「はい、これで入部完了!」
目の前の用紙を奪うように手にした女子が、うれしそうに笑みを浮かべている。
ポニーテールのしっぽがしゅるんと揺れるのを、ボールペンを手にしたままぼんやり見る僕。
ひらひらと揺れる用紙には、書いたばかりの僕の名前が記されていた。
高校の入学式のあと、広い構内を歩きまわってようやく見つけた『園芸部』の部室は、裏山近くにぽつんとあった。
木でできた小屋みたいな建物で、よく言えばログハウス調。悪く言うなら、老朽化している物置といったところ。
入り口の薄いドアの横に『園芸部』とプレートが出ていたおかげでわかったけれど、普通なら素通りしてしまうだろう。
部室の中は四人がけの小さな机とパイプ椅子があるだけで、あとは所狭しと土の入った袋や作業道具、エプロンやビニール手袋が置かれていた。
土のにおいが宙に漂っていて、窓からの日差しに白いほこりが舞っているのが見える。
「入部? お試し入部じゃないんですか?」
そう尋ねる僕に、目の前の女性は「ん?」と口角をあげてから、
「ま、いいじゃん。入部ってことで」
なんて肩をすくめた。
彼女はこの部に所属する先輩らしい。
部室のそばにある花壇にいた彼女に声をかけたところ、あれよあれよという間に案内され、数分後には『まずはお試し入部をしよう。うん、そうしよう』と半ば強引に書類にサインをさせられたのだ。
でもまあ、どのみち入部しようとしていたしいいか……。
ひとりで納得していると、女性は改めて用紙を眺めた。よく見ると、用紙の右上に小さく『入部届』と記されてある。
「鈴木くん、ね。よろしく。私は部長の桜です」
「よろしくお願いします」
慣れないお辞儀をする。桜というのが苗字なのか名前なのかわからないけれど、部長だったんだ、と少し緊張。
「部長といっても、ほぼ引退しているけどね」
引退、の言葉が引っかかるが、
「よろしくお願いします」
ともう一度頭を下げる。同時に椅子がギイと甲高い悲鳴をあげた。
挨拶もそこそこに部室に通されてからまだ十分も経っていない。
ほかの部員はまだ顔を見せていない。入学式の今日は部活動自体がないのかも。
それにしても、普通は入部する前にいろんな説明をしてくれるものだと思っていたけれど、今のところその気配はない。
言いようのない不安が首をもたげてくる。
「鈴木くんも、明日からは動きやすい恰好にするといいよ」
この高校は制服がないことで有名だけれど、さすがに今日は入学式。
慣れないスーツ姿を見おろすと、七五三のようで恥ずかしい。
「今日は入学式だったので――」
「だよね。それより引継ぎを済ませるね」
言いわけを遮るように桜先輩はことを進めてくる。
引継ぎ?
一瞬ハテナマークが頭に浮かんだが反射的にうなずいてしまった。
うしろにある棚から緑色のファイルを取り出す桜先輩のポニーテールがまた揺れる。
差し出されたファイルは薄い紙製。何年も使っているようで、端っこに折り目が色濃く残り、土の汚れなのか黒ずんでいる。
開くと、手書きの文字がびっしり並んでいた。
「この高校って緑が多いでしょう? それを部員と、下瓦さんていう用務員さんだけで世話するから大変なの。あとは経費管理とかもあるしね。大事なところは、このマニュアルに付箋を貼っておいたから読んでね」
ファイルを見ると、たしかにいくつかの紙片が見える。
「え……どういう……?」
「すぐに慣れるから大丈夫。ちなみに顧問の先生はいないから、実質下瓦さんが担っているの。それから苗をいつも買っているのは――」
「ちょっと待ってください!」
いつもの声量の倍くらいの声を出すと、ようやく桜先輩は言葉を止めてくれた。
きょとんとしている桜先輩におそるおそる口を開く。
「情報量が多くて……。すみません、徐々に覚えていってもいいですか?」
てっきり返事はYESだと思っていた。
が、桜先輩は首とポニーテールをキッパリと横に振った。
「それは無理なの」
「無理?」
「明日からは鈴木くんだけが頼りなんだから、がんばって覚えましょう」
「え?」
想像もしていない展開に唖然とする僕に、桜先輩はなぜかにっこり笑った。
「それにしてもこんなイケメンが園芸部に入部してくれるなんて、うれしいけどなんだか申し訳ないなあ。鈴木くんて俳優のあの人に似てるよね。ほら、日曜日の夜のドラマの主役で――」
うれしそうに話しつづける桜先輩の声がふっと遠ざかっていく感覚。
それは、いやな予感がむくむくと成長しているから。青空に黒い雲が音もなく広がっていく感じ。
「質問……なのですけれど」
「うん。なんでも聞いてね」
首をかしげる桜先輩に、すうと息を吸いこむ。
「ほかの部員のかたはどこにいるのですか?」
「みんな引退しちゃったの。下級生たちがいた時期もあったんだけど、下瓦さんが怖いとか言って、やめちゃった」
いたずらっぽい顔をしてくるけれど、ちっとも笑えないし。
「つまり、部員は……」
恐ろしくて最後まで言えない僕に、桜先輩はにっこりと笑みを作った。
「誰もいないよ、でも大丈夫。園芸部はたとえ部員がひとりでも継続してもらえるから。環境美化は学校にとっても必要だから特別待遇なんだって。よかったね」
ちっともよくない。
特別感を出してくる桜先輩に違和感しか生まれないし。
そんな僕に気づかないのか、桜先輩は居住まいを正すと真っ直ぐに僕を見た。
「ということで、今日からきみがこの園芸部の部長になるの。がんばってね」
「部長? ちょっと待ってください。……桜先輩もいてくれるんですよね?」
「ごめんね。私も『退部届』は提出済みなの。いわばボランティアってとこ。なんたって受験生だからね。部員はたったひとり。鈴木くんだけだよ。ようこそ、園芸部へ」
ああ、僕はとんでもない部に入ってしまったのかもしれない。
ショックのあまり呆然とする僕に、パチパチパチと桜先輩の拍手の音だけがむなしく響いていた。
あれよあれよという間に、桜先輩に用務員室に連れていかれた。
園芸部をみてくれている下瓦さんに紹介してくれるそうだ。
用務員室は部室よりも立派な建物で、下瓦さんと思われる男性は、そばにあるチューリップが咲き誇る花壇を手入れしていた。
灰色のつなぎ姿の下瓦さんは想像よりも若く、五十代半ばという印象。
がっしりとした体型で、春だというのに日焼けした顔をしている。
帽子をかぶっていてその下にある顔はいかつく、気難しそうに口をへの字に固く結んでいる。
「鈴木です。よろしくお願いいたします」
これまでの人生で最大級のお辞儀をして挨拶をするが、下瓦さんはこちらの顔を見ることもなく、
「余計なことはするな。素人がやるとすぐにだめになるからな」
と言うと、自分の作業に戻ってしまう。
それが彼の発した唯一の言葉だった。
◆◆◆
「また寝てんの?」
机でぐったりとしている僕に、犬神の声が降ってきた。
「寝てない。ただ疲れてるだけ」
のそっと顔を起こすと眩しい太陽の光に目がやられそう。
空いている前の席にどすんと座った犬神が「ふーん」と腕を組んだ。
犬神はこのクラスでできた最初の友だちだ。はじめて会ったときから冗談ばっかり言っている印象で、僕よりも身長が高い。
それでもサラサラの茶髪にあっさりとした顔、言いたいことを言うくせに時折見せる人懐っこい笑みで女子からは人気らしい。
「てか、昼休みも部活なんて入学早々大変だな」
同情を顔に浮かべる犬神に、僕は大きく首を縦に振った。
「大変どころじゃないよ。下瓦さんに気に入られようとがんばってるけど、肥料や土の運搬やら雑草抜き、水やりに手入れ。やることだらけで追いつかないんだよ」
『余計なことはするな』と言われたから、てっきり見習い気分でいいのかと思ったのが間違いだった。最近は毎日筋肉痛で体中が悲鳴をあげている。
「この学校、たしかに植物だらけだもんな」
犬神がやった視線の先には、校門に沿って置かれているプランターが見える。
何十というプランターには、ポピーが群れをなして甘いピンク色の花を咲かせている。
これも、下瓦さんが丁寧に手入れしているからこそ。熱心に作業している姿を、ここからよく見ていたから。
少しでも役に立ちたいけれど、必死で走り回ることしかできないのがじれったくもあり、つらくもあるこのごろだ。
ため息をつく僕に、なぜか犬神は顔を近づけてきた。
「鈴木のこと、女子がウワサしてるの知ってる?」
「え? なんて?」
「土にまみれているのがかっこいい、だってさ」
「なにそれ。今はそれどころじゃないし」
宣誓通り、桜先輩はあのあと部室に現れることはなかったし、本当にひとりで部活をやっているのだから。
そんな僕に、犬神は人差し指を向ける。
「そういうとこずるいよなあ」
「なにがずるいんだよ」
ムッとしてつい言い返してしまった。
まだ知り合ってから日も浅いのに距離を詰めすぎたかも。気の弱い性格は昔から変わらない。
犬神は「ふっ」と鼻から息を吐くと、
「なんでもない。でも、楽しそうで羨ましい」
と、よくわからないことを言ってきた。
楽しい?
