舞台は主役だけでは回らない。
 世の中という舞台で、東條あやめは主役ではない。
 そんなことは、嫌と言うほどにわかっている。
 まずは見た目だ。
 やたらと太い黒髪に特徴のない目鼻立ち。色が白いのは褒められたことがあるけれど、他にはこれといった特徴がないからだろうと自分でも思う。
 地味な脇役。それが自分。それがお似合い。
 まぁ、それにしたって奮発して訪れた都心の美容院でまさかおかっぱ頭にされるとは思わなかったけれど。
「帽子、買おうかな……いや、いや……お金は大事よね、無職だし」
 頭の中で心許ない預金残高や失業保険の足し算引き算を繰り返す。うん、帽子はやめよう。脇役の髪型がおかっぱ頭だって誰も気にしないけれど、失業保険をもらえるまでの生活費は大いに気にしてしかるべきだ。どう考えても、ギリギリすぎるし。簡単な算数の問題。
 算数をはじめとした学校の成績も、悪くはなかった。
 けれど、悪くはないだけ。
 決して主役になれるようなものではなかった。
 実家でもそう。
 あやめの実家は少し変わった家業をしている家系だ。けれど、色々あってあやめが家業を継ぐこともなく、むしろ実家とは疎遠になってしまった。そんな自分の身の上を考えるたびに思い知る。
 私は、脇役だ。
 そんな自分が嫌だし、脇役でもいいと自分を受け入れられない自分のことも嫌だった。
 舞台は主役だけでは回らない。
 けれど、すべての脇役たちがそれに納得しているわけでもない。輝かしい主役に憧れていないわけでもない。
 東條あやめはそう思う。

 今、あやめは東京駅にいる。
 いくつも重なって聞こえる発車オルゴール、寄せては返す波のような雑踏の音。
 東京駅は、ただの駅ではない。
 主役を夢見て東京にやってくる人たちを象徴する場所だ。羽田と成田に空港ができても、それは変わらない。新幹線の乗り場に近づけば近づくほど、主役の表情をした人たちで溢れかえっている。
 東京駅の待ち合わせスポット、銀の鈴のモニュメントの周辺もそうだ。
 スマホやSNSが発達しても、待ち合わせスポットというのはいつまでも元気だ。渋谷のキュートなわんちゃんしかり。
 人待ちをする人たちというのは、どこかそわそわとしていて活気を感じる。
 乗り換えついでに東京駅をぶらつこうと思ったことを、あやめは後悔していた。
「うわぁ、失業した日に来る場所じゃなかったな。場違いよ」
 そう、あやめは失業者だ。失業したてホヤホヤだ。
 今朝、いつも通り出勤したら会社が潰れていた。シャッターに張り紙一枚がぴらぴらしていて、事務所はもぬけの殻だった。夜逃げというやつだ。
 慌てて会社の知り合いに連絡をとった。社長を含む何人かからはブロックされていて、何人かとは連絡がとれた。他の従業員たちはこの夜逃げのことを知っていたらしい。
 あやめだけが、のんべんだらりと日々を過ごしていたというわけだ。急な失業はもとより、自分がほんのり仲間外れにされていたようだという事実がキツかった。
 頭が混乱して、もうだめだと思って、やけくそになって都心の美容院に行った。気分を変えたかったし、もっと言えばこの不運で地味な脇役とは違う誰かになりたい気持ちだった。仕事用のスーツを着ている客は、あやめだけだった。
 「お似合いですよ」という言葉とともにカットが終わり、古風で地味なおかっぱ頭になった鏡の中の自分を見て、急に実感した。
 ああ。やっぱり自分は脇役だ、と。
 無職になってしまった。その事実がじわじわと実感に変わっていった。
 実家に頼らず女ひとりで生きるなら都会へ、と考えて東京に出てきた。
 それから一年半は上手くやった気がするが、結局このザマだ。早々に次の職場を見つけなくてはいけない。
 とぼとぼと歩く。足が重い。
 東京駅にやってきたのは、乗り換え立ち並ぶお土産屋さんやレストランを見て回ったら少しは気分が晴れるかと思ったからだ。結果は余計に惨めになっただけだけれど。
 あやめは逃げるように東京駅を闇雲に歩き回る。外の空気が吸いたい。迷路のような構内を歩いて、出口を探した。
 楽しそうな喧騒。
 活気のあるざわめき。
