まさかまた、この家を訪れる日が来るとは思わなかった。

 趣のある一軒家を目の前にして、手が震える。今までと今の感情が(たか)ぶって心臓がありえないくらい伸縮している。体中から鼓動の音が響いてくる。

 鼻からたっぷりと空気を吸いこみ、ふうっと細く息を吐きだしてから、生唾(なまつば)を呑みこんでインターフォンを鳴らした。
 この家のインターフォンがカメラ付きでなくてよかった。でなければ、わたしがこの家に来たと知られて、文哉くんは絶対に顔を出してくれなかっただろう。

 玄関に向かってくる足音とわたしの心拍音が重なる。

「はい」

 ガチャリとドアが開いて、中にいる文哉くんの顔が驚愕(きょうがく)で固まった。

「……なん、で」

 門を開けて、敷地内に足を踏みいれる。ドアに近づいて文哉くんの正面に立った。

「鈴木くんに、手を合わせてもいい?」

 文哉くんはきゅっと唇を固く閉じ、なにも言わずわたしを家の中に招きいれてくれた。地面に向けられた目元はひどく弱々しい。

 奥の和室のすみにある小さな仏壇(ぶつだん)には、高校一年のときに初めてつき合った、優しくて大好きな、そして膵臓がんで亡くなった鈴木――鈴木和真(かずま)くんの笑顔が飾られている。

 ここに座るのは、二度目だ。

 前に来たのは、鈴木くんの最期の日だった。

 本当は何度か家で手を合わせたいと思ったけれど、迷惑になるかもしれないと思い一度も近づくことができなかった。

「……ここで会うのは、初めてだね」

 写真の中の鈴木くんに微笑み返してつぶやいた。

 あれから四年。月命日の週末は左右の水鉢に活けるために小さな花束をふたつ用意して、必ず彼のお墓参りをした。何度か鈴木くんのお母さんと顔を合わせたことがあり、そのたびに頭を下げられたのを覚えている。そんなことしなくていいのだと、幸せになってくれていいのだと、そう言われた。

 それがわたしのために言ってくれているのはわかっていたけれど、受けとめられなかった。一周忌(いっしゅうき)を過ぎたくらいからは一度も会っていないけれど、きっとわたしが来ているのを知っていていたはずだ。

 リン棒を手にして小さく一回、リンを鳴らす。そして両手を合わせて目をつむった。

 高校一年の春に彼に出会った。
 そして告白されてつき合った。

 毎日のように一緒に園芸部で水やりをし、花壇の植え替えをし、下瓦さんに怒られたりもした。優しくて、いつもわたしのことを考えてくれて、わたしはそんな鈴木くんのことが大好きで仕方なかった。

 好きだと何度口にしただろう。
 好きだと何度言ってもらっただろう。

 会えなくなるたびにさびしいと電話をしていた。メッセージも毎日何通も送った。鈴木くんは一度もわたしを邪険にせずに、それどころか気を遣って元気なフリをして、落ち込むわたしを慰め、励ましてくれた

 ――誰よりも、苦しかったのは鈴木くんだったのに。

 病気のことを最後までわたしに言わずに、気丈に振るまってくれた。わたしはそのことに、最期の日まで気づけなかった。

 どうして、なんで彼がこんなに早くに亡くならなければいけなかったのか、今でもわからない。みんなに優しく、みんなを大事にして、そして誰からも愛されるような人だったのに。

 ――『アネモネの花言葉を知ってる?』

 今でもアネモネを見るたびに、彼の声が風に乗って聞こえてくる。


 ――『無理して笑わなくてもいいと思うよ』
 ――『風花が本当の笑顔になれる日にそばにいたい』
 ――『君のことが好きなんだ』
 ――『会いたかった』
 ――『風花、僕と別れてほしいんだ』


 忘れるはずがない。

 できもしないことに、ありもしない未来に、わたしはなにを恐れていたのだろう。彼がわたしのそばにいてくれたあの一年間があったから、今のわたしはここにいるのに。

 こんなにも、胸が苦しくなって、涙が止まらなくなるのに。

 深呼吸をしてから瞼を持ちあげて、もう一度写真の中の鈴木くんと目を合わせた。彼の笑顔はいつだってわたしを見守ってくれているみたいに感じる。

 くるりと振り返り、背後にいる文哉くんと向きあった。彼は気まずそうに目を伏せて「リビングは、こっち」と立ち上がる。

 母親は仕事に出かけているらしく、帰ってくるのは夕方とのことだった。大学が休みに入っているので曜日感覚がなかったけれど、今日はたしかに平日だ。お姉ちゃんも大学四年でなんとか非常勤講師ではあるけれど就職先が決まってからずっと家にいる。