そんな感覚、まだ味わったことがない。
「なら犬神も園芸部に入ってよ」
「無理! おれは陸上部だけで精一杯。鈴木が陸上部も兼部するなら話は別だけどさ」
苦い顔をしたのだろう。犬神は「はは」と笑って自分の席に戻っていく。
ため息をつけば、チャイムの音が校舎に響いた。
授業が終われば部室に直行する。
向かう道すがら改めて見まわすと、桜やイチョウの木々がいくつもあり、途中途中にある花壇にはサクラソウやスズランが咲いている。
土のないところには植木鉢やプランターが置いてあり、まだ名前の知らない花が黄色や白色のつぼみを膨らませていた。
部室の裏には大きな花壇があり、脇にはこれでもかという数の植木鉢が並んでいる。ここは、準備室のようなもので、ぷっくり膨らんだつぼみのカーネーションやバラが待機している。
まだ太陽が輝く午後。
最近は春らしい陽気に花たちも喜んでいるように思える。
弱気なことを言いながらも、日に日に花たちに愛情を持つようになっているから、僕はきっと単純なのだろう。
部室でエプロンをつけて外に出ると、まだ青空が広がっている。
鍵を閉めてから、もう一度花壇へ向かう。
そこに意味はなかったと思う。
強いて言うならば、『アネモネの花が植えてある二十個近い数の鉢を、近いうちに校舎脇へ移動させなくてはならない』ことが頭にあった程度。
これは下瓦さんに言われたことではなく、桜先輩からもらったマニュアルに書いてあったこと。
本来なら先月やるべきだったそうだ。
アネモネは、春の花を代表する一種だ。
キンポウゲ科に属していて、赤や紫、ピンクと花色が豊富なのが特徴。花壇の隅の鉢で咲くよりも、早めに学生の目に触れさせてやりたい。
ふわりと風が頬を撫でて去っていった。
風の行方を見るように一度振り返ってから花壇に目を戻すと、ひとりの女子生徒が立っていることに気づいた。
脇の土道で、彼女はまるで時間が止まったように動かなかった。
手前には芽吹き出した苗が並んでいる。その向こうに、アネモネが春の色を誇示するように首を揺らしていた。
その横顔は、色とりどりに咲く花に魅了されているように見えた。
肩までの髪が風にやさしく膨らんで、戻って、また膨らんでいる。
――まるで、花と会話をしているみたい。
そう感じたのも無理はない。
ようやく動いた女子は、その場にしゃがむと目尻を下げて花に顔を近づけたのだ。
なんてうれしそうな笑顔だろう。
気がつくと、僕は吸い寄せられるように女子のほうへ歩き出していた。
女子は、笑顔を残したままこっちを見た。そうしてから、魅力に抗えないようにアネモネに視線を戻す。
ゆっくりとした動きに、柔らかく甘い空気が存在しているように感じた。
「アネモネの花言葉を知ってる?」
思わず訊ねてしまったあと、急にドキッと胸が鳴った。
ゆっくりと僕を見る女子生徒の瞳に吸い寄せられる気がしたんだ。
ドギマギする僕に、その女子は「アネモネ」と言葉にせずに口だけを動かした。
そうしてから、また花たちに目を落とす。
「そっか、きみたちはアネモネっていう名前なんだね」
花がそよそよと首を振らし、そう答えているように思えた。そうしてから、はっとした女子は、はじめて僕に気づいたように目を丸くした。
「ごめんなさい。わたし、勝手に花壇に入っちゃって」
慌てて立ちあがったそのうしろに青空が広がっている。
「全然……いいよ。誰でも入っていいみたいだし」
「ここって園芸部の敷地なんですか? 探検してたらすごくたくさんの色が見えて、思わず入ってしまいました」
恥ずかしそうに口にするきみの印象は、髪のきれいな人。
青空と同じ色のパーカーの下で揺れている、チェックのロングスカートにばかり目がいってしまう。
普通に話せない自分がもどかしくて、わざと肩をすくめてみせた。
「タメ語でいいよ。僕も入学したばっかだし」
そう言うと、彼女はほっとした表情になった。
「そうなんだ」
「僕の名前は、鈴木です」
ペコリと頭を下げる僕。まるでお見合いみたいじゃないか、と情けなくなる。
なんでこんなに緊張してしまうのだろう。
「笠森です。笠森風花です」
そう言った彼女から視線をそらしてしまう。それくらい胸の鼓動が高鳴っているのを感じていた。
「アネモネ、ってすごくきれいだね」
風花という名前の女子生徒は言う。
「あ、うん」
「とくにこの白い花びらがきれい。なんだかいつまでも眺めたくなる」
愛でるように見つめる先には、パールがかった八重咲きのアネモネがある。
一瞬迷ってから、
「違うんだ」
そう言葉にすると、風花は目線をそのままに瞬きをした。
「勘違いされることが多いんだけど、色がついている部分は花びらじゃない。ガクと呼ばれている部分で、真ん中の黒紫の部分が花なんだ」
そう言ってしまってから、すぐに後悔する。
なにを偉そうに語っているんだ、と自分にツッコミを入れてから、
「まあ……きれいならなんでもいいよね」
言いわけのように口にする。
このまま立ちさりたい感情と戦っていると、風花はゆっくりと僕に視線を合わせてきた。
その表情は驚いたように目を丸くしている。
「鈴木くんってすごく物知りなんだね。花が好きなの?」
「まあ、うん……」
「すごい。わたし、見るのは好きだけど、ちゃんと育てたことはないんだよね」
まだ冷たい風が僕たちのあいだを駆け抜けていく。スカートの揺れが風の流れを教えてくれる。
「アネモネには、『風』という意味もあるんだ。春一番が吹くころに満開になるから」
聞かれてもいないのに説明をすると、
「風」
風花は何度もうなずいてから少し瞳を大きくした。
「さっき、『花言葉』って言ったよね? わたし、そういうのひとつも知らないよ」
「花言葉っていうのは、解釈がいろいろあるんだよ。これが正解、というのもないし、花の色によっても違う花言葉が使われていたりもするんだ」
なぜだろう。
初対面の相手なのにするすると言葉が出てくる。
戸惑いながらも、肺にいっぱい新鮮な空気を取りこんでいるような気分になる。
「アネモネの花言葉ってどういうの?」
澄んだ瞳で訊ねる風花に、いくつもの色を湛えるアネモネを見た。
「『はかない恋』。少しさびしい花言葉だね」
「そう……」
つぶやくように言う風花の顔が少し曇ったように見えて心配になった。
が、次の瞬間、彼女は白い歯を見せて笑った。
「鈴木くんといると、花のことに詳しくなれそう」
「どうだろう」
謙遜でもなんでもなく、昔から花に興味があっただけのこと。教えるなんておこがましいし、花に詳しいことを自分から口外したこともない。
風花が「決めた」と言ったように聞こえた。
戸惑う僕に風花が一歩近づく。
「ね、わたしを入部させてくれる?」
あまりに楽しそうに言う風花に驚きを隠せない。
今、なんて言ったの?