 すべてが煩わしかった。ここから消えたい。消えてしまいたい。電車に飛び込んだりとか、ビルから飛び降りたりとか、そういうのは痛そうだし怖いし嫌だ。
 どこか、ここではない場所に、消えてしまいたい。
(って。やだな、さすがにネガティブになってるっぽいなぁ……)
 普段はそんなことは考えたりもしないのに。
 どんなに脇役でも地味に生きていく、世界の片隅でひっそりとなんとかやっていく。それがあやめの生き方だ。死にたいなんて、なんだか誰か別の人の考えが頭の中に割り込んできたようで気持ちが悪かった。
 今日は早く帰って眠ったほうがよさそうだ。明日になってから、今後のことを考えよう。そんなことを考えながら、歩いていた。

「……ん?」

 気がつくと、周囲に人がいなくなっていた。
 天井が丸いドーム状になっている、ホールのような場所に立っていた。
「え、あれ?」
 周囲を見回す。
 床には幾何学模様のタイル。ドーム状の天井には鳩、柱には動物のレリーフが並んでいる。柱にはそれぞれ違った動物の彫刻があしらわれているようだ。
 牛、虎、竜に蛇に猪……干支だろうか。そういえば、昔の東京駅にあった装飾を復刻したとかいうニュースを聞いた気がする。
 周囲には、誰もいない。
 昼過ぎの東京駅に、誰もいない。そんなことがありえるのだろうか。
 声や足音すら聞こえないなんて……。
 さらに。
 もう一度見上げた天井に異変があった。
「きゃああ!?」
 干支のモニュメントが、ゆっくりと動いているのだ。
 それぞれの動物に見合った動きで、時計回りに歩いているのだ。
 ぞわ、と背筋が震えた。異常だ、これは異常な現象だ。
 身体の感覚にも、異変が起きる。
 立ちくらみのように、視界がゆらぐ。
 まるでものすごい速さで降っていくエレベーターにでも乗っているような、ぐわんぐわんと重力が揺らぐような感覚に襲われる。
 しばらく、金縛りにでもあったように立ち尽くしていた。
「だ、誰か!」
 やっと体が動くようになって、あやめは叫んだ。走り出す。
 怖い、と思った。
 誰か人はいないのか、悪い夢なら覚めてくれ。
 どこかに消えたいなんて思って、ごめんなさい。
 少し走っていると、雑踏の音が戻ってきた。けれど、歩いているのはまるで影法師のような人影だ。かろうじて和服のようなものを着ていることはわかるけれど、明らかに人間じゃない。
 その人影たちがあやめをじろじろと見ているのを感じる。意味がわからない、恐ろしい。
「嘘、嘘、嘘……なにこれ……」
 走っても走っても、見知った東京駅には辿り着かない。
 ゆらゆらと不気味な影が行き交っている、奇妙な駅舎から出られない。
 もう、だめだ。
 恐怖とパニックが最高潮に達して、その場に座り込んだ。
 ぎゅっと目を閉じる。

 消えたい、消えたい、消えてしまいたい。
 そんな声が頭の中に響く。
──どうして、お前は言われた通りにできない。
──ご先祖さまも代々やってきたことなのに、みんながやっていることなのに。
──役立たず、お前なんかいらない。失敗作め、できそこないめ。
 消えたい。消えたい。助けて、消えたい。

 あやめが過去に聞いてきた声と、消えたいと叫ぶ声とがぐるぐると渦を巻く。
 吐きそうだ。気持ちが悪い。影法師たちも気味悪い。
 あやめは叫んだ。声にならない声で、叫んだ。
 誰か、助けて。

 ──そのとき。
 りん、りん。
 涼しげな鈴の音がした。
「……ねぇ、君」
 柔らかい声がして、そっと肩を叩かれた。
 わずかに顔を上げると、真っ黒い瞳と目があった。
 柔和な笑みを浮かべた青年だ。俳優かと思うくらいに整った顔をしている。
 肩よりわずかに長い黒髪をゆるく束ねている。年は二十代半ばで、淡い生成色のスーツにパナマ帽をかぶっていて、整った顔立ちに金色の丸縁メガネが似合っている。大正とか昭和とか、そういう時代を舞台にしたドラマに出てくるような格好だ。
「君は……」
 ポケットから銀色の鎖が覗いていて、そこには同じ銀色の小さな鈴。
 りん、りん。
 さきほどの音は、この鈴だったようだ。
「大丈夫? 立てるかい」
「はい、えっと……無理です」
 周囲の奇妙な人影は、まだ消えていない。膝が笑ってたてそうもなかった。
