルが、何かを言おうと口を開きかけたけど、さえぎるように、私は続けた。
「私、苑子の分も生きなきゃいけないから。ちゃんと、生きなきゃいけないから」
たくさんのひとに言われた。苑子の葬儀のあと、苑子の両親にも、うちの両親にも、当時の担任にも、団地の大人たちにも、異口同音に。苑子ちゃんの分も、しっかり生きるんだよ、と。
だけどハルは。
「誰かの分も生きるとか、そういうの、好きじゃない」
吐き捨てるように、言った。
「苑子が言ってた。生まれてこなかった弟の分もしっかり生きてねって、親にいつも言われてた、って。それがしんどくなることがあった、って。生きてるだけでいいんだよ、何かを背負うことなんかないよ、果歩だって」
苑子が抱えていたもの。生まれてこなかった弟が、苑子に負わせたもの。親友の私には、ひと言もそんなことは言っていなかった。でも、ハルには。
弱くてやわらかい、〝本当の自分〟を、見せていたのだ。
乾いた風が吹く。どこで咲いているのか、金木犀の甘い香りがふわりと広がり、私にまとわりついた。毒のように私の中を回っていく。
絆、と言ってよいのか。ハルと苑子をつなぐもの。わかり合っていた、分かち合えていたふたり。私のいないところで、ふたりで。
「よっ」と、ハルはベンチから立ち上がった。一気に、私の目線が上がる。
「今から行く。先生のとこ」
ハルは私の横をすり抜けた。
「俺だって、何も考えてないわけじゃないんだよ」
すっ、とまっすぐに伸びた大きな背中が、ゆっくりと歩き出す。
「果歩」
ふいに、振り返る、ハル。その目が、細く、笑んでいる。
「何かあったの?」
「……何で?」
「や。なんか、いつもと違うっつーか。塗ってんだろ、顔」
「何それ。ペンキみたいな言い方しないでよ」
そういえば、亜美に化粧をされていたのだった。恥ずかしさで顔に一気に血が昇る。
くくくっ、と、からだをふたつに折り曲げて、おかしそうにハルは笑う。
「ごめん、似合うって」
「もう! ばかにしてるんでしょ?」
「してねーよ。似合うって」
私はハルから目をそらし、銀杏の木の幹をにらみつけた。そのまま、ハルが立ち去って、その気配が消えるのを、じっと、待っていた。
未だに、未だに。
毒のように。ゆっくりとからだじゅうを回っていく。
金木犀の香り。