クリスマスを、わたしはもう二度と好きになれないかもしれない。
お正月が明けて新しい年を迎えた。けれど、わたしの心は去年から変わらないままで、ずっと気分が重い。学校もそろそろ始まるんだな、と思うとずっと布団の中に籠もっていたくなる。
「風花ー、いつまでも寝正月してないで、たまにはでかけたらどうなの」
クリスマス明けからずっと家に閉じこもっているわたしに、お母さんがせわしなく部屋の中に入ってきて、カーテンをシャッと勢いよく開けてから布団を引っぱがした。太陽の光が眩しくて顔をしかめる。
「んー……」
自堕落な生活を送っている自覚はある。このままじゃだめだということも。けれど、少しのあいだくらい失恋に浸っていたっていいじゃない。
気のない返事をしながら寝返りをうち、枕元にあったスマホを一瞥した。
この数日、スマホは一日一回音がなればいいくらいだ。
倫子や友梨からの遊びの誘い、そしてDM。――彼からのメッセージも電話もない。それが一日、一日と重なっていくと、じわじわと、ああ、別れたんだなと実感が湧いてくる。
手を伸ばしても届かないそれを見ていると、目の奥がツンとしてきたので瞼を閉じた。涙のかわりに浮かぶのは、きらびやかなクリスマスの景色。
◇◇◇
結局、学校が始まるまでわたしは家からほとんど出ずに過ごした。
久々に外に出ると、空気がピンと張りつめているみたいに冷たい。吐きだす息は瞬時に白く染まり、それを見ると寒さが増す。体をぎゅっと縮こませて小股で歩いた。
数日なにもしていなかっただけなのに、体力はぐっと落ちてしまったようだ。駅からバス停に向かっているだけで息が上がってくる。学校に着いた頃にはぐったりしていた。そして、食事も必要最低限しか口にしていなかったから、顔もやつれたらしい。
顔を合わせた倫子の第一声は、
「なんか不健康な顔してるけど」
だった。
「食っちゃ寝してたにしても、せめて太りなよ。なんでやせてんの」
「んー……まあ、いろいろと、あって」
一体なにしてたの、心配そうにする倫子に、力なく笑いながらあいまいな返事をする。けれど、倫子にはそれだけでいろいろ察しがついたらしい。きゅっと眉根を寄せる。
「あ、いや、たいしたことじゃないんだけどね」
瞬時に誤魔化すと、倫子は怪訝な顔をして「ふうん」と深く訊くのをやめてくれた。それに胸を撫でおろす。
「それより休み明けの授業ってやる気しなくないー? サボろ」
わたしの返事を待つことなく、倫子は食堂に向かって歩きはじめた。「出席日数大丈夫なの?」呼びかけると、「代返お願いしとけば大丈夫だって」とスマホを掲げる。
まあ、いいか。
どうせ授業に出ても耳には入ってこなさそうだ。
倫子の背中を追いかけながら、花壇の横を通りすぎる。寒空の下で咲く花々は、一年のうちで一番たくましい種類のように見える。
「で、なにがあったの」
まだお昼前だったけれど、学食はそこそこ人が集まっていたし、注文も可能だった。お腹は空いてないのでなにも買わずに席につく、と、倫子はぐいっと身を乗りだす。
誤魔化せたと思ったけれど、まったく出来ていなかったらしい。こんなふうに切りだされたら、素直に答えるしかない。
「なにがっていうか、まあ、別れたっていうか」
「文哉と?」
倫子が呼び捨てにするので、つい笑ってしまった。
ちなみに本人目の前にして、倫子は文哉くんを呼び捨てにしたことはない。ふたりは、学校で会えば挨拶をするだけで、一緒に遊んだり話をしたことはなかった。倫子の彼氏とわたしは一緒にお昼ご飯を食べたことが何度かあるのだけれど、文哉くんは『気を遣わせるから』と言って席を外し、倫子とふたりきりにさせてくれていた。人見知りなのかなと思っていたけれど……実際どうなんだろう。
「なんで? え? なんでなんで? 意味がわかんないんだけど!」
「んー……なんで、なんだろう」
倫子は心底理解できないと言いたげな、驚いた顔をしている。
「どっちから?」
やっぱりその質問をされるのか、と思いながら眉を下げて「あっち」と短く答えた。
倫子が驚いた以上に、あの日、文哉くんに別れを告げられた瞬間、わたしは驚いた。晴天の霹靂だった。