「突然ごめんね」

 キッチンでお茶を用意してくれている文哉くんに謝ると、彼は「いや」と首を振った。そして、トレイにお茶とお菓子を乗せてソファの前のローテーブルに並べる。

「俺のほうが、ごめん」

 テーブルを見つめながらか細い声で謝る文哉くんは、小さな子どものようだった。

 鈴木くんに弟がいることは聞いたことがあった。両親の離婚でこの家に引っ越してきてから、学校をサボりがちになってしまった、ひとつ年下の弟のこと。

 それが、文哉くんだった。

「まさか、鈴木くんの弟だったなんて、気づかなかった」
「……似てないってよく言われてたから」
「パッと見は似てないけど、似てるところも多かったよ」

 はじめのうちは、だからこそ彼に惹かれたのも正直な気持ちだ。もちろん、つき合っていく中でそれだけではない文哉くんを見つけて、もっと好きになった。

 でも、思い返せばおかしな部分は多かった。それに気づかなかったのは、これ以上好きにならないようにと思っていたからなのだろう。

 鈴木なんてよくある名字では、彼の弟だとすぐにわかることは難しい。今までだってふたりの鈴木くん、もしくは鈴木さんと出会っている。

 鈴木くんの最期の日にも弟がいたような気はするし、お通夜やお葬式で会ったはずなのにまったく記憶にないのは、あの頃のわたしは周りを見る余裕がなかったからだろう。

「……いろいろ偶然が重なった、のかな」

 大学内で一度でも友梨や犬神くんと文哉くんを合わせていたら、すぐにふたりは気づいたはずだ。

「大変だったんだよ。マンションにもいないし、電話も通じないし」
「冬休みと春休みだし、帰ってきてるだけだよ。スマホは……なくした」
「……てっきり友だちからわたしのこと訊いて隠れてたと思ったけど」

 その返事はなかったのでおそらく図星だったのだろう。

「誰も家を教えてくれないし……それで、なんとかならないかと友梨と犬神くんに連絡して、やっと鈴木くんの弟だってわかったんだから」

 でも。

「わざと、だったんだよね」

 友梨と一緒にいるときに声をかけてこないようにしていたはずだ。家も、鈴木くんという家族を亡くしたことも、両親が離婚したことも、文哉くんはなにも言ってくれなかった。
 鈴木くんに繋がりそうなことは、決して口にしなかった。

 文哉くんの顔を見るのが怖くて、目の前にあるお茶から立ち上る湯気を見つめる。ゆらゆらと揺れて、消えていく。

 信じていたものが、消えてなくなる。
 文哉くんはそんな存在だったのだろうか。そうあろうとしたのだろうか。

「なんのために、わたしに声をかけたの」

 文哉くんはわたしを知っていたはずだ。知らなかったはずがない。
 鈴木くんの彼女だったのを知っていて、わたしに話しかけてきた。

「……騙してたの? 好きだって、言ってくれたのも、全部」

 文哉くんと過ごした時間を思いだせば、そんなことはありえないと思う。けれど、いやな考えが拭えない。

「――違う!」

 涙をこぼしそうになって手の甲で拭うと、文哉くんははっきりと否定をしてくれた。おそるおそる視線を向けると、彼は今にも泣きそうな表情で、歯を食いしばっている。

「……ちが、う。違うけど、違うわけでも、ない」

 意味がわからない。

「教えてほしい、全部」

 すんと洟をすすってもう一度涙を拭った。話を聞くために、話す文哉くんをちゃんと見るために、涙でぼやけた視界のままでは、だめだと思った。

「あの日、最期の日、兄貴に風花を頼まれた。見守っていてほしいって。傷つきやすいから、きっと悲しむから、笑っていてほしいからって」

 だからといって、すぐにそんなことをする気にはなれなかったらしい。わたしと文哉くんはほとんど面識がなかった。見ず知らずの兄の彼女よりも、自分の家族のほうが大事に決まっている。兄がいなくなり、ふたりきりになってしまったことで、まずは自分が母親を安心させられるようにしなければと思ったようだ。