頭に、ふたり一緒に花壇の手入れをしている映像が浮かぶ。風花と一緒に時間を過ごせたらきっと楽しいだろうな、と思ったのも事実。
でも、それを意識してかき消した。
「あのさ……。やめといたほうがいいよ」
僕の言葉に風花はきょとんと目を丸めた。
「……だめ?」
あまりに悲しげな顔になるから、
「ちが、違う!」
意図せず大きな声を出してしまった。
いったい今日はどうしたというのだろう。うまく感情のコントロールができない。
片手で口を塞ぐ僕に、風花は戸惑った顔のまま。
「だめってことじゃなくてさ……。ほら、重い物を運んだりするし、クタクタにもなるし、顔も服もすごく汚れるし……」
ああ、だめだ。やっぱりうまく言葉が出てこない。
「それに、風花さんにはきれいな花だけを見ててほしいから」
最悪……。
これじゃあ口説いているみたいにとられてしまう。
もう眉の辺りまで覆っている指の隙間から風花を見ると、
「ふふ」
なぜか彼女は笑っていた。
「……いや、そうじゃなくて」
モゴモゴと口ごもる僕に、風花は軽くうなずいた。
「やさしいんだね。でも、わたし、こう見えても力持ちだよ」
「そうは見えないけど」
素直すぎる言葉がぽろり。
気にした様子もなく風花は「んー」となにか考えている様子。
「園芸部に入った理由を聞いてもいい?」
「え、理由?」
「どうしてそんなに大変な園芸部に入ったのかな、って」
適当な理由を言って誤魔化せばいい。そう思ったのに、頭に過去の映像が映し出されていた。
「昔……花がたくさん咲いている庭があったんだ」
いったん言葉を区切る。
先を促すように口をきゅっと閉じる風花に、軽く息を吐いた。
「僕のおばあちゃんの家。いっつもいろんな花が咲いていてさ、たまに手伝ったりもした。愛情をかけるほどに鮮やかな色で咲くんだ、って教えてもらってさ。手入れは大変だけど、やっと咲いた花がきれいなら満たされる。そう思ったから」
祖母はいつも庭にいて、その向こうには季節によってたくさんの花がその色を主張していた。
春にはアネモネが、夏にはマリーゴールド、秋にはオンシジウムやケイトウ、冬のエピデンドラム。
華やかなだけでなく、ともすれば供花になりそうな地味な花まで祖母は大切に育てていた。
思い出の中の祖母は決まって腰を折って花の手入れをしている姿ばかり。
『マリーゴールドの花言葉は、「可憐な愛情」。ほかには「友情」ってのもあるよ』
『オンシジウムは花が踊っているみたいに見えるじゃろ? 「一緒に踊って」という花言葉がよく似合う』
愛おしそうにシワだらけの顔で花を見る祖母。すらすらと説明する四季の花の名前や花言葉は自然に頭に入っていた。
「男なのに園芸部っておかしいよね」
自嘲気味に笑えば、
「そんなことない」
風花は秒を待たずに言ったので驚く。
「園芸部だってどんな部だって、興味があることに男女の差はないもん。絶対におかしくなんかないからね」
あまりにもはっきりと言う風花に、
「あ、ありがとう」
うなずくとなんだか肩の力が抜けた気がするから不思議だ。
「でも、園芸部に入った理由にはなってないよね」
「なってると思うよ」
風花が言うとそんな気がするのはなぜだろう。
「人だけじゃなく、花にもやさしいんだね」
さらりと風花が言うから、僕の顔はきっと真っ赤になっている。
「ね、わたし決めた」
そう言った風花の顔は太陽みたいに輝いていた。
「決めた、って?」
「やっぱりわたし、園芸部に入部したい。ね、いいでしょう?」
断る理由なんて最初からなかったんだ。うなずく僕に、風花は今日一番の笑顔を見せてくれた。
家に着くころにはとっぷり日が暮れていた。
二階建ての決して広いとは言えない家は、昔は母親の両親、つまり僕の祖父母が住んでいた。
もうふたりともこの世からはいなくなったけれど、一ヶ月前、両親の離婚を機にこの町に引っ越しをしてきた。
幼いころ、長い休みのたびに遊びに来ていた祖父母の家。父親はこれまで住んでいた埼玉県のマンションにまだ住んでいる。
離婚してからの方が、父親と話す機会が増えたのは確実だ。
まぁ、電話での会話ばかりだけど。
母親はまだ仕事なのだろう。台所には年子の弟が食べ散らかしたと思われるカップラーメンと菓子の空袋が置かれていた。
弟であるトールの部屋からは重低音が古い家を揺らすように聞こえている。どうせまたお気に入りのバンドの曲をかけているのだろう。
ちなみに『トール』は弟のあだ名だ。兄である僕よりも昔から背が高いという理由で叔父がつけたあだ名が、いつの間にか本名のように浸透してしまっている。
「またトールの奴……」
ブツブツとつぶやきながら蛇口をひねり手を洗う。
まだ冷たい水に急いで両手をこすり合わせていると、また、さっきの出会いが頭をよぎる。
不思議な女子だった。
花を見ているときはどこかさびしげに思えたのに、『入部したい』と言ってからの風花は、まるで絶対にそれを譲らないような強い意思を持った目をしていた。
入部届を書いてもらうあいだも、風花は次々に話題を繰り出していた。
『この高校に入ったのは、自然が多い環境だったからなの』
『家からは遠いのが難点だけどね。鈴木くんはどこに住んでいるの?』
『わたしは一年五組。鈴木くんは何組なの?』
『バイトとかはしないの?』
枯れることなく質問は続き、まるでインタビューを受けている気分になった。
女子と話はするけれど、こんなに長時間ふたりきりでいるのははじめてのこと。なのに、それを楽しいと感じている自分がいた。
風花はころころとよく笑い、僕たちはたくさんの話をした。
「でもな……」
台所のテーブルにつくと、椅子の上で伸びをした。
次々に言葉を重ねた風花は、どこか沈黙を怖がっていたようにも感じた。あれこそが彼女の持つ本質だと思う自分がいるのを否定できない。
って、女子のことなんてまったく詳しくもないのに勝手に思いこんでいるなんて、今日の僕はどこかおかしい。
玄関の鍵が開く音が聞こえたので体を起こすと、すぐに母が顔を出した。
「あら、帰ってたの。おかえりなさい」
「ただいま」
あべこべの挨拶をした母は、「もう」と台所の散乱状態を見て不満の声を出した。
「成長期ってすごい食欲ね。でもトールも片付けくらいしてくれたらいいのに」
「だね」
「すぐにご飯作るから。って言っても、スーパーのお惣菜がメインだけどね」
スーパーの袋を見せると、母はニカッと笑った。
「なんでもいいよ」
「はいはい」
さっそく鍋に火をかけてから、てきぱきと冷蔵庫に買ってきたものをしまう母。離婚してからの母は明るい、と思う。
これまではどちらかといえばおとなしい性格だと思っていたが、ある日『離婚しようと思っているんだけど』と相談してきた母の顔は、まるで今日の天気のようにさっぱりとしていた。
母と父がどんな関係だったか。
今思い出しても、決して仲の悪い夫婦ではなかったと思う。ふたりは普通に会話をしていたし、休みには旅行に行ったりもした。
それが気づけば離婚が決まっていて、結局僕はその原因を聞くこともないまま、この町に引っ越してきた。
トールの部屋から聞こえるリズムに体を揺らせながら、食器棚から皿を出す母。レンジの終了音がやけに小さく響いた。
「せっかくだからお肉も焼いちゃおうか?」
「んー。いらない」
桜先輩にもらったマニュアルに目を落として答える僕に、
「ええー」
母は不満を口にした。
「せっかくお肉屋さんで買ってきたのに。今日はお肉の気分なのよね」
「自分が食べたいだけじゃん」
「あなた具合、悪いの?」
その声が重いトーンで耳に届き、顔をあげた。
が、鍋を開けた母の顔は湯気の向こうでニッと笑みを浮かべている。
「違うよ。園芸部が大変すぎて疲れてるだけ」
「ひとり部員、って言ってたものね」
「まあね。でも、今日はあんまりお腹が空いてないんだよね」
「ねぇ、一度ちゃんと診てもらったほうがよくない? お母さんより顔色悪いもの」
たしかに引っ越してきてからの体調はあまりよくない。いつも胸やけがしている気がしたし、食欲も落ちる一方。
「病院は行ったじゃん。検査はいつかやるから」
引っ越してきて早々、病院に無理やり連れていかれたが、検査に時間がかかると聞いて逃げ出したのだ。
「約束だからね」
「わかったよ」
「じゃあ今夜はやっぱりお肉も焼きましょう。お肉は元気の源だからね」
ひとりで納得したようにうなずいた母は、でっかいフライパンを手にしている。苦笑しながら、そっと右手をお腹に当てた。
言われて気づくレベルの気持ち悪さがほんのりと存在している。
先週病院に行ったときに出た診断名は『ストレス性の胃腸炎』だった。
もちろん、ちゃんとした検査をしていないから詳しくはわからないけれど。
「しょうがない。食べるよ」
パタンとマニュアルを閉じると、母はうれしそうに笑った。ストレスの原因はわかっている。
きっと離婚や引っ越しのことで心に負担がかかっているのだろう。
心配させたくなくてわざと大きなあくびをしてみせた。
ふわりと生まれる眠気の中、頭に風花の笑顔が浮かぶ。
彼女も今ごろは夕飯を食べているのだろうか?