 人影のなかで青年だけがリアルに見えるのも気持ちが悪いような気がした。
「ふむ……なるほどね」
 青年はじっと何かを考えると、あやめの体を両腕で抱き上げた。
「えっ! あの、ちょっと」
「静かに。それから、目を伏せているといい。人の少ないところまで行こう」
「人の少ない……」
「おっと、ごめん。そういう意味じゃなくて……とにかく、僕にまかせてくれ」
「歩けます、歩けますからおろしてください!」
「そうかい?」
 さすがに、お姫様抱っこは抵抗があった。
 まだ膝が震えているけれど、どうにか自分で歩けそうだ。鈴の音の青年が、ずっと肩を支えてくれていたからだけれど。そっと手を握られる。大きくて暖かい手だ、とあやめは思った。
「下を向いていて。僕についてきて」
「は、はい」
「いいかい、僕の手を離してはいけないよ」
「……はい」
 手を引かれて駅舎を歩く。
 周囲を見ないように、ずっと地面を睨みつけながら歩いた。
 駅舎を抜けて、町中を進む。
 ずいぶんと歩いたころに、男が足を止めないまま「もういいだろう」と言った。
 その声にあやめが、おそるおそる顔をあげると──
「え、ここどこ?」
 夕焼け空。
 レンガ造りのレトロな建物。
 その間に揺れる、赤い提灯。
 見たこともない街並みが広がっていた。
 あやめは東京駅にいたはずだ。けっこう歩いたとはいっても、せいぜい一駅くらいのはずだ。それなのに、コンクリートの建物の立ち並ぶ東京の街が、どこにもない。
「ああ、やはり君はウツシヨから来たんだね」
 絶句しているあやめに、男が言った。
「ウツシヨ?」
「君たちの世界のこと。あやかしと不思議なき世だ」
 柔らかく、唄うような口調にあやめは聞き入ってしまう。
 あやかし。不思議。
 あやめは息を呑んだ。もしかして、自分は死んでしまったのかもしれない。ここは、あの世なのではないか。そうでなければ、こんなことは説明がつかない。
「嘘、でしょ……私、死んで……?」
「ははは。大丈夫、死んでないよ。ここは君たちの世界とは違う理で動く、カクリヨだ」
「カクリヨ……」
「ウツシヨとカクリヨ、硬貨の表裏のように存在する別世界さ」
 足早に歩いていた男が、ぴたりと止まった。
「さぁ、ついたよ。とりあえず入って。話はそれからだ」
 そこは木造の小さな二階建てで、壁は男のスーツとおなじ生成色に塗られている。
 入り口に立て掛けられた大きな看板には筆字でこう書いてあった。
「楢崎……探偵事務所……?」
「申し遅れてしまったね。僕は楢崎龍彦。一応、ここの所長だ」
 龍彦は言った。
 頬に浮かんでいる柔和な笑みが、奇妙な影法師が歩き回っている異界に迷い込んだあやめを安心させてくれる。この人はいつも微笑んでいるタイプの人なんだろうなと思った。
 初めて会ったはずなのに懐かしい面影を感じさせる人だ。
「えっと、東條あやめです」
「よろしく、あやめさん」
「あ、はい、よろしくお願いします。楢崎……さん?」
「できれば、龍彦と呼んでもらえると嬉しい」
「龍彦、さん」
 初対面の男性を名前で呼ぶのは初めての経験だった。
 龍彦は満足そうに頷いて、あやめを事務所の中に迎え入れた。

◆◆◆

 事務所の中には、書類が山積みになっている大きなデスクと応接ソファがあった。デスクは龍彦のものだろう。ソファに座っているようにと勧められた。
 部屋の中で一際目立っているのは、おじいさんと時計の童謡で歌われているのにそっくりの柱時計だ。
 やはり全体的にレトロな感じをうける。
 あの気味の悪い影法師がいないことで、あやめはかなり落ち着きを取り戻していた。
「あれ、お茶ってどうやって淹れるんだろ?」
 龍彦に促されるままに皮張りのソファに座っていると、台所からそんな龍彦の声とともに、ガッシャンという不穏な音が聞こえてきた。
「うわぁ、茶筒が!」
「あの……お茶、私が淹れましょうか……?」
 さすがに黙っていられなくて台所に顔を出すと、龍彦が心底嬉しそうに笑った。
「いいのかい? お客様なのに、悪いんだけど」
「お茶汲みなら慣れてます。この急須使っていいですか?」
「もちろん!」
「お茶っぱは……少し残ってますね」
 床に落ちている茶筒を拾い上げると、何杯か分のお茶っ葉は残っているようだった。煎茶の香りが鼻をくすぐる。