それは、クリスマスイブのデートのことだ。
待ち合わせをして、カフェでランチを食べた。カップル限定の割引に、文哉くんは「ラッキー」と白い歯を見せたのを覚えている。それから一時間ほど電車に揺られて、小さな遊園地と草花が有名なテーマパークに向かった。
この時期になるとイルミネーションが有名な場所だ。長い光のトンネルをくぐったり、まるで光の草原のような場所を歩いたり。真冬なのに桜のようにデザインされた場所もあった。
途中でそのなかだけで食べられるデザートを食べた。
日が沈むとイルミネーションを上から眺めることのできる乗り物に乗り、最後は文哉くんが予約してくれたというレストランでディナーを楽しんだ。薄暗い、けれどムードの漂うおしゃれな店で、ふかふかのソファ。しかも料理はクリスマス限定のフルコース。
そこで渡された文哉くんからのプレゼントは、来年の手帳と有名なブランドのボールペンだった。わたしから文哉くんへのプレゼントは、シックで大人っぽい財布。
お互いに目の前で開けて、お礼を言い合った。
その日のデートは、すべて、文哉くんが計画してくれた。今日をとびきりの一日にしようと、そう言ってずっとわたしの手を引いてくれた。記念日でもわたしの誕生日でもないのに、彼はすべての支払をしてくれた。何気なく「これかわいい」「これいいね」と口にすれば、すぐにレジに持っていってプレゼントまでしてくれるものだから、途中から気をつけたくらいだ。
お金のことを訊くのは躊躇ったのだけれど、わたしの表情から気持ちを察した文哉くんは「今日くらいは気にしないで」「今の俺はお金持ちだから」と冗談交じりに言って胸を叩いた。
文哉くんは、笑っていた。
多分、わたしも笑っていたはずだ。
だけど、文哉くんはわたしが笑うたびに、嬉しそうにしつつも、悲しそうに苦しそうに顔をゆがめていた。
でも、間違いなく幸せで、楽しい一日を過ごしていた。
そんなクリスマスデートが終わった後のことだ。
いつもはわたしの家の最寄り駅で別れるのに、その日は家の近くまで送ると言ってきかなかった。もう十一時を過ぎているので心配だから、俺のために送らせて、と言われたので、その気持ちに甘えて公園まで送ってもらった。
歩くたびに、公園に近づくたびに彼は無口になっていく。
「もう少し、話をしようか」
ベンチを指さしたときの文哉くんの顔が、今にも泣きだしそうに見えてわたしはうなずいた。断ったら彼を傷つけてしまうように思えたからだ。
隣に並んで座り、ふたりで白い息を吐きだす。
楽しかった? ありがとう。
よかった。楽しかったよ。
そんな会話を何度も繰り返す。けれど、彼が本当に言いたい言葉はそんなものではないことくらいすぐに気づいた。
「楽しかった?」
何度目かわからない問いにわたしも何度目かの「うん」と「ありがとう」を返す。
最初こそ笑顔だったものの、いつしかお互いの顔から笑みは消えていた。真剣な表情を向ける文哉くんを、わたしもじっと見つめ返す。わたしたちが話をやめると、一切の音がなくなった。
世界中にふたりきりみたいな、いつまでもこのままでいたいような、そんな空気がわたしたちの周りにはあった。
どのくらいそうしていたのかわからない。数分だったのかもしれないし、もしかしたら数秒だったのかもしれない。彼はゆっくりとわたしを引きよせて、両手でぎゅっと抱きしめてくれた。冷たい風にさらされていた彼の上着が、わたしの頬に触れる。
「嬉しいよ」
それはわたしのセリフだ。
「ほっとした」
そんなに今日のことを考えていてくれていたのだから、嬉しくないはずがない。
「だけど……手放しで喜べない」
意味がわからなくて抱きしめられたまま顔を上げると、それに気づいた文哉くんは、背中に回していた手を肩に移動させてわたしをゆっくりと引きはがす。
文哉くんの双眸は、きらきらと光が揺れていた。外灯が、小さなイルミネーションみたいに見える。けれど、それは、彼の瞳が潤んでいたからなのかもしれない。
「ごめん」
謝罪の意味がわからず、黙ったまま続きを待った。
「別れよう」
文哉くんの言葉は短かった。
なにが起こったのか、理解するのに時間がかかった。なにかを言われるのかもしれないと思っていたけれど、まさかこんなセリフだなんて想像もしていなかった。