そんなことを考えてしまう自分をどこかで恥じてしまう。出会ったばかりなのになんて単純なんだ、と自分を戒めるとソファから起きあがった。
風花とはこれからふたりきりの園芸部の部員としてやっていかなくちゃならない。余計な考えは捨てよ、と自分に言い聞かせた。
「そろそろできるから呼んできてくれる?」
母の声に、家を揺らすリズムが急に大きくなったように感じた。
リビングを出て狭い廊下を歩けば、さらに騒がしい音楽の洪水が襲ってくる。
ドンドンドン!
「トール、ご飯!」
ドアをノックしながら、また浮かびそうになる風花の顔を僕は消した。
こんな風邪のような症状、早く消えてしまえばいいのに。
◆◆◆
一組のクラスメイトの中に、ただひとり知っている生徒がいる。
名前は、田中友梨。
昔は『ゆりちん』と呼んでいたけれど、さすがにこの年になってそれはない。
小柄でぽっちゃりめだった友梨は、向かい側の家に住んでいる女子。幼いころは帰省のたびに山や川に、僕の弟も入れた三人で遊びにいった。
まさか同じ高校に進学しているとは思っていなかったし、最初は声をかけられても本人だとは思わなかった。
「スズッキイおはよ」
今朝も昔のあだ名で呼んでくる友梨に、
「ああ」
ぶっきらぼうに返事をした。
「なによ、愛想のないこと。ひょっとして低血圧だっけ?」
顔を覗きこんでくる友梨に体をのけぞりながら顔をしかめた。
「違う。昔のあだ名で呼ぶなよ」
「なんで?」
本当に不思議そうに訊ねる友梨に、グッと言葉に詰まってしまう。
数年ぶりに再会した友梨は、小柄なのはそのままにスリムになっていたからだ。
顔だって真っ黒に日焼けしていたのがウソみたいに白い。短かった髪も、肩まで伸びていて艶が朝日にキラキラ光っている。
昔はズボンしか穿かなかったのに毎日スカートで登校している友梨は、子どものころの面影なんて一ミリも残っていない。
なのに、無邪気さは昔のまま。
そんなの戸惑うに決まっている。
「なんで、って……そのあだ名、きらいなんだよ」
「あたしにとってスズッキイはスズッキイだもん」
「だから言うなって」
友梨との再会はみんなの知るところとなり、それ以来僕のあだ名は『スズッキイ』で定着しつつある。
「ひょっとしてさ」
そう口にした友梨が声のトーンを落とす。
「おじさんとおばさんの離婚のこと、みんなには内緒なの?」
「べつに内緒にしてるわけじゃないけど」
同じように小声になってしまう僕。
友梨はしばらくじっと僕の顔を見ていたが、
「そうだよね」
と、明るい口調に戻った。
「おじさん婿養子だったもんね。苗字が変わらなくてラッキーじゃん」
普通ならデリカシーのない言葉だとは思うが、昔から友梨はこういうところがあった。
弟が小学生のころハチに刺されて大泣きしているときも、『泣けるってことは元気ってことだよ』なんて、平気な顔で言っていたっけ。
「その話題はいいから」
切り上げ口調でプイと横を向く。
同じ年だというのに、子どものころから友梨は仕切り屋でどことなく上級生っぽかった。
なんでも命令してくるし、強引な理論で主張を曲げない。
同じ学校に入ったことで、これからもこの関係は続くのだろう。
「それより今度、新入生の発表会があるんだって。スズッキイも聴きにくること」
「発表会?」
よくわからない命令に眉をひそめる。
「てか、ゆりち……田中は何部なの?」
慌てて言い直す僕に友梨は悲鳴をあげた。
「苗字で呼ぶのはやめてよ。せめて呼び捨てにしてくれる?」
「わかったよ」
ぶすっと答える僕に、
「あたしの部活はねぇ……」
友梨はもったいぶるように体をくねらせた。
「吹奏楽部だよん。しかもサックス!」
「サックス? そんなの昔からやってたっけ?」
「やってないよ。これから覚えるの」
平気な顔をして答える友梨。がんばり屋さんなのは知っているので、きっと猛練習をするのだろうな。
突然うしろからポンと肩を叩かれて振り返ると、
「げ」
犬神がにやにやして立っていた。
「朝から楽しそうだな」
「楽しくないし」
ムッとした表情をあえて隠さずに言う。
「照れんなよ」
横にある机の上に腰かけた犬神は、春だというのに額に汗を浮かべている。
今日も陸上部の朝練に参加してきたらしい。
友梨はもうほかの女子と昨日のテレビの話をしてはしゃいでいるのでほっとした。
偶然とはいえ、犬神に話題を断ち切ってもらった気分。
そんな感謝の気持ちまで断ち切るように、
「そういえば、園芸部に新しい部員が入ったらしいじゃん」
なんて言うから、ギョッとしてしまう。
「な……」
慌てて右を見れば、口角をあげた犬神がいたずらっぽい目をしている。
「部員に五組の奴がいてさ、さっき聞いたとこ。よかったよな、ひとりっきりの部活動にならなくて」
「その話題はいいよ」
こういうとき、『うるせー』とか『黙ってろよ』と言える関係ならいいのに。
入学したばかりだし、残念ながらまだそこまでの関係ではない。
「なんでよ。おれ、喜んでいるんだぜ? なんなら、もっと部員が集まるようにみんなに声をかけてやりたいくらい」
「お前絶対、楽しんでるだろ?」
「心外だな。こう見えても、スズッキイとはこれから仲良くやっていきたいと思ってるのにさ」
どこまで本気かわからないセリフを吐いてくる。
「でも、なんで園芸部?」
と、犬神は若干声を落として訊ねてきた。風花に話した内容を犬神に言うつもりはなかった。
ふいに風花の笑顔が脳裏によぎった。
彼女がアネモネを眺めているやさしい横顔。穏やかな春の日に、本当にうれしそうに笑っていたっけ……。
すぐに映像を頭から追い払う。
「べつに意味はないよ」
「昔からそういうのに興味があったとか?」
女装じゃあるまいし。
質問をやめない犬神にわざとため息をついてみせた。
「なんだよ、怒るなよ」
「怒ってないって」
少し困った顔になる犬神に笑ってみせた。
ああ、また思い浮かぶ風花の横顔。彼女は風の中でやさしく微笑んでいた。
「それより新入部員はどんな子? 五組の奴によると、『結構かわいい』ってことだけど」
いやなタイミングで聞いてくる犬神。こういう話は苦手だ。
「まだよく話をしてないからわからない」
「照れんなよ」
これが犬神の口癖らしい。
口をへの字に結ぶ僕に、犬神はなぜか軽くうなずいた。
「スズッキイはイケメンだけど、女性に慣れてなさそうだからなぁ」
「うるせーよ」
思わず出てしまったツッコミに、犬神はブッと噴き出すと大声で笑った。
同じように笑いながら前を向く。
すっきりした気持ちの半面、モヤッとしたものがお腹に生まれている。
風花とはまだ数回しか会っていないけれど、あの日以来考えることは日に日に多くなっている。
こういうストレスが一番体に負担になってしまう。
離婚や引っ越しでのダメージを回復しなくては……。
背筋を伸ばし深呼吸をすれば、今日も始業のチャイムが鳴る。
目の前の用紙を奪うように手にした女子が、うれしそうに笑みを浮かべている。
ポニーテールのしっぽがしゅるんと揺れるのを、ボールペンを手にしたままぼんやり見る僕。
ひらひらと揺れる用紙には、書いたばかりの僕の名前が記されていた。
高校の入学式のあと、広い構内を歩きまわってようやく見つけた『園芸部』の部室は、裏山近くにぽつんとあった。
木でできた小屋みたいな建物で、よく言えばログハウス調。悪く言うなら、老朽化している物置といったところ。
入り口の薄いドアの横に『園芸部』とプレートが出ていたおかげでわかったけれど、普通なら素通りしてしまうだろう。
部室の中は四人がけの小さな机とパイプ椅子があるだけで、あとは所狭しと土の入った袋や作業道具、エプロンやビニール手袋が置かれていた。
土のにおいが宙に漂っていて、窓からの日差しに白いほこりが舞っているのが見える。
「入部? お試し入部じゃないんですか?」
そう尋ねる僕に、目の前の女性は「ん?」と口角をあげてから、