 やかんで湯を沸かそうとして、あやめは手を止めた。
 コンロがある。あやめのアパートにあるコンロとほとんど同じ見た目だ。
 けれど、五徳はあるのにガス火をつけるためのつまみが見当たらなかった。
「ごめんよ。その間に僕はこっちの掃除をするから……えぇっと、箒はどこだったかな」
「あの、龍彦さん」
「なんだい?」
「火はどうやって着ければ……?」
「そうか、すまない。ウツシヨとは違うところだった……そこの棚に紅色の符があるだろ」
「符って、この切符みたいなやつですか?」
 棚には小さな箱があった。マッチ箱ほどの大きさの木箱を開けると、見慣れない文字の書かれた切符のような紙切れが入っていた。
「ああ、そうだよ。貸してみて……そらっ!」
「わっ」
 龍彦が「ふぅっ」と符に息を吹きかけ、コンロの上に落とした。
 符が一瞬、小さな蝶の姿になってから、ぼぅっと燃え上がって見慣れた青い火になった。
「この符は、カグツチ様のご利益だね」
「カグツチ様……ご利益……」
「家庭用の火の神様の符、ってところかな」
 龍彦はそう言って、ふんわりと笑った。
 訳のわからないことだらけだが、どうやらこの人は信用できそうだ。
 あやめは手早く煎茶を淹れ、丸盆で二人分のお茶を運ぶ。
 どうにか床掃除を終えた龍彦が、「とっておきだよ」とカステラを出してきてくれた。
「まぁ、ようするに異世界に迷い込んだとでも思ってくれればいいよ」
 真っ黄色のカステラを切り分けながら、龍彦が説明をしてくれる。
 ここはカクリヨ──幽世──といって、霊的な存在があたりまえに存在する世界らしい。ここの住人はあやめの世界であるウツシヨ──現世──からは認知できない。ときどき混線がおきることがあって、その場合は幽霊のように見えるらしい。
「ウツシヨとカクリヨは、すぐ隣にあるけれどお互いに行き来はできないんだ。普通はね」
「普通は、ですか」
「うん。たまにそういう事故が起きるけど、そっちでは神隠しって呼ばれているらしいね……はい、カステラどうぞ」
「ありがとうございます」
「こっちに迷い込んだっていうことは、なにか霊的な素質があるのかもね」
「あー……なるほど……」
「ともかく、僕がたまたま帝都駅にいてよかったよ」
「帝都駅ですか、東京駅ではなくて?」
「そ。こちらでは、帝都駅」
 むぐむぐとカステラを頬張った龍彦は幸せそうに煎茶に手を伸ばす。
「カクリヨの帝都にようこそ、東條あやめさん」
 ふわり、と龍彦が笑った。口の端に、カステラのかけらがついている。
 人好きのする笑顔だけれど、なんだか何かが引っかかるような気がした。
 あやめもカステラを一口いただくことにする。はちみつの風味が豊かで、じゅわっと甘いカステラだった。分厚くて甘い耳には、たっぷりのザラメが使われていて歯触りが楽しい。
「おいしいです」
「それはよかった、お気に入りなんだ」
「ごちそうさまです」
「でも、ウツシヨに帰る手立てを考えなくてはね。君の縁者が心配するだろうから」
「そう、ですね」
 あやめのことを心配してくれる人など、身近にはいないのだけれど。
 会社がまだあれば出勤してこないことを不審に思ってもらえたかもしれないが、今となってはそれも望めない。
 惨めな気持ちになりそうで、慌てて別の話題を切り出した。
「あの、龍彦さんは探偵さん……なんです?」
「うん。しがない探偵だ。迷い猫探しから不貞調査までなんでもやるよ」
「かっこいいですね、ハードボイルドです」
 あやめは本物の探偵というのに人生で初めて会った。ドラマや小説の中に出てくる探偵そのものといった雰囲気の龍彦は、照れ臭そうに笑う。
「ん? 褒められているのなら、ありがとう……まぁ、ちょっと特殊な案件も扱うけど」
「特殊案件?」
「うん。……ほら、ちょうどお客さんみたいだ」
 あやめが首を傾げると、誰かがドアを叩いた。
 ドンドンという音とともに、テーブルに置かれたランタンの火がゆらりと揺れる。
 ノックのわりには、ちょっと強過ぎないだろうか。地面が揺れているのですが。
「わ……」
「鍵をかけておいてよかったな。あやめさん、えーっと……その姿じゃマズいな」