けれど――。
「なにそれ! 信じられない! ひどすぎない?」
話を終えた途端、倫子は目を吊り上げて叫ぶ。学食の視線がわたしたちに集まった。倫子は辺りを見まわしてこほん、と咳払いをして「意味わからないんだけど」と今度は落ちつた口調で言った。
「……うん、でも、仕方ない、かなって」
「はあ? なにが?」
「うまく言えないけど……むしろよかったのかなって思うんだよね」
なんで笑ってんの? と倫子が眉根を寄せる。そして、机に肘を起き、頬杖をついてため息をつく。うーん、と唸っているのは、わたしになにかを言おうとして、言葉を選んでくれているからだ。
「まあ……さ、ふたりが決めたことなら私はなにも言えないけど、さ」
「心配かけてごめんね」
「私の心配なんてどうでもいいんだよ。でも、やっぱり、仲良かったのになあって思うと……なんか残念だよねえ」
ふと、ふたり同時に窓の外を見やる。
花壇は春に向けて少しずつきれいにしているからか、少しさびしげに見える。土が顕になっていて、これから大きくなっていくであろう緑がひょこんと顔を出している。
一体なんの花が咲くのだろう。
「多分、わたしが悪いんだと思う」
ぽつりと本音をこぼすと、倫子は「え?」と視線を顔をわたしに向ける。意味がわからないと言いたげに首をかしげて、もう一度「どういうこと?」と言う。
うまく説明できなくて肩をすくめるけれど、それでわかってもらえるはずがない。倫子はわたしの言葉を、なにも言わずに待ち続ける。問いつめられているような気がしてして、息苦しくなる。テーブルの上で自分の両手を絡ませる。そわそわと落ち着きがなく動く指先を見つめながら、自分でも筆(ひつ)舌(ぜつ)に尽くしがたいこの感情を紐解こうとするけれど、心のどこかがそれを拒む。
倫子はわたしがなにも言わないことにしびれを切らせて「ねえ」と呼びかける。
「好きじゃなかったの?」
好きだった。
「もう嫌いになったの?」
そんなわけがない。
「だったらなんで別れたの」
別れたかったわけじゃない。
ひとつ質問をされるたびに、胸がキリキリと痛む。増えれば増えるほど、悲鳴をあげる。なにも聞きたくなくて耳を閉じたくなる。
「風花」
「これでよかったの! だって怖かったんだもの!」
学食に今度はわたしの声が響く。自分の叫びにはっとして顔を上げると、倫子は神妙な顔つきでわたしを見つめていた。
「なにが、怖いの? なにも怖くないよ、人を好きになることは」
「……違う、そういうことじゃないの」
「違わないよ」
はっきりと否定される。そうじゃないんだと、どうやって説明すればいいだろうと唇に歯を立てて倫子の目を見る。と、ふと彼女の視線が友梨のものと被った。そんなこと、あるはずがないのに。だって、わたしは倫子に、なにも伝えていない。
「倫子は、なにも知らないから……」
口にしながら、もしかして、と思う。
「知ってる」
倫子は優しく、小さく首を振ってわたしの言葉を否定した。
なんで、いつから、どうして。
友梨が話したのだろうか。それとも別の誰かから? その可能性もないとは言い切れない。けれど、おそらく友梨だろう。どうして勝手に倫子に話したの。なんでそんなことしたの。
なにかを言いたいのに言葉にならない。目の前にいる倫子にすべてを知られていたのだと思うと、いたたまれない気持ちになり気がついたときには学食を飛びだしていた。
家に帰り、誰もいない防音室に足を踏み入れる。
部屋の中にはアップライトピアノが一台と、エレクトーンが一台あった。エレクトーンなんてなんで買ったのだろうと思っていたけれど、お姉ちゃんが先生になりたかったからなのか、といまさら納得する。
壁際の本棚にはたくさんの楽譜。そしてトロフィーも。
ぐるり、と部屋を一周してからピアノに触れる。鍵盤蓋に手を添えて、刺さったままになっている鍵を回して持ちあげた。
白と黒の鍵盤が並んでいて、右手で押すとぽんっと音が鳴る。
しばらくそこに佇んでいたけれど、椅子を引いて腰をおろした。鍵盤に両手を添えると、緊張が走る。