 学校に通い、それまで苦手だった人つき合いも兄を見習って相手のことを考えて振るまうようになったと文哉くんは言った。

「ぶっきらぼうな、一方的な言い方でよくもめてたんだなって、そのときにやっとわかったよ。兄貴はすげえなあって改めて思ったくらいだ」

 そんな日々を過ごしていくなかで、わたしのこともほとんど忘れていたと言った。鈴木くんの最後の言葉も。完全に記憶から抜け落ちていたわけではないので、ふと思いだすこともあったけれど、接点のないわたしをわざわざ探してまで会おうとは思わなかったらしい。

 けれど、わたしたちは同じ大学を選んでいた。偶然にも。

「本当に、たまたまだったんだ。アネモネを見てる風花を見かけて、無意識に声をかけてた。そのあとで兄貴のセリフを思いだしたくらい、偶然だった。兄貴が、忘れてたんだろって言ってるような気がした」

 あんなこと誰にも言ったことないのに、と文哉くんは少し恥ずかしそうにする。

「花の知識も、兄貴がいなくなってからなんとなく得ただけだ。兄貴のように庭の手入れをしたり、部屋にあった本を読んでいただけなんだけど。俺が花を大事にすると母さんも喜んでくれたし」

 ――『花には人を元気にさせる力がある』

 鈴木くんが言っていたから、きっと文哉くんも興味を持ったのだろう。

「本当は、なにもしないほうがいいんじゃないかとも思った。ずっと兄貴のことを想っているのはわかっていたけど、でも、笑っていたし。もういいかって思うこともあった」

 文哉くんの言うように、あの頃のわたしは鈴木くんだけを想っていた。それでいいんだと思っていた。

「でも、ときどき、無理してるように見えたんだ。無理して、兄貴を想いつづけているんじゃないかって。それで、兄貴に頼まれたしなって思って」

 話しはじめた文哉くんの頬に、涙が伝う。

 線を引くように落ちていくそれを見ていると、胸が苦しくて喉が締めつけられる。

「ただ、風花を兄貴のかわりに見守ろう、くらいの気持ちだった。好きになるはずじゃなかった。ましてや告白なんてするつもりはなかった。なのに、気がついたら口にしてたんだ」

 言った瞬間、彼が自分でも驚いたような顔をしていたのを思いだした。
 わたしも好きだ、と叫んだときも。

 あの頃、彼がどれだけ悩んでいたか、自分のことで手一杯だったわたしには気づけなかった。それでも、抱きしめてくれた大きな手を、わたしは覚えている。包みこんでもらえたときの、安心感も。 

「これは風花のこれからが、兄貴の望んだような未来になるためにしているだけだって何度も言いきかせてた。なのに……」

 毎日花壇を見て話をした。
 学校の帰りに手をつないで帰ったり、休日に待ち合わせをして出かけたり。

「最低な自分が嫌で、でも、やっぱり風花のことが好きだった。風花が俺を好きでいてくれるのも、めちゃくちゃうれしかった。笑っている風花を見て、兄貴はこんなふうに笑顔でいてほしかったはずだって。これこそが兄貴が望んだことなんじゃないかって都合のいいことを考えた」

 わたしの観たい映画につき合ってくれたり。
 わたしの行きたい場所をリサーチしてくれたり。
 メッセージや電話も文哉くんはやさしかった。

「毎日、変わるんだ。昨日はこれでいいと思ったのに、次の日になると、やっぱりでもこれじゃだめだって思うんだ」

 ときどき見せる翳りのある笑みも、わたしのためだった。
 わたしと、鈴木くんのためだった。

「兄貴に頼まれたのに。風花が俺を見てるのがうれしいのに。風花が兄貴を忘れていくかもしれないと思うと、すごく、苦しかった。やっぱり俺は兄貴を裏切っているんだって……」

 わたしがいろんな自分を演じていたように、文哉くんも演じていたのだろう。
 お姉ちゃんがいつもどおりにしていても、そうじゃなかったように。
 鈴木くんが大丈夫だと言いながら病気と戦っていたように。

 きっと倫子と友梨も、いろんな自分を持っていたのだ。笑顔の裏にいろんな気持ちが込められていたんだ。

「だから、別れようって。クリスマスを過ごしたら別れようって。最期になるから、その日のためにめちゃくちゃがんばろうってバイトして――……」

 会えなくなる時間の理由に、涙を流しながら笑ってしまった。

 自分のバカさ加減に呆れてしまう。あのとき、すぐに文哉くんに聞けばよかったのに。なにをしているのか、どうしているのか、踏みこむのが怖くて避けていたせいで、彼を苦しめた。