「え?」
「失礼」
 龍彦があやめの手を取った。手のひらに一枚、玉虫色の符を握らせて、ふぅっと息を吹きかける。一瞬、ぽぅっと光った符が吸い込まれるように消えた。
 されるがままのあやめに、すぐに異変がおきた。

 なんだか頭がムズムズする。
 ついでに、その、お尻も。

 妙な感覚に「ひゃっ」と声をあげてしまう。
 しばらくすると、淡い光に包まれていた視界が、すぅっと元に戻っていった。
「な、なにをしたんですか?」
「これでも探偵稼業だからね、めくらましの符だよ」
「めくらまし……?」
「うん。これでしばらくは、あやめさんはカクリヨの住人として認識される。見慣れないウツシヨ人がいると騒ぎになるからね。最悪の場合、喰われるかもしれない」
「く、喰われる……!」
「あくまで最悪の場合、だけどね。あとは、これで君も周囲の人がよく見えるようになると思うよ。めくらましの符には、存在を少しだけ周囲の気に馴染ませる効果もあるから」
「は? あ、あの」
 あやめがどういうことだと尋ねようとした瞬間、事務所のドアが乱暴に開いた。
 鍵が吹っ飛んで、カランと金属質な音を立てて床に落ちる。
「楢崎探偵、ちょいとよろしいか?」
 轟くような声。
 来客の姿を見て、あやめは石のように固まった。
 龍彦が壊されたドアを一瞥して肩をすくめる。
「うわぁ、乱暴だなぁ……」
「鍵なんぞかけておるからじゃ、わしが来るのに」
「いらっしゃるなんて前もってわかりませんよ、未来視持ちじゃないんですから。相変わらず、理屈も乱暴ですね」
「ぐわっはは、そりゃすまんかった!」
「それでどうしましたか、ヤマモトさん」
「ひ、ひっ……」
 ヤマモトと呼ばれたのは、人ではなかった。
 身の丈が3メートルほどもありそうな、筋骨隆々で、肌が燃えるように赤い──
「お、鬼……」
 鬼だ。どこからどう見ても鬼だ。
 龍彦はあの柔和な笑みを浮かべて、普通に鬼と談笑している。どうやら探偵事務所の客らしい。これがカクリヨの住民ということなのだろうか。
「お? わしは確かに鬼じゃが……見ん顔じゃの」
「ああ、彼女はあやめさんといって臨時のお手伝いさんです」
 ヤマモトは特にあやめを不審がることなく、ガハハと大口をあけて豪快に笑った。
 めくらましの符の効果はしっかりと出ているようだ。
「なんと、隅に置けんなぁ楢崎探偵!」
「ははは、ヤマモトさんほどではないですよ。あやめさん、お茶をお願いできますか?」
「は、はい」
 あやめは探偵事務所のお手伝いさんということらしい。
 もしカクリヨの者ではないとバレたら、喰われるかもしれない。ここは話を合わせておくのがいいだろう。
 自分たちが使っていた湯呑みを片付けて、新しく茶を淹れた。龍彦が派手にこぼしたお茶っ葉は、ギリギリでもう一杯くらい淹れるくらいは残っていた。
 応接セットに座っている龍彦とヤマモトに茶を出すと、あやめをじっと見つめていた赤鬼のヤマモトが上機嫌そうに肩を揺らす。
「ほー、こりゃ美味そうだ」
「お、おいしくありません……」
「む?」
「あやめさん、ヤマモトさんはお茶の話をしてるんですよ」
「失礼しました。あの、美味しく淹れられたと思います……」
 普段のあやめであれば、この失言ですっかり萎縮して震えていただろう。
 けれど、今は不思議と堂々と背筋を伸ばすことができた。めくらましの符の効力なのだろうか。
「それでのぅ、楢崎探偵。依頼というのは他でもない……このあたりに、妖魔が出た」
 妖魔。
 物騒な言葉に、あやめは心臓が跳ねるのを感じた。
「妖魔……知っての通りカクリヨのあやかしは悲しみ、憎しみ、怒り……そういった感情に呑まれて妖魔となる。心を失い、見境なく他者を害する悪霊となる」
「はい。悲しいことです」
「そう言いながら顔が微笑んでるな、相変わらず」
「すみません、生まれつきなもので」
「ふん、気に食わんのぅ」
「まぁまぁ、今は妖魔の話です」
「うむ……やつらがカクリヨにおるうちはまだマシじゃ。妖魔となったあやかしがウツシヨに出れば、やがては人間のやつら──祓魔師に祓われて悪霊として生を終えてしまう」
 ぐぅっ、とヤマモトが顔を歪ませる。彼にとって、それは耐え難い出来事なようだ。