前に弾いたのは、お姉ちゃんと。それもほんの少しだけだ。ひとりで一曲演奏したのは怪我をする前で止まっている。左手の中指はまだ少し曲がっているし、今もまだ、力がうまく入らない。一度拳を作り、開く。それを何度か繰り返してから息を吸いこんで鍵盤を思い切り叩いた。
何年も忘れていた感覚がわたしに襲いかかってくる。
もう忘れたと思っていた楽譜が脳裏に蘇り、指が自然に動く。けれど当然うまく弾けない。ところどころ詰まるし、指はまったくなめらかに動かない。強弱なんかあったものではなく、ただ、音を鳴らしているだけ。
それを昔は、許せなかった。受け入れられなかった。
ピアノが好きだった。わたしはうまいんだと、信じていた。それ以上に、ただただ、楽しかった。よく、決められた音符を無視して弾いて遊んでいた。自分でかってにリズムを作り、好きに歌いながら弾いたりもしていた。
それを失った。
お姉ちゃんのせいじゃない。
わたしも悪かった。それでも悲しかったし、あのときはお姉ちゃんのせいだと思って悔しかった。お姉ちゃんだけが褒められることに嫉妬した。お姉ちゃんだけは続けているのがずるいと思ったこともある。
責めたいわけじゃないのに、責めてしまいそうになる自分がいやで、まったく興味のなかった部活を始めたりもした。
いろんな感情がごちゃまぜになったあの苦しさを、忘れたわけじゃない。
――だけど、今のわたしにそれはもう、欠片も残っていない。
弾けば、思いだすと思ったのに、やっぱりなにも感じることができなかった。わたしは、本当にすべてを、忘れてしまった。悔しいとも、悲しいとも、自分の動かない手へのもどかしささえも抱けない。
今のわたしは、こんなにも簡単にピアノを弾くことができる。以前のわたしは、そんなふうに受け入れられるようになった自分にほっとした。彼の存在があって、変化に歩みだせた。
今も彼がいてくれたら、きっと今の自分を自慢に思っただろう。
でも、文哉くんの存在が、あの頃のわたしさえも変えてしまった。
アネモネを育てはじめたとき、わたしは思っていたほど悲壮感に襲われなかった。
クリスマスだって、イルミネーションを見てきれいだなと思った。
今までのわたしなら、避けていたことなのに。
知らず知らずのうちに笑っている自分。
彼のことを少しずつ思いださなくなる自分。
今、ピアノを過去のことだと思うように、あのときわたしを襲った感情のすべてが、いつの間にかやわらかな思い出に変わっている。
そんなの、認めたくない。許せない。いやだ。
あのままでよかったのに。幸せだったのに。
あのときの気持ちが風化して、そのままいつか、彼のことも忘れてしまうんじゃないか思うと、怖い。そんな薄情な自分にはなりたくなかった。だから、文哉くんと別れることになったのも、これでよかったんだのかもしれないと思えた。これで、わたしはこれからもあの日に留まっていられる。
だけどもう、思い出に浸り続けるには、手遅れだった。
悲しくて仕方がない。
もう文哉くんと一緒にいられないことを受けとめたくない。わたしが中途半端な気持ちで彼とつき合ったくせに。彼に対して、壁を作って接していたのはわたしなのに。
こんな最低なわたしは、振られて当然だ。
鍵盤に涙がぽたりと落ちて、手が滑った。耳障りな音を鳴らして、音楽が止まる。かわりに部屋の中にはわたしの嗚咽が響いた。
パチパチパチ、と拍手が聞こえて振り返ると、いつの間に部屋に入ってきたのか、お姉ちゃんがドアに背を預けて手を叩いていた。涙でぐちゃぐちゃのわたしの顔を見て「どうしたの」と肩をすくめて笑う。驚かないことにわたしが驚く。
「いつから、いたの?」
「……久々に風花のピアノ聴いたなあ」
わたしの質問の答えになっていない。けれど、おそらくずいぶん前からこの部屋にいたのだろう。
「弾いてなかったからね」
「怪我してても、続けていればよかったんだよ」
へ、と声にならない声を出す。びっくりして涙が止まってしまった。
「知らないと思ってたの? そんなに鈍くないよ私」
お姉ちゃんは呆れながら近づいてきて、わたしを少し押して同じ椅子に腰かけた。鍵盤を優しく叩いてぽろん、と音を出す。
「……そんな素振り、見せなかったから知らないと思ってた」