「ま、いいじゃん。入部ってことで」
なんて肩をすくめた。
彼女はこの部に所属する先輩らしい。
部室のそばにある花壇にいた彼女に声をかけたところ、あれよあれよという間に案内され、数分後には『まずはお試し入部をしよう。うん、そうしよう』と半ば強引に書類にサインをさせられたのだ。
でもまあ、どのみち入部しようとしていたしいいか……。
ひとりで納得していると、女性は改めて用紙を眺めた。よく見ると、用紙の右上に小さく『入部届』と記されてある。
「鈴木くん、ね。よろしく。私は部長の桜です」
「よろしくお願いします」
慣れないお辞儀をする。桜というのが苗字なのか名前なのかわからないけれど、部長だったんだ、と少し緊張。
「部長といっても、ほぼ引退しているけどね」
引退、の言葉が引っかかるが、
「よろしくお願いします」
ともう一度頭を下げる。同時に椅子がギイと甲高い悲鳴をあげた。
挨拶もそこそこに部室に通されてからまだ十分も経っていない。
ほかの部員はまだ顔を見せていない。入学式の今日は部活動自体がないのかも。
それにしても、普通は入部する前にいろんな説明をしてくれるものだと思っていたけれど、今のところその気配はない。
言いようのない不安が首をもたげてくる。
「鈴木くんも、明日からは動きやすい恰好にするといいよ」
この高校は制服がないことで有名だけれど、さすがに今日は入学式。
慣れないスーツ姿を見おろすと、七五三のようで恥ずかしい。
「今日は入学式だったので――」
「だよね。それより引継ぎを済ませるね」
言いわけを遮るように桜先輩はことを進めてくる。
引継ぎ?
一瞬ハテナマークが頭に浮かんだが反射的にうなずいてしまった。
うしろにある棚から緑色のファイルを取り出す桜先輩のポニーテールがまた揺れる。
差し出されたファイルは薄い紙製。何年も使っているようで、端っこに折り目が色濃く残り、土の汚れなのか黒ずんでいる。
開くと、手書きの文字がびっしり並んでいた。
「この高校って緑が多いでしょう? それを部員と、下瓦さんていう用務員さんだけで世話するから大変なの。あとは経費管理とかもあるしね。大事なところは、このマニュアルに付箋を貼っておいたから読んでね」
ファイルを見ると、たしかにいくつかの紙片が見える。
「え……どういう……?」
「すぐに慣れるから大丈夫。ちなみに顧問の先生はいないから、実質下瓦さんが担っているの。それから苗をいつも買っているのは――」
「ちょっと待ってください!」
いつもの声量の倍くらいの声を出すと、ようやく桜先輩は言葉を止めてくれた。
きょとんとしている桜先輩におそるおそる口を開く。
「情報量が多くて……。すみません、徐々に覚えていってもいいですか?」
てっきり返事はYESだと思っていた。
が、桜先輩は首とポニーテールをキッパリと横に振った。
「それは無理なの」
「無理?」
「明日からは鈴木くんだけが頼りなんだから、がんばって覚えましょう」
「え?」
想像もしていない展開に唖然とする僕に、桜先輩はなぜかにっこり笑った。
「それにしてもこんなイケメンが園芸部に入部してくれるなんて、うれしいけどなんだか申し訳ないなあ。鈴木くんて俳優のあの人に似てるよね。ほら、日曜日の夜のドラマの主役で――」
うれしそうに話しつづける桜先輩の声がふっと遠ざかっていく感覚。
それは、いやな予感がむくむくと成長しているから。青空に黒い雲が音もなく広がっていく感じ。
「質問……なのですけれど」
「うん。なんでも聞いてね」
首をかしげる桜先輩に、すうと息を吸いこむ。
「ほかの部員のかたはどこにいるのですか?」
「みんな引退しちゃったの。下級生たちがいた時期もあったんだけど、下瓦さんが怖いとか言って、やめちゃった」
いたずらっぽい顔をしてくるけれど、ちっとも笑えないし。
「つまり、部員は……」
恐ろしくて最後まで言えない僕に、桜先輩はにっこりと笑みを作った。
「誰もいないよ、でも大丈夫。園芸部はたとえ部員がひとりでも継続してもらえるから。環境美化は学校にとっても必要だから特別待遇なんだって。よかったね」
ちっともよくない。
特別感を出してくる桜先輩に違和感しか生まれないし。
そんな僕に気づかないのか、桜先輩は居住まいを正すと真っ直ぐに僕を見た。
「ということで、今日からきみがこの園芸部の部長になるの。がんばってね」
「部長? ちょっと待ってください。……桜先輩もいてくれるんですよね?」
「ごめんね。私も『退部届』は提出済みなの。いわばボランティアってとこ。なんたって受験生だからね。部員はたったひとり。鈴木くんだけだよ。ようこそ、園芸部へ」
ああ、僕はとんでもない部に入ってしまったのかもしれない。
ショックのあまり呆然とする僕に、パチパチパチと桜先輩の拍手の音だけがむなしく響いていた。
あれよあれよという間に、桜先輩に用務員室に連れていかれた。
園芸部をみてくれている下瓦さんに紹介してくれるそうだ。
用務員室は部室よりも立派な建物で、下瓦さんと思われる男性は、そばにあるチューリップが咲き誇る花壇を手入れしていた。
灰色のつなぎ姿の下瓦さんは想像よりも若く、五十代半ばという印象。
がっしりとした体型で、春だというのに日焼けした顔をしている。
帽子をかぶっていてその下にある顔はいかつく、気難しそうに口をへの字に固く結んでいる。
「鈴木です。よろしくお願いいたします」
これまでの人生で最大級のお辞儀をして挨拶をするが、下瓦さんはこちらの顔を見ることもなく、
「余計なことはするな。素人がやるとすぐにだめになるからな」
と言うと、自分の作業に戻ってしまう。
それが彼の発した唯一の言葉だった。
◆◆◆
「また寝てんの?」
机でぐったりとしている僕に、犬神の声が降ってきた。
「寝てない。ただ疲れてるだけ」
のそっと顔を起こすと眩しい太陽の光に目がやられそう。
空いている前の席にどすんと座った犬神が「ふーん」と腕を組んだ。
犬神はこのクラスでできた最初の友だちだ。はじめて会ったときから冗談ばっかり言っている印象で、僕よりも身長が高い。
それでもサラサラの茶髪にあっさりとした顔、言いたいことを言うくせに時折見せる人懐っこい笑みで女子からは人気らしい。
「てか、昼休みも部活なんて入学早々大変だな」
同情を顔に浮かべる犬神に、僕は大きく首を縦に振った。
「大変どころじゃないよ。下瓦さんに気に入られようとがんばってるけど、肥料や土の運搬やら雑草抜き、水やりに手入れ。やることだらけで追いつかないんだよ」
『余計なことはするな』と言われたから、てっきり見習い気分でいいのかと思ったのが間違いだった。最近は毎日筋肉痛で体中が悲鳴をあげている。
「この学校、たしかに植物だらけだもんな」
犬神がやった視線の先には、校門に沿って置かれているプランターが見える。
何十というプランターには、ポピーが群れをなして甘いピンク色の花を咲かせている。
これも、下瓦さんが丁寧に手入れしているからこそ。熱心に作業している姿を、ここからよく見ていたから。
少しでも役に立ちたいけれど、必死で走り回ることしかできないのがじれったくもあり、つらくもあるこのごろだ。
ため息をつく僕に、なぜか犬神は顔を近づけてきた。
「鈴木のこと、女子がウワサしてるの知ってる?」
「え? なんて?」
「土にまみれているのがかっこいい、だってさ」
「なにそれ。今はそれどころじゃないし」
宣誓通り、桜先輩はあのあと部室に現れることはなかったし、本当にひとりで部活をやっているのだから。
そんな僕に、犬神は人差し指を向ける。
「そういうとこずるいよなあ」
「なにがずるいんだよ」
ムッとしてつい言い返してしまった。
まだ知り合ってから日も浅いのに距離を詰めすぎたかも。気の弱い性格は昔から変わらない。
犬神は「ふっ」と鼻から息を吐くと、
「なんでもない。でも、楽しそうで羨ましい」
と、よくわからないことを言ってきた。
楽しい?