「彼らも仕事ですからね」
「だが! そうなれば、妖魔となったものは未来永劫悪しきものとして冥府をさまようこととなる。この町内からそのようなあやかしを出すわけにはいかん!」
「ヤマモトさんのお気持ち、重く伝わっております」
「そして、我らあやかしは妖魔に触れれば邪気に当てられてしまう。人間のおぬしに頼むほかないというのが、もどかしい話じゃが……」
「お気になさらず、そのための楢崎探偵事務所ですから」
「ふん、商売上手め。幸い、目撃された妖魔はまだ完全に魔に落ちたわけではなさそうでのう。討つのではなく、できればあやかしに戻してやってほしい」
 そう言って、ヤマモトは巨体を傾けてズボンのポケットを弄った。
 どさり、どさどさ。
「わっ」
 あやめは大きく息をついて、慌てて両手で口を覆った。
 札束だ。
 それも、あやめが見慣れた日本銀行券。なお、一万円のやつ。
 おそらく、あやめが会社勤めで得ていた年収のゆうに十倍、いや、それ以上ありそうな札束が無造作にどさどさと積まれていく。
 それを見ている龍彦は、いたって涼しい顔で微笑んでいる。信じられない、とあやめは目眩を覚えた。
「おや、これは」
「これで穏便な解決を頼みたい。心の邪気に呑まれ妖魔になりかけた我らが同胞を、必ずあやかしに戻してやってくれ」
「なるほど、こりゃ報酬が弾みますねぇ」
「おぬしはウツシヨの金でしか妖魔案件を請け負わん偏屈なヤツじゃが、腕は確かだと知っておるからな。期待を裏切らんでくれよ」
「恐れ入ります」
「それから、そこの娘」
「……」
「おぬしじゃ、おぬし!」
「え、ああ、私ですか! ……そうですよね、私です」
 「娘」なんて呼ばれたことがないし、もはやそんな年齢でもないはずなのに。くすぐったいような気持ちで、背筋を伸ばす。
「おぬしも楢崎の手伝いをしておるのなら、きっちり一割は分け前がある」
「えっ」
「ウツシヨの金なんぞ貰っても仕方がないかもしれんが、あとから換金所に持っていくなりなんなりすればよい」
「……はぁ」
 助けを求めて龍彦を見ても、穏やかに微笑んでいるだけで助け舟はなさそうだった。
 妙な世界に迷い込んだと思ったら、妙な事件に巻き込まれようとしている。
 普通の感覚だったら、今すぐ元の場所に帰りたいと思うだろう。けれど、あやめは今、とても興奮していた。わくわく、しているのだ。
 知らない人と出会って、知らない事件に巻き込まれて。
 こんなのまるで、主役みたいじゃないか。
 だから、嫌だとは言えなかった。
「それでは、後は頼んだぞ。おぬしのところの用心棒にも声をかけておるからな」
「ええ、鉄夜くんにも? 根回しが早いんだから……」
「はっはっは、伊達に町内会長はやっておらんわ」
 ヤマモトはよいこらしょと巨体を揺らして、扉のなくなったドアから出て行った。
 小さな探偵事務所がミシミシと音を立てて、ランタンが今にも消えそうなぐらいに揺らぐ。大きな鬼の姿だけれど、その背中を見送るころには怖いという気持ちは消えていた。
「ヤマモトさんはお山の神様だったんだよ」
 穏やかな声で龍彦が言った。
「それが切り崩されてしまってカクリヨで隠居することになったんだが、あの通り面倒見のいい性格でねぇ……この辺りの元締めをしてくれている。人間の僕にもよくしてくれているんんだ」
「えっ、人間……?」
 気にはなっていたことだ。龍彦はカクリヨの住民ではないではないか。
「うん。僕はもとは君と同じマレビト……カクリヨに迷い込んできたウツシヨ人だ」
「そうだったんですか」
「迷い込んできたというか、望んでこちらに来たんだけどね。やっと最近になって、そういうもんだと受け入れてもらえるようになったよ」
 よいしょ、と龍彦が立ち上がる。
「さて、君をウツシヨに送り届けなくちゃと思っていたから、妖魔騒ぎは渡りに船だ」
「そうなんですか?」
「妖魔はカクリヨとウツシヨの裂け目に引き寄せられる習性があるんだ。彼らはウツシヨに出ていきたがる」
「あ、じゃあ……その妖魔になりかけている人を探せば」
「ああ、君がウツシヨに帰る道も見つかるかも」
 行こうか、と龍彦がパナマ帽を被って事務所から出て行った。