お姉ちゃんはずっとお姉ちゃんだった。
わたしに過剰に気を遣うこともなく、いつもどおりわたしに話しかけ、笑って喋っていた。わたし自身も、笑っていたから、そう振るまっていたから、てっきり気づいていないと思っていた。
でも、そういうお姉ちゃんでいてくれただけだったんだ。
「気づいてたけど、言わないから、知らないふりしてただけ」
「そう、だったんだ」
「いいんだよ、風花」
なにが、と答える前に、お姉ちゃんはなめらかに曲を弾きはじめる。ゆらゆらと体を揺らしながら、優しい音色を響かせる。
「私を責めてもいいし、ムカついてピアノを壊したっていい。私からピアノを奪ったってよかったんだよ」
「……そんなの、できるわけじゃない。お姉ちゃんだって怒るでしょ」
「そりゃ怒るよ。当たり前じゃん。だからこそ、べつに好きにすればよかったんだよ。誰かが怒るんだから。それをかわいそうだからって、なにしても許すような人はいないんだもの」
もちろん、犯罪とかはしないでよね、と言う。
わかってるよ、と肩をすくめると「だからね」と言葉を続けた。
「忘れちゃってもいいんだよ」
そんなこと、誰も言わなかった。
忘れないでと誰かに言われたことはない。忘れてもいいと言われたことはある。でも、故意にするのと無意識にするのとは大きな違いがある。
「安心して身を任せればいいんだよ」
なにに? 時間の流れに? 思うように好きなように振るまって、その結果どうなれば正解なのか。むしろ、意味がない未来しか思い描けない。だって、ピアノを壊せば、自分の手が以前のように動けるようになるわけではない。お姉ちゃんにとっての大事なピアノを壊してしまうだけのこと。
思うがままに行動するなんて無意味だ。
時間を巻きもどしたって過去は変わらない。ならば、それを受けいれるしかない。それを抱きしめて、宝物として大事に。
だから……。
「わたしは忘れたくない。忘れられない」
「今も、ピアノを弾きたい?」
言葉を絞りだすと、お姉ちゃんに訊かれた。それに対して反応ができなかったことを、お姉ちゃんは見逃さない。
「なんて、いじわるな質問だったね。でも、それでいいと思うよ」
そう言って、わたしの手を包み込む。
「ピアノのことを忘れても、私は怒らないよ」
「わか、ってる」
「それに、あの子のことも」
びくっと体を震わせて、首を垂れた。
今まで必死に演じていた自分が、剥がれ落ちる。涙が視界を滲ませる。喉の奥が、萎む。
「もしも風花が本当にひどいことをしたときは、誰かが怒って止めてくれるよ」
誰か、に対して目の前にいるお姉ちゃんと、そして倫子と友梨が浮かぶ。
「今自分の周りにいる人が、風花のこと責めると思う?」
好きな人ができたと報告したときの友梨を思いだす。電話越しだったけど、友梨は笑ってくれた。彼氏ができたと倫子に報告したときは、羨ましいと拗ねられた。彼氏の話をするときのふたりは、お姉ちゃんは、いつもうれしそうだった。
「忘れたら、怒られる? 誰も怒らないよ。風花以外は」
「でも、そんなの、悲しすぎる」
「風花が怒っているあいだは、周りが忘れてほしくても忘れないんだから、いいんじゃないの?」
そんなの屁理屈だ。自分がいやなのだから、しない。それだけのこと。
――なのに、安堵の涙がぼたぼたと瞳からこぼれおちる。卑怯なわたしを認めてくれる、もがくわたしを知っていてくれている、それに、ほっとする。
でも、それでも。
「わたしは、忘れたくない。すべてを、あのときの気持ちを」
そんな自分を、わたしが許せない。わたしが認めたくない。
「だったら最初から、彼氏とつき合わないでしょう。どっちもほしいだなんて、欲張りだなあ風花は」
そのとおりだと思った。
あれもほしいこれもほしいと、わたしは手を伸ばしてばかり。
会いたい、一緒にいたい、そばにいてほしい。そればかりだった過去の自分となにひとつ変わっていないのを思い知らされる。
だからこそ、今の苦しさの原因が、顕になる。
「いやだったのに、なのに」
本音を認めて口にしようとすると、視界が弾けて砕けた。
いいのかな。忘れるかもしれない未来を求めても、いいのだろうか。