そんな感覚、まだ味わったことがない。
「なら犬神も園芸部に入ってよ」
「無理! おれは陸上部だけで精一杯。鈴木が陸上部も兼部するなら話は別だけどさ」
苦い顔をしたのだろう。犬神は「はは」と笑って自分の席に戻っていく。
ため息をつけば、チャイムの音が校舎に響いた。
授業が終われば部室に直行する。
向かう道すがら改めて見まわすと、桜やイチョウの木々がいくつもあり、途中途中にある花壇にはサクラソウやスズランが咲いている。
土のないところには植木鉢やプランターが置いてあり、まだ名前の知らない花が黄色や白色のつぼみを膨らませていた。
部室の裏には大きな花壇があり、脇にはこれでもかという数の植木鉢が並んでいる。ここは、準備室のようなもので、ぷっくり膨らんだつぼみのカーネーションやバラが待機している。
まだ太陽が輝く午後。
最近は春らしい陽気に花たちも喜んでいるように思える。
弱気なことを言いながらも、日に日に花たちに愛情を持つようになっているから、僕はきっと単純なのだろう。
部室でエプロンをつけて外に出ると、まだ青空が広がっている。
鍵を閉めてから、もう一度花壇へ向かう。
そこに意味はなかったと思う。
強いて言うならば、『アネモネの花が植えてある二十個近い数の鉢を、近いうちに校舎脇へ移動させなくてはならない』ことが頭にあった程度。
これは下瓦さんに言われたことではなく、桜先輩からもらったマニュアルに書いてあったこと。
本来なら先月やるべきだったそうだ。
アネモネは、春の花を代表する一種だ。
キンポウゲ科に属していて、赤や紫、ピンクと花色が豊富なのが特徴。花壇の隅の鉢で咲くよりも、早めに学生の目に触れさせてやりたい。
ふわりと風が頬を撫でて去っていった。
風の行方を見るように一度振り返ってから花壇に目を戻すと、ひとりの女子生徒が立っていることに気づいた。
脇の土道で、彼女はまるで時間が止まったように動かなかった。
手前には芽吹き出した苗が並んでいる。その向こうに、アネモネが春の色を誇示するように首を揺らしていた。
その横顔は、色とりどりに咲く花に魅了されているように見えた。
肩までの髪が風にやさしく膨らんで、戻って、また膨らんでいる。
――まるで、花と会話をしているみたい。
そう感じたのも無理はない。
ようやく動いた女子は、その場にしゃがむと目尻を下げて花に顔を近づけたのだ。
なんてうれしそうな笑顔だろう。
気がつくと、僕は吸い寄せられるように女子のほうへ歩き出していた。
女子は、笑顔を残したままこっちを見た。そうしてから、魅力に抗えないようにアネモネに視線を戻す。
ゆっくりとした動きに、柔らかく甘い空気が存在しているように感じた。
「アネモネの花言葉を知ってる?」
思わず訊ねてしまったあと、急にドキッと胸が鳴った。
ゆっくりと僕を見る女子生徒の瞳に吸い寄せられる気がしたんだ。
ドギマギする僕に、その女子は「アネモネ」と言葉にせずに口だけを動かした。
そうしてから、また花たちに目を落とす。
「そっか、きみたちはアネモネっていう名前なんだね」
花がそよそよと首を振らし、そう答えているように思えた。そうしてから、はっとした女子は、はじめて僕に気づいたように目を丸くした。
「ごめんなさい。わたし、勝手に花壇に入っちゃって」
慌てて立ちあがったそのうしろに青空が広がっている。
「全然……いいよ。誰でも入っていいみたいだし」
「ここって園芸部の敷地なんですか? 探検してたらすごくたくさんの色が見えて、思わず入ってしまいました」
恥ずかしそうに口にするきみの印象は、髪のきれいな人。
青空と同じ色のパーカーの下で揺れている、チェックのロングスカートにばかり目がいってしまう。
普通に話せない自分がもどかしくて、わざと肩をすくめてみせた。
「タメ語でいいよ。僕も入学したばっかだし」
そう言うと、彼女はほっとした表情になった。
「そうなんだ」
「僕の名前は、鈴木です」
ペコリと頭を下げる僕。まるでお見合いみたいじゃないか、と情けなくなる。
なんでこんなに緊張してしまうのだろう。
「笠森です。笠森風花です」
そう言った彼女から視線をそらしてしまう。それくらい胸の鼓動が高鳴っているのを感じていた。
「アネモネ、ってすごくきれいだね」
風花という名前の女子生徒は言う。
「あ、うん」
「とくにこの白い花びらがきれい。なんだかいつまでも眺めたくなる」
愛でるように見つめる先には、パールがかった八重咲きのアネモネがある。
一瞬迷ってから、
「違うんだ」
そう言葉にすると、風花は目線をそのままに瞬きをした。
「勘違いされることが多いんだけど、色がついている部分は花びらじゃない。ガクと呼ばれている部分で、真ん中の黒紫の部分が花なんだ」
そう言ってしまってから、すぐに後悔する。
なにを偉そうに語っているんだ、と自分にツッコミを入れてから、
「まあ……きれいならなんでもいいよね」
言いわけのように口にする。
このまま立ちさりたい感情と戦っていると、風花はゆっくりと僕に視線を合わせてきた。
その表情は驚いたように目を丸くしている。
「鈴木くんってすごく物知りなんだね。花が好きなの?」
「まあ、うん……」
「すごい。わたし、見るのは好きだけど、ちゃんと育てたことはないんだよね」
まだ冷たい風が僕たちのあいだを駆け抜けていく。スカートの揺れが風の流れを教えてくれる。
「アネモネには、『風』という意味もあるんだ。春一番が吹くころに満開になるから」
聞かれてもいないのに説明をすると、
「風」
風花は何度もうなずいてから少し瞳を大きくした。
「さっき、『花言葉』って言ったよね? わたし、そういうのひとつも知らないよ」
「花言葉っていうのは、解釈がいろいろあるんだよ。これが正解、というのもないし、花の色によっても違う花言葉が使われていたりもするんだ」
なぜだろう。
初対面の相手なのにするすると言葉が出てくる。
戸惑いながらも、肺にいっぱい新鮮な空気を取りこんでいるような気分になる。
「アネモネの花言葉ってどういうの?」
澄んだ瞳で訊ねる風花に、いくつもの色を湛えるアネモネを見た。
「『はかない恋』。少しさびしい花言葉だね」
「そう……」
つぶやくように言う風花の顔が少し曇ったように見えて心配になった。
が、次の瞬間、彼女は白い歯を見せて笑った。
「鈴木くんといると、花のことに詳しくなれそう」
「どうだろう」
謙遜でもなんでもなく、昔から花に興味があっただけのこと。教えるなんておこがましいし、花に詳しいことを自分から口外したこともない。
風花が「決めた」と言ったように聞こえた。
戸惑う僕に風花が一歩近づく。
「ね、わたしを入部させてくれる?」
あまりに楽しそうに言う風花に驚きを隠せない。
今、なんて言ったの?