「え、あのドアは直さないんですか!?」
「あとででいいよ、盗られるものもないしね」
 のんびりとした口調でとんでもないことを言う、防犯意識皆無の探偵。
 あやめは慌てて、その背中を追いかける。
「さ、行こうか」
 追いついてきたあやめに、龍彦は例の柔和な笑顔を向ける。
 なんだか懐かしいような、くすぐったいような。そんな笑顔に、あやめは思わず顔を伏せた。

 ◆◆◆

 カクリヨの大通りは、まるで縁日のようだった。
 至るところに吊るされている赤い提灯がそう感じさせるのかもしれない。
 夕焼け空を見上げると、見慣れないものがあった。
「あっ! 電車……」
「ああ、モノレールだね」
 ひしめき合うように建つビルや家屋の間を縫うように、モノレールが走っている。
「あれがカクリヨの列車だよ。ここの列車は空を飛ぶ」
「すごい……」
「ほらほら、上ばかり見ていると転ぶよ」
「は、はい」
「君、とても人目を引くから気をつけて」
 舗装されていない道を歩くのは子供の時以来で、あやめは何度かつまずいて転びそうになった。そのたびに龍彦が「おっと!」と支えてくれた。お茶も淹れられないわりには、とてもまめまめしい性格の人のようだ。
 行き交う人々も商売をしている人も、色々な姿形をしている。
 耳の生えたもの、ツノの生えたもの、まるっきり二足歩行の爬虫類っぽいもの……カクリヨの住民、あやかしの姿をちらちらと見ながらあやめは興奮していた。
(すごい、私……本当に異界にきちゃったみたい)
 物語の中に入ってしまったような錯覚に、胸をときめかせた。
 帝都駅では不気味な影法師だった人影もあやかし達だったらしい。龍彦が使ってくれためくらましの符のおかげで、カクリヨの様子が鮮明に視認できるようになったらしかった。
「ふふ、あまりキョロキョロするとまた転ぶよ」
「ごめんなさい、珍しくて」
「怖くはない? 慣れないと気味悪く感じるものだけど」
「はい、あの……そうですね。怖くないです」
「そりゃよかった。めくらましの符の効果はカクリヨにいる間くらいは持ってくれるはずだよ」
 もうすこし、カクリヨを楽しみたい気分だ。非日常、なんてあやめの生活にはなかったものだから。この思いがけない冒険を、満喫しよう。
 ふと空を見上げて、違和感を覚える。
「あの、龍彦さん」
「なんだい?」
「空が……ずっと夕焼けです」
 モノレールが悠々と茜色の空を縫う。
 あやめがカクリヨに迷い込んでから、少なくとも一時間ほどは経っているはずだ。それなのに、最初に見上げたのと同じ夕焼け空が続いている。いくらなんでも、そろそろ夜が訪れてもおかしくない。
 龍彦が「よく気づいたね」と微笑みを深くする。
「カクリヨはね、ずっと夕暮れなんだよ」
「ずっと……?」
「そう。基本的には、ずっと夕焼け空なんだ。昼と夜のあわいがずっと続く。夜になることも稀にあるけど、それはカクリヨにとってはちょっとした緊急事態だよ。夕焼け空こそが日常なんだよね……ほら、ウツシヨでは逢魔が刻っていうでしょ」
 たしかに、夕方五時ごろを「逢魔が刻」と呼ぶ。
「夕暮れ時にはウツシヨとカクリヨの境目が曖昧になるんだろうね。空は繋がっているんだ」
「なんだかロマンチックですね」
「そりゃどうも……僕はこの空が好きなんだ。曖昧で、美しくて、優しい空だろう」
 空、か。
 あやめは改めて、カクリヨの空を見上げる。こうして空を見上げるのは久しぶりだ。ずっと下を見て過ごしていた気がする。脇役は空なんて見上げてはいけないのだと、そう思いながら。
「さて、この辺りが現場って聞いたけど」
 龍彦が立ち止まったのは、帝都駅にほど近い路地だった。
 狭い路地にひしめき合うように小さな店が並んでいる。頭上に揺れているのと似た赤提灯に書かれている文字を見るに、居酒屋のようだった。
 不思議なことに、カクリヨの文字はウツシヨのものとよく似ていた。ところどころ異なるところはあるが、脳内で補完して読める程度にはわりとちゃんと日本語だ。
 路地には美味しい匂いのする香ばしい煙が白く立ち込めている。脂の焼ける、あの独特の甘い匂い。焼き鳥だろうか。店からは楽しそうな笑い声が聞こえる。
「ここに、妖魔が」