ずっと覚えていたいのに、思いだす時間が減っていく自分が許せないのに、そう思いながらも、今、わたしは文哉くんがいない事実に対して悲しんでいる。
それでもいいのだろうか。
やっぱり、別れたくなかった。
だって――文哉くんが好きだから。
涙を流してうつむくわたしを慰めるように、お姉ちゃんが音を奏でる。
「私ね、風花が先生に褒められたとき、悔しくって、負けたくなくて、必死になってうまくなろうって思ったの」
そんなふうに思っていたなんて、想像もしたことがなかった。
「忘れるって、多分難しいよ。私は風花に傷を負わせたことを忘れる日は来ないし、あの日泣いていた風花も忘れない」
お姉ちゃんの手が、わたしの頬に移動してくる。子どもの頃のようにわたしの頬を撫でてくれる。昔はわたしが泣くとお姉ちゃんはいつもこうやってを慰めてくれた。あの日、怪我をしたときも。
「あの事故のあと、風花が私に『ピアノ弾かないの?』って訊いてきたときのことも、罪悪感を隠して弾きつづけた日々も」
「そんなの、忘れたっていいのに」
お姉ちゃんに言われて思いだした。お姉ちゃんはわたしがピアノをやめると言ってから、しばらく弾くことをしなかった。そして、わたしの指を見るたびに悲しそうな顔をするのがつらかったから、なんともないのだとウソをついて、わたしのことなんか気にしないでいいようにと言ったセリフだ。
でも、あのあとわたしは……部屋で閉じこもって泣いていた。
誰にもばれないように枕に顔を押しつけて泣いた。次の日、れた瞼の理由を必死に考えて、結局思いつかなくて出せなくて、お姉ちゃんと顔を合わす前に家を飛びだした。
今まで忘れていたけれど、でも、覚えている。
「忘れてても、思いだすんだよ。もうピアノなんかやめたいって思っても、蘇るの。そして、あの頃悔しかったな、とか苦しかったな、て思いだすと同時に、今の私ががんばってよかったな、て思うの」
だから。
「忘れちゃってもいいんだよ。忘れられないから」
うん。目を閉じてうなずく。
瞼の裏に見える笑顔と、やせ細った手で力強くわたしの手を握ってくれたやさしさを、忘れられるはずがない。そんな簡単に忘れられるはずないことくらい、わかっているのに。
そのくらい、文哉くんに惹かれる自分が怖かったんだ。
それがなくなったわけじゃない。
間違っているんじゃないかと考えてしまう。
それでも、譲れない〝今〟のわたしがここにいる。
「いいのかな」
ぽつんとつぶやくと、お姉ちゃんは「もし間違ってたら周りにいるみんなが、教えてくれるよ」と言ってくれた。我慢してブサイクな笑顔を見せられることより、そのほうがいい、と。
わたしはちゃんと自分ではない自分を演じられていると思っていた。けれど、そう思っていたのはわたしだけだったのかもしれない。ブサイクだったのか、と思うと少し笑ってしまった。
今まで自分が文哉くんにしたことを思い返せば、なんて中途半端だったのだろうと自己嫌悪で逃げ出したくなる。好きだったのに、その気持ちを認めたくなくて踏み入らないように壁を作って接していた。こうして自分の気持ちを認めて、彼が好きだと思えば思うほど、これまでの自分がどれほど勝手だったのかを思い知らされる。
それでも、ちゃんと話をしなければいけない。
文哉くんと向き合って、話をして、話を聞きたい。
聞けなかったことも聞きたい。
自己満足のためだけの行動なのかもしれないけれど、あのままなにもわからないまま終わりにできない。したくない。
◇◇◇
次の日、学校に着くとすぐに文哉くんがいるはずの校舎に向かった。そろそろ二時間目が終わる頃だ。お昼に会うときはいつもこのあたりで待ち合わせをしていたから、この廊下を通るはず。
緊張しながら待っていると、突然教室が騒がしくなりドアが開かれる。順番にいろんなひとが外に出てくるけれど文哉くんの姿は見つけられなかった。
欠席しているのかもしれない。
もし学校に来ていなかったら、どうすればいいのだろう。
スマホを取り出すものの、昨晩「もう一度、話がしたい」と送ったメッセージはいまだに既読にならないし、電話も通じなかった。多分……ブロックされている。じゃあ、どうすれば会うことができるのだろう。