 わたしはずっと、彼に無理をさせていたんだ。

 こんなふうに想ってくれている人が、あの日、あんなにも素敵なクリスマスを過ごさせてくれた文哉くんが、最後の言葉をどんな気持ちで口にしたのか。想像するだけで時間を巻きもどしたくなる。

 言わせたのはわたしだ。
 自分は受け身のまま、文哉くんにすべてを任せて甘えていた。

「ごめん、ごめんね」

 せめて、あの瞬間に彼の気持ちに寄りそっていれば、こんなに長い間ひとりきりにさせてしまうことはなかったのに。わたしを救いだしてくれた文哉くんに、手を差しのべることができたかもしれないのに。

 文哉くんも、わたしと同じようにずっと鈴木くんへの想いと変化に、戸惑い悩んでいた。その気持ちを、わたしたちは一緒に語り合えたはずなのに。

 しばらくふたりもと無言で涙を流していた。

 差しだされたお茶もすっかり冷え切ってしまった頃、文哉くんがゆっくりと立ちあがり、わたしに手のひらを向ける。おずおずとその手に自分の手を重ねて立ちあがる。

「兄貴の部屋、見る?」

 文哉くんはわたしの返事がわかっていたのか、そのまま階段に向かって歩いていく。ギシギシと不穏な音を立てて床がきしむ。

 鈴木くんの部屋は二階の一番奥で、一番日当たりがいいらしい。春を感じさせるような光が部屋の中に注がれていた。

 窓際には、こげ茶色の鉢がひとつ。

 わたしが鈴木くんのために植えたアネモネの鉢だ。四年の前のものなのに、鉢にはきれいなアネモネが咲いていた。白と、赤と、紫。

「なんで?」
「……はじめは母さんがやってたんだけど、途中から俺が毎年植えて、育てた」

 この部屋にはアネモネが似合うから、と言葉をつけ足して中に入っていく。わたしも引きよせられるように足を踏みいれて、彼の寝ていたベッドを見おろした。


 最後に見た鈴木くんは、わたしの知っている鈴木くんとは別人かと思うほど変わっていた。体は細くなっていたし、顔色も悪く目もうつろだった。それでもわたしの名前を呼んでくれた。

 ――『風花』
 ――『風花、ごめんね』

 わたしが謝らなくちゃいけなかった。

 気づけなくてごめん。ウソをつかせてしまってごめん。わたしだけが傷ついたみたいに悲しんでいたことが恥ずかしくて申しわけなくて仕方がなかった。なのに、鈴木くんは笑ってくれた。