 あやかしだってそれなりに見た目は怖い。妖魔ともなればかなり恐ろしい見た目をしているに違いない。
 こんな狭い場所で遭遇したらと思うと、背筋がぞわっとする。
「ついでにウツシヨに帰る裂け目もあるかも」
 龍彦が言った。
 裂け目というのは、いつも同じ場所にあるわけではないらしい。
 あちこちに綻びのように出現しては、しばらく経つと消えてしまう。カクリヨからウツシヨへの帰り道は、その裂け目を探すのが一番手っ取り早いそうだ。
「君は不思議な子だね」
「はい?」
「全然、帰りたいって言わない」
 龍彦にじっと見つめられて、あやめは思わず俯いた。
 失業したこと、ずっと脇役の人生なこと、実家とも疎遠で親しい人も身近にいない生活なこと……初対面の龍彦にそんな話をしていいのかどうか、わからない。
「あの、えっと」
「おーい、龍彦!」
 あやめが口ごもっていると、急に威勢のいい声が響いた。
「え?」
「龍彦ぉ! 遅いじゃねぇか、待ちくたびれたぜ」
「おっと、この声は」
「こっちだこっち、上だよ!」
 少し掠れた男の声が龍彦を読んでいる。
 「上?」とあやめが空を見上げると、飲み屋の二階から男が手を振っていた。
「こっちこっち、待ちくたびれちまったから先に聞き込みしてたぜ!」
「本当に聞き込みかい? 飲んだくれてるだけじゃないだろうね、鉄夜くん」
「人聞きが悪いじゃねぇか……よっと!」
「きゃっ!」
 鉄夜と呼ばれた男は、お猪口と徳利を片手でまとめて持ったままひょいっと二階から飛び降りてきた。
 すと、と軽い音を立ててあやめと龍彦の間に着地する。しなやかな獣のような身のこなしだ。
 鉄夜は龍彦と同じくらいの年齢に見える。背格好もだいたい同じで、極めて人間に近い見た目をしている。少し変わったところといえば、髪の色だろう。鉄夜の癖の強い黒髪は、前髪の一部が真っ白くなっている。メッシュを入れたバンドマンのような感じだ。
 たっぷりしたデザインの袴のようなズボンにガラシャツ、その上から膝丈の黒羽織をダボっと羽織っている──はっきり言って、ものすごく胡散臭い。なんだか酒臭いし。
「ん? なんだ、この姉ちゃん」
 垂れ目ぎみの目で、鉄夜がじとーっとあやめを見る。頭のてっぺんから爪先まで、観察するような目つきだ。
「と、東條あやめです」
「ふーん……めくらましの符、使ってんのか」
「えっ、わかるんですか」
「匂いが違うからな」
 得意げに言う鉄夜。
 匂いに違いがあるのだろうか。こっそり自分の匂いを嗅いでみたけれど、あやめにはその違いはわからなかった。
「あやめさん、彼は鉄夜くん。うちの頼れる用心棒だよ」
「ま、お前が弱腰だからな。で、そちらさんは?」
「鉄夜くん、こちらはあやめさん。色々あって、同行してもらってる……妖魔騒ぎに乗じて、裂け目を使わせてあげたくてね」
「へぇ、あんたマレビトってことか。こんなとこに迷い込むたぁ、災難だな」
 とっとっとっ、と酒をついで鉄夜はあやめにむかって乾杯の仕草をする。
「ま、よろしく」
「よろしくお願いします……」
 酒を煽る鉄夜。
 それをニコニコと見ている龍彦。
 まったく正反対の二人だ。どういう関係なんだろう……とあやめは二人を見比べた。
「立ち話もなんだから、飲み直そうぜ」
 鉄夜がバシバシと龍彦の肩を叩く。
「うん、それはいいけど……鉄夜くん、この店の支払いは?」
「ぐっ」
「まさか、このままトンズラしようとか思っていないよね?」
「ぐぐっ……」
「食い逃げはダメだよ。うち宛に請求書が何通か来ているから、それは自分で払ってね」
「……ちっ、わかったよ。次の店は経費で落としてくれよな」
「考えておくよ。聞き込みの成果次第だね」
 龍彦が肩をすくめる。
 待ってましたとばかりに鉄夜がニヤッとわらう。
「おっと。だったら経費飲みはいただきだな」
「あはは。さすがは鉄夜くん。もう情報は掴んでくれてるんだね」
 では、この店ではちゃんと聞き込みをしていたようだ。
 見た目によらず真面目なのかもしれない。
「いや?」
 あやめがそう思ったところで、上機嫌そうに鉄夜が肩を揺らす。
「今の店では飲んだくれてただけだ」
「……」
 胡散臭い用心棒だが、どうやら腕はたしかなのは間違いなさそうだ。