頭に、ふたり一緒に花壇の手入れをしている映像が浮かぶ。風花と一緒に時間を過ごせたらきっと楽しいだろうな、と思ったのも事実。
でも、それを意識してかき消した。
「あのさ……。やめといたほうがいいよ」
僕の言葉に風花はきょとんと目を丸めた。
「……だめ?」
あまりに悲しげな顔になるから、
「ちが、違う!」
意図せず大きな声を出してしまった。
いったい今日はどうしたというのだろう。うまく感情のコントロールができない。
片手で口を塞ぐ僕に、風花は戸惑った顔のまま。
「だめってことじゃなくてさ……。ほら、重い物を運んだりするし、クタクタにもなるし、顔も服もすごく汚れるし……」
ああ、だめだ。やっぱりうまく言葉が出てこない。
「それに、風花さんにはきれいな花だけを見ててほしいから」
最悪……。
これじゃあ口説いているみたいにとられてしまう。
もう眉の辺りまで覆っている指の隙間から風花を見ると、
「ふふ」
なぜか彼女は笑っていた。
「……いや、そうじゃなくて」
モゴモゴと口ごもる僕に、風花は軽くうなずいた。
「やさしいんだね。でも、わたし、こう見えても力持ちだよ」
「そうは見えないけど」
素直すぎる言葉がぽろり。
気にした様子もなく風花は「んー」となにか考えている様子。
「園芸部に入った理由を聞いてもいい?」
「え、理由?」
「どうしてそんなに大変な園芸部に入ったのかな、って」
適当な理由を言って誤魔化せばいい。そう思ったのに、頭に過去の映像が映し出されていた。
「昔……花がたくさん咲いている庭があったんだ」
いったん言葉を区切る。
先を促すように口をきゅっと閉じる風花に、軽く息を吐いた。
「僕のおばあちゃんの家。いっつもいろんな花が咲いていてさ、たまに手伝ったりもした。愛情をかけるほどに鮮やかな色で咲くんだ、って教えてもらってさ。手入れは大変だけど、やっと咲いた花がきれいなら満たされる。そう思ったから」
祖母はいつも庭にいて、その向こうには季節によってたくさんの花がその色を主張していた。
春にはアネモネが、夏にはマリーゴールド、秋にはオンシジウムやケイトウ、冬のエピデンドラム。
華やかなだけでなく、ともすれば供花になりそうな地味な花まで祖母は大切に育てていた。
思い出の中の祖母は決まって腰を折って花の手入れをしている姿ばかり。
『マリーゴールドの花言葉は、「可憐な愛情」。ほかには「友情」ってのもあるよ』
『オンシジウムは花が踊っているみたいに見えるじゃろ? 「一緒に踊って」という花言葉がよく似合う』
愛おしそうにシワだらけの顔で花を見る祖母。すらすらと説明する四季の花の名前や花言葉は自然に頭に入っていた。
「男なのに園芸部っておかしいよね」
自嘲気味に笑えば、
「そんなことない」
風花は秒を待たずに言ったので驚く。
「園芸部だってどんな部だって、興味があることに男女の差はないもん。絶対におかしくなんかないからね」
あまりにもはっきりと言う風花に、
「あ、ありがとう」
うなずくとなんだか肩の力が抜けた気がするから不思議だ。
「でも、園芸部に入った理由にはなってないよね」
「なってると思うよ」
風花が言うとそんな気がするのはなぜだろう。
「人だけじゃなく、花にもやさしいんだね」
さらりと風花が言うから、僕の顔はきっと真っ赤になっている。
「ね、わたし決めた」
そう言った風花の顔は太陽みたいに輝いていた。
「決めた、って?」
「やっぱりわたし、園芸部に入部したい。ね、いいでしょう?」
断る理由なんて最初からなかったんだ。うなずく僕に、風花は今日一番の笑顔を見せてくれた。
家に着くころにはとっぷり日が暮れていた。
二階建ての決して広いとは言えない家は、昔は母親の両親、つまり僕の祖父母が住んでいた。
もうふたりともこの世からはいなくなったけれど、一ヶ月前、両親の離婚を機にこの町に引っ越しをしてきた。
幼いころ、長い休みのたびに遊びに来ていた祖父母の家。父親はこれまで住んでいた埼玉県のマンションにまだ住んでいる。
離婚してからの方が、父親と話す機会が増えたのは確実だ。
まぁ、電話での会話ばかりだけど。
母親はまだ仕事なのだろう。台所には年子の弟が食べ散らかしたと思われるカップラーメンと菓子の空袋が置かれていた。
弟であるトールの部屋からは重低音が古い家を揺らすように聞こえている。どうせまたお気に入りのバンドの曲をかけているのだろう。
ちなみに『トール』は弟のあだ名だ。兄である僕よりも昔から背が高いという理由で叔父がつけたあだ名が、いつの間にか本名のように浸透してしまっている。
「またトールの奴……」
ブツブツとつぶやきながら蛇口をひねり手を洗う。
まだ冷たい水に急いで両手をこすり合わせていると、また、さっきの出会いが頭をよぎる。
不思議な女子だった。
花を見ているときはどこかさびしげに思えたのに、『入部したい』と言ってからの風花は、まるで絶対にそれを譲らないような強い意思を持った目をしていた。
入部届を書いてもらうあいだも、風花は次々に話題を繰り出していた。
『この高校に入ったのは、自然が多い環境だったからなの』
『家からは遠いのが難点だけどね。鈴木くんはどこに住んでいるの?』
『わたしは一年五組。鈴木くんは何組なの?』
『バイトとかはしないの?』
枯れることなく質問は続き、まるでインタビューを受けている気分になった。
女子と話はするけれど、こんなに長時間ふたりきりでいるのははじめてのこと。なのに、それを楽しいと感じている自分がいた。
風花はころころとよく笑い、僕たちはたくさんの話をした。
「でもな……」
台所のテーブルにつくと、椅子の上で伸びをした。
次々に言葉を重ねた風花は、どこか沈黙を怖がっていたようにも感じた。あれこそが彼女の持つ本質だと思う自分がいるのを否定できない。
って、女子のことなんてまったく詳しくもないのに勝手に思いこんでいるなんて、今日の僕はどこかおかしい。
玄関の鍵が開く音が聞こえたので体を起こすと、すぐに母が顔を出した。
「あら、帰ってたの。おかえりなさい」
「ただいま」
あべこべの挨拶をした母は、「もう」と台所の散乱状態を見て不満の声を出した。
「成長期ってすごい食欲ね。でもトールも片付けくらいしてくれたらいいのに」
「だね」
「すぐにご飯作るから。って言っても、スーパーのお惣菜がメインだけどね」
スーパーの袋を見せると、母はニカッと笑った。
「なんでもいいよ」
「はいはい」
さっそく鍋に火をかけてから、てきぱきと冷蔵庫に買ってきたものをしまう母。離婚してからの母は明るい、と思う。
これまではどちらかといえばおとなしい性格だと思っていたが、ある日『離婚しようと思っているんだけど』と相談してきた母の顔は、まるで今日の天気のようにさっぱりとしていた。
母と父がどんな関係だったか。
今思い出しても、決して仲の悪い夫婦ではなかったと思う。ふたりは普通に会話をしていたし、休みには旅行に行ったりもした。
それが気づけば離婚が決まっていて、結局僕はその原因を聞くこともないまま、この町に引っ越してきた。
トールの部屋から聞こえるリズムに体を揺らせながら、食器棚から皿を出す母。レンジの終了音がやけに小さく響いた。
「せっかくだからお肉も焼いちゃおうか?」
「んー。いらない」
桜先輩にもらったマニュアルに目を落として答える僕に、
「ええー」
母は不満を口にした。
「せっかくお肉屋さんで買ってきたのに。今日はお肉の気分なのよね」
「自分が食べたいだけじゃん」
「あなた具合、悪いの?」
その声が重いトーンで耳に届き、顔をあげた。
が、鍋を開けた母の顔は湯気の向こうでニッと笑みを浮かべている。
「違うよ。園芸部が大変すぎて疲れてるだけ」
「ひとり部員、って言ってたものね」
「まあね。でも、今日はあんまりお腹が空いてないんだよね」
「ねぇ、一度ちゃんと診てもらったほうがよくない? お母さんより顔色悪いもの」
たしかに引っ越してきてからの体調はあまりよくない。いつも胸やけがしている気がしたし、食欲も落ちる一方。
「病院は行ったじゃん。検査はいつかやるから」
引っ越してきて早々、病院に無理やり連れていかれたが、検査に時間がかかると聞いて逃げ出したのだ。
「約束だからね」
「わかったよ」
「じゃあ今夜はやっぱりお肉も焼きましょう。お肉は元気の源だからね」
ひとりで納得したようにうなずいた母は、でっかいフライパンを手にしている。苦笑しながら、そっと右手をお腹に当てた。
言われて気づくレベルの気持ち悪さがほんのりと存在している。
先週病院に行ったときに出た診断名は『ストレス性の胃腸炎』だった。
もちろん、ちゃんとした検査をしていないから詳しくはわからないけれど。
「しょうがない。食べるよ」
パタンとマニュアルを閉じると、母はうれしそうに笑った。ストレスの原因はわかっている。
きっと離婚や引っ越しのことで心に負担がかかっているのだろう。
心配させたくなくてわざと大きなあくびをしてみせた。
ふわりと生まれる眠気の中、頭に風花の笑顔が浮かぶ。
彼女も今ごろは夕飯を食べているのだろうか?