――本当にわたしは、なにも知らないんだ。
つき合いが終わってしまえば、会うことすら難しい。そんな、薄っぺらい関係しか結べていなかった自分に後悔が襲う。だからって、なにもできないわけじゃない、なにかできることを探すしかない。
後ろ向きになりそうな思考を振りはらい、唇をかみしめて顔を上げる。と、見覚えのある男の子ふたりがちょうど教室から出てきたところだった。
「あの!」
近づいて呼びかけると、ふたりは振り返る。真面目そうな男の子と、スポーツマンらしくガタイのいい男の子。
「いつも文哉くんと、一緒にいる子だよね?」
「ああ、文哉の彼女さんだ」
「どーしたんすか」
ふたりはどうやらわたしと文哉くんが別れたことを知らないらしい。「あいつ休みっすよね」「まだ正月休みだと思ってんじゃねえの」「あいつやる気ねえからなあ」とケラケラと笑う。彼らの話す文哉くんは、わたしの知っている彼とは少し違っているように思えた。けれど、男友だちにだけに見せる一面があるのかもしれない。
「あの、文哉くんの、家知ってる? 教えてほしくて」
ふたりはきょとんとする。
つき合っていたのに知らないの? と思っているに違いない。けれど「まあ、一応」と答えてくれた。
「ひとり暮らしのマンションは知ってるけど、実家は知らないっすよ」
ひとり、暮らし?
そんなの、聞いたことがない。母親や兄弟の話は聞いていたから、てっきり実家暮らしだと思っていた。料理はできるのかと聞いたとき、それなりとしか答えなかった。デートのときも電車の方向と大体の時間しか教えてくれなかった。
いや、違う、わたしが訊かなかっただけだ。
わたしが気にしていなかったから、なにも疑問に思わなかっただけ。
「……じゃあ、え、とマンション教えてもらっても、いい?」
動揺を隠せないまま、とりあえず訊ねる。男の子たちは怪訝な顔をしつつも最寄り駅とそこからの道順を教えてくれた。地図アプリでそこを登録し、確認する。
「でも、多分いないと思う」
「あいつ、今実家に帰ってるよな?」
実家なんか、検討もつかない。地方から出てきているのであればそれこそお手上げだ。いや、なにか方法があるはず。多分。
「わたしも調べるので、あの、もしできたらでいいので……調べることができたらお願いしてもいいですか?」
「まあ、いいけど」
ふたりは誰か同じ学校出身のやつとかいたっけ? とか、教授なら知ってるんじゃねの、と話をしている。不思議そうではあるけれど、協力してくれるようでほっと胸を撫でおろす。
「よろしく、お願いします」
深々と頭を下げてから、ふたりと連絡先を交換した。
住所を聞いてからすぐに文哉くんがひとりで住んでいるというマンションを訪ねたけれど、チャイムからの返答はなかった。もしかしたら帰ってくるかもとしばらく待ち伏せもしたものの、空振りで、そんなことを数日繰り返していたらあっという間に後期のテスト期間に入ってしまった。
それでも、学校で彼を見かけることはなかった。
さすがにテストを欠席するとは思えないので、わたしを避けているのだろう。実家の情報をお願いした彼の友だちふたりからも、一切連絡をもらえなかった。倫子に相談すると、「口止めされたんじゃないか」と言われてしまい、結局なにもかもが振りだしに戻ったような状態だ。
彼に会えないまま、季節は冬から春に変わろうとしていた。
ベランダの鉢植えにはしっかりと茎が伸びはじめている。
相変わらずわたしには文哉くんを探しだすことが出来ないまま、ずるずると時間だけが過ぎていく。藁にもすがる思いで友梨や犬神くんにメッセージで事情を説明し、なにか知らないかと相談した。
すると、すぐに友梨からメッセージではなく電話で連絡が入った。
「風花が探してる彼氏って、同じ大学の一年で、鈴木文哉なの?」
友梨の口調は、まるで、彼を知っているように聞こえた。
「そう、だけど」
話したことがなかったかな。でも、倫子とは何度か顔を合わせたけれど、友梨とは会ったことがなかったかもしれない。名前も、彼氏、としか伝えていなかったかも。
わたしの返事に、友梨が冷静さを取り戻すかのようにゆっくりと息を吐き出したのがわかった。
「あたし、知ってるよ」