 多分、すでに意識は朦朧(もうろう)としていただろう。

 何度も好きだと言ってくれた。クリスマスに別れを告げられたけれど、わたしたちの最後は、ちゃんと恋人同士だった。

 やせ細った彼の手は、あたたかかった。力は弱かったけれど、しっかりとわたしの手を包んでくれた。


「ずっと、鈴木くんを好きなままだと思ってた」

 もういないことはわかっていたし、それで周りを心配させることもわかっていたけれど、好きだったのだから仕方ない。好きじゃなくなるなんて考えたこともなかった。

「誰も好きになれないだろうって。でも、文哉くんを好きになって、そうするとこれでいいのかって怖くなって、踏み込めなかった」

 そんなわたしの中途半端さが、彼を苦しめていた。わたしが思っていた以上に、文哉くんはたくさんのものを背負っていた。

「わたし、今も鈴木くんが好きだよ」

 前は毎日思いだして、苦しかった。それが鈴木くんを好きな証しだと思っていた。でも文哉くんと一緒に過ごしているうちに、薄れていった。それがいやだった。

 忘れてしまうんじゃないかと。
 好きだった気持ちも消えてなくなるのかもしれない。

 あんなに好きで、あんなに悲しくて、泣き過ごした夜が偽物になってしまうんじゃないかと思うと、わたしのことを大事にしてくれた鈴木くんを裏切るみたいに思えた。

 そんなわたしを責めたのは、わたしだけだった。

 お姉ちゃんも友梨も倫子も、誰も間違っているとは言わなかった。だって、そんなの不可能なんだもの。

「忘れるなんてできるわけないよ。わたしも、文哉くんも」

 忘れたくないし、多分忘れようと思っても忘れられない。

「たしかに、あのときとまったく同じような胸の痛みは、なくなってきたかもしれない。でも、それって、忘れたんじゃなくてただ、生きてるからなのかなって」

 お姉ちゃんが言っていた。『悔しかったな、て思いだすと同時に、頑張ってよかったな、て思う』と。

「ここにあるのが、昔の思いだけじゃなくて、今の気持ちが重なっているからなんじゃないかな」

 自分の胸に手を当てる。

 あのまま文哉くんと出会わなくても、きっとわたしは遅かれ早かれ、同じ悩みに直面していただろう。ずっと同じでい続けるのは、生きている限り難しいから。あのとき出会った文哉くんに惹かれたのも、そういう時期だったのかもしれない。

 そう思うと、今まで悩んでいたことを否定でも肯定でもなく、受けいれることができて、それは胸にすとんと落ちてきた。

「鈴木くんのことは、これからも好きだし、これからも、毎日好きになると思う」

 もういないから。
 思い出の中の彼はいつだって優しくてあたたかくて、わたしと文哉くんをずっと見守っていてくれる。実感するたびに想いは積みかさなっていく。
 でも。

「そんなふうに、過ごせばいいんじゃないかって今は思う。過去と同じだけ、今を大事にしたいと思う。過去と今を比べることなく」

 つながったままの文哉くんの手を、しっかりと握りしめる。

「わたしは、文哉くんと、これからをそんなふうに過ごしたい」

 言葉にすると、また涙が溢れてしまった。
 鈴木くんがそばにいたら、風花は本当に泣き虫だね、って眉を下げて微笑んでいるだろう。

 文哉くんは空いているほうの手で顔を覆いながら、わたしの手を握り返してくれる。強く、優しく。もう解けることがないくらいにしっかりと。

 ここに鈴木くんがいたら、文哉くんのことをなんて言うだろう。仕方のない弟だろうと、苦笑してから「よろしく」と言いそうな気がした。

 これは勝手な妄想で、わたしに都合がよすぎるかもしれない。

 でも、鈴木くんを知っている人ならみんな、同意してくれるだろうと思った。


 ――『風花、アネモネ、ありがとう』

 家に駆けこんできたわたしを見て、文哉くんはふらふらと震えながらわたしの贈ったアネモネの咲く鉢植えを指差し、そして取ってほしそうな仕草をした。不思議に思いつつ立ちあがりそれを手にして彼の目の前に置く。

 ――『きれいだね』
 ――『やっぱり風花にはアネモネが似合うね』

 鈴木くんはもう一度『きれいだね』と言ってから一本のアネモネを取った。ぷちりとそれを、多分、あのときの鈴木くんの最後の力でちぎりとる。

 ――『これを、風花に』

 目の前にいるのがわたしだと、鈴木くんが認識しているのかわからなかった。

 ――『これを、あげる』
 ――『だから、笑っていて、ほしいんだ』
 ――『好きだよ』
 ――『だから、受け取ってほしいんだ』
 ――『風花に、渡して』

 彼の手の中の白いアネモネが、小刻みに震える手によってゆらゆらと揺れていた。それを受けとると、焦点の定まらなかった彼の瞳に光が宿る。

「わたしたちの恋は、本当にはかなかった。でも、幸せな恋だった。鈴木くんはわたしにとってそういう思い出にしてほしかったのかな……」

 そんなふうに考えて、だからこそ、忘れてやるものかと思ったのだけれど。

「違うよ、風花」
「え?」

 目頭を拭った文哉くんが、鼻声で言う。

「アネモネの花言葉は、違うんだ」
「……どういうこと? アネモネの花言葉は『はかない恋』でしょ」

 赤いアネモネにはたしか『あなたを愛する』みたいな意味はあったけれど、あの日渡されたものは白いアネモネだった。

 そういえば、最後の日も、鈴木くんが同じようなことを言っていたのを思いだす。あのときはそれどころじゃなかったから電話の続きを聞くことはできなかったけれど、なにか言いたいことがあったのだろうか。


「あの花の花言葉は――」


 文哉くんから受けとったものは、鈴木くんの最後の贈り物だった。

 窓の外では、多分風が吹いている。
 アネモネの風が。