そんなことを考えてしまう自分をどこかで恥じてしまう。出会ったばかりなのになんて単純なんだ、と自分を戒めるとソファから起きあがった。
風花とはこれからふたりきりの園芸部の部員としてやっていかなくちゃならない。余計な考えは捨てよ、と自分に言い聞かせた。
「そろそろできるから呼んできてくれる?」
母の声に、家を揺らすリズムが急に大きくなったように感じた。
リビングを出て狭い廊下を歩けば、さらに騒がしい音楽の洪水が襲ってくる。
ドンドンドン!
「トール、ご飯!」
ドアをノックしながら、また浮かびそうになる風花の顔を僕は消した。
こんな風邪のような症状、早く消えてしまえばいいのに。
◆◆◆
一組のクラスメイトの中に、ただひとり知っている生徒がいる。
名前は、田中友梨。
昔は『ゆりちん』と呼んでいたけれど、さすがにこの年になってそれはない。
小柄でぽっちゃりめだった友梨は、向かい側の家に住んでいる女子。幼いころは帰省のたびに山や川に、僕の弟も入れた三人で遊びにいった。
まさか同じ高校に進学しているとは思っていなかったし、最初は声をかけられても本人だとは思わなかった。
「スズッキイおはよ」
今朝も昔のあだ名で呼んでくる友梨に、
「ああ」
ぶっきらぼうに返事をした。
「なによ、愛想のないこと。ひょっとして低血圧だっけ?」
顔を覗きこんでくる友梨に体をのけぞりながら顔をしかめた。
「違う。昔のあだ名で呼ぶなよ」
「なんで?」
本当に不思議そうに訊ねる友梨に、グッと言葉に詰まってしまう。
数年ぶりに再会した友梨は、小柄なのはそのままにスリムになっていたからだ。
顔だって真っ黒に日焼けしていたのがウソみたいに白い。短かった髪も、肩まで伸びていて艶が朝日にキラキラ光っている。
昔はズボンしか穿かなかったのに毎日スカートで登校している友梨は、子どものころの面影なんて一ミリも残っていない。
なのに、無邪気さは昔のまま。
そんなの戸惑うに決まっている。
「なんで、って……そのあだ名、きらいなんだよ」
「あたしにとってスズッキイはスズッキイだもん」
「だから言うなって」
友梨との再会はみんなの知るところとなり、それ以来僕のあだ名は『スズッキイ』で定着しつつある。
「ひょっとしてさ」
そう口にした友梨が声のトーンを落とす。
「おじさんとおばさんの離婚のこと、みんなには内緒なの?」
「べつに内緒にしてるわけじゃないけど」
同じように小声になってしまう僕。
友梨はしばらくじっと僕の顔を見ていたが、
「そうだよね」
と、明るい口調に戻った。
「おじさん婿養子だったもんね。苗字が変わらなくてラッキーじゃん」
普通ならデリカシーのない言葉だとは思うが、昔から友梨はこういうところがあった。
弟が小学生のころハチに刺されて大泣きしているときも、『泣けるってことは元気ってことだよ』なんて、平気な顔で言っていたっけ。
「その話題はいいから」
切り上げ口調でプイと横を向く。
同じ年だというのに、子どものころから友梨は仕切り屋でどことなく上級生っぽかった。
なんでも命令してくるし、強引な理論で主張を曲げない。
同じ学校に入ったことで、これからもこの関係は続くのだろう。
「それより今度、新入生の発表会があるんだって。スズッキイも聴きにくること」
「発表会?」
よくわからない命令に眉をひそめる。
「てか、ゆりち……田中は何部なの?」
慌てて言い直す僕に友梨は悲鳴をあげた。
「苗字で呼ぶのはやめてよ。せめて呼び捨てにしてくれる?」
「わかったよ」
ぶすっと答える僕に、
「あたしの部活はねぇ……」
友梨はもったいぶるように体をくねらせた。
「吹奏楽部だよん。しかもサックス!」
「サックス? そんなの昔からやってたっけ?」
「やってないよ。これから覚えるの」
平気な顔をして答える友梨。がんばり屋さんなのは知っているので、きっと猛練習をするのだろうな。
突然うしろからポンと肩を叩かれて振り返ると、
「げ」
犬神がにやにやして立っていた。
「朝から楽しそうだな」
「楽しくないし」
ムッとした表情をあえて隠さずに言う。
「照れんなよ」
横にある机の上に腰かけた犬神は、春だというのに額に汗を浮かべている。
今日も陸上部の朝練に参加してきたらしい。
友梨はもうほかの女子と昨日のテレビの話をしてはしゃいでいるのでほっとした。
偶然とはいえ、犬神に話題を断ち切ってもらった気分。
そんな感謝の気持ちまで断ち切るように、
「そういえば、園芸部に新しい部員が入ったらしいじゃん」
なんて言うから、ギョッとしてしまう。
「な……」
慌てて右を見れば、口角をあげた犬神がいたずらっぽい目をしている。
「部員に五組の奴がいてさ、さっき聞いたとこ。よかったよな、ひとりっきりの部活動にならなくて」
「その話題はいいよ」
こういうとき、『うるせー』とか『黙ってろよ』と言える関係ならいいのに。
入学したばかりだし、残念ながらまだそこまでの関係ではない。
「なんでよ。おれ、喜んでいるんだぜ? なんなら、もっと部員が集まるようにみんなに声をかけてやりたいくらい」
「お前絶対、楽しんでるだろ?」
「心外だな。こう見えても、スズッキイとはこれから仲良くやっていきたいと思ってるのにさ」
どこまで本気かわからないセリフを吐いてくる。
「でも、なんで園芸部?」
と、犬神は若干声を落として訊ねてきた。風花に話した内容を犬神に言うつもりはなかった。
ふいに風花の笑顔が脳裏によぎった。
彼女がアネモネを眺めているやさしい横顔。穏やかな春の日に、本当にうれしそうに笑っていたっけ……。
すぐに映像を頭から追い払う。
「べつに意味はないよ」
「昔からそういうのに興味があったとか?」
女装じゃあるまいし。
質問をやめない犬神にわざとため息をついてみせた。
「なんだよ、怒るなよ」
「怒ってないって」
少し困った顔になる犬神に笑ってみせた。
ああ、また思い浮かぶ風花の横顔。彼女は風の中でやさしく微笑んでいた。
「それより新入部員はどんな子? 五組の奴によると、『結構かわいい』ってことだけど」
いやなタイミングで聞いてくる犬神。こういう話は苦手だ。
「まだよく話をしてないからわからない」
「照れんなよ」
これが犬神の口癖らしい。
口をへの字に結ぶ僕に、犬神はなぜか軽くうなずいた。
「スズッキイはイケメンだけど、女性に慣れてなさそうだからなぁ」
「うるせーよ」
思わず出てしまったツッコミに、犬神はブッと噴き出すと大声で笑った。
同じように笑いながら前を向く。
すっきりした気持ちの半面、モヤッとしたものがお腹に生まれている。
風花とはまだ数回しか会っていないけれど、あの日以来考えることは日に日に多くなっている。
こういうストレスが一番体に負担になってしまう。
離婚や引っ越しでのダメージを回復しなくては……。
背筋を伸ばし深呼吸をすれば、今日も始業のチャイムが鳴る。