リビングのソファで寝転びながら、スマホの画面を眺める。

 一時間前の五時、文哉くんに【今家に帰ってきたよ】とメッセージを送った。けれど、まだ返事はない。というか、見てくれた痕跡(こんせき)すらもない。

「もう、風花。ソファでいつまでもゴロゴロしてないで」
「はあい」

 そう言いながらもソファに横になったまま。起き上がる様子のないわたしにお母さんが「もう」とため息をついたのがわかった。簡易防音室からは、お姉ちゃんの弾くバッハのゴルトベルク変奏曲が聞こえてくる。シンプルだけれど、その分かなりの技術力が求められるものだ。

 前よりも、うまくなっている気がする。
 心地よい音色に、瞼が重くなってくる――……。

「った!」

 ふっと意識が遠のきはじめた瞬間、ガツン、と鼻にスマホが落下してきた。骨に直撃して涙が浮かぶ。

「もー、やだ。お母さんー。ねえ、ここ(あざ)になってない?」
「知らないわよ、そんなところでぐうたらしているからでしょ!」

 起き上がってソファから顔を出しキッチンにいるお母さんに鼻を確認してもらうけれど、視線を向けてももらえなかった。冷たい。

 そのまま顔を出した状態で、晩ご飯の準備をしているお母さんに「今日のメニューなに?」と訊く。

「暇そうねえ、風花は。今日はビーフシチューよ」
「え、やったあ!」
「手伝ってくれたらお母さんはもっと喜ぶんだけどなあ」

 そう言われてはこれ以上ソファに居座るわけにもいかない。仕方ないなあ、とぼやきながら立ちあがりキッチンに向かった。なんの音沙汰(おとさた)のないスマホはもちろんポケットの中に忍ばせる。

 ……少し前まではスマホを家の中でも持ち歩くようなことはしなかったんだけどなあ。

 先月から文哉くんと顔を合わせる機会が格段に減った。今月はもっと少ない。それだけではなく、文哉くんからの返事に時間がかかるようになった。とくに今月に入ってから。

 といっても、無視されるようなことはない。必ずちゃんと返事をくれるし、その内容も冷たくはなく、むしろ毎回【返事が遅くなってごめん】と謝罪を入れてくれるくらいだ。

 多分、数時間返事がないことはおかしなことではない。倫子も彼氏がなかなか返事をしてくれない、何日間も音沙汰がない、と落ち込んでいたり怒っていたりすることもある。

 それに比べたら文哉くんはかなりマメなほうだ。

 長いあいだ短いメッセージのやり取りをするタイプではないので、一回の会話でせいぜい2ラリーくらいしか続かない。そのかわり返事は早く、文章も多めだった。

 なのに……最近どうしたのだろう。 これも、彼のついたウソに関係していることなのだろうか。 今までこんなふうに不安になることがなかったのに、一度胸の中に芽を出した思いはなかなか消えてなくならない。それどころか日に日に大きく育っていく。

「風花、プチトマト洗ってくれない?」
「あ、うん」

 お母さんに頼まれたことで我に返る。

 大丈夫。文哉くんは遅くなってもきっと連絡をくれる。それに明日の日曜日は久々にふたりで出かける予定だ。待ち合わせ時間とか場所を確認したかっただけだから、返事を急ぐ必要はない。

 気持ちを無理やり切り替えて、冷蔵庫からプチトマトを取り出した。
 しばらくするとお姉ちゃんの音楽が止まり、「いいにおいー」とリビングに顔を出した。

「あれ? 風花、いつ帰ってきてたの? 最近早いね」
「一時間半くらい前かな? お姉ちゃんずっと弾いてたもんね」

 またなにか課題でもあるのだろうか。でも、ずっと家で練習しているだけだ。本腰を入れなければいけないときはグランドピアノで弾くべきなのに、そんな様子はない。

 それに、最近は決まった曲ばかり弾くことがなくなったことに気づいた。
 新たにお母さんに頼まれたアク取りをしながら「今練習してるのはとくにないの?」と訊く。

「今は指が(なま)らないように毎日弾いてるだけ。最近は結構気が楽だよ。試験はあるけどね」
「そうなの? プロってもっと厳しい世界なのかと思ってた」

 中学でその夢は叶わないことがわかってから、できる限り音楽と距離をとって過ごしていたので現状がどういうものなのか、わたしにはよくわからない。

「え? プロにならないよあたし」
「え? なんで?」
「いや、プロじゃないっていうとおかしくなるけど、風花、私が海外とかコンサートとかで弾くような演者になると思ってない?」

 思っている。
 顔だけで返事をすると「無理に決まってるでしょ」と呆れられてしまった。

「だって、お姉ちゃんうまいじゃん。賞も取ってるし」
「やだもう、それは身内の贔屓目だよ。あたしの取った賞なんて、ピアノを長く続けていたらそこそこの人が持っているものよ。海外の大きなコンクールでもあるまいし」

 びっくりしてお母さんのほうを見るけれど、特別驚いた顔をしていなかった。ということは、お母さんはわたしと同じようには考えていなかったということだ。もっと前にお姉ちゃんから話を聞いていたのかもしれない。

 お姉ちゃんの言うプロってなんだろう。わたしのイメージでは大きなホールでコンサートをしたり、吹奏楽団のピアノを担当したりする人がプロなのだと思っていた。

 そして、お姉ちゃんにはその才能があるのだと思っていた。

 ――わたしと違って。

 わたしは、ぽかんと口を開けて、間抜けな顔をしていたのだろう。お姉ちゃんは「なにその顔」と苦笑した。

「だって」
「自分のピアノの腕がどの程度なのかはわかっちゃうんだよね。飛び抜けてうまかったら目指していたかもしれないけど、ビビるほどうまい同級生がいっぱいいるんだん。無理だよ。それに、もともと私は先生になりたかったから」

 お姉ちゃんの学校で開催される発表会に、わたしは一度も行ったことがない。なにかと理由をつけて断っていた。だから、お姉ちゃんの同級生たちの演奏を一度も耳にしたことがない。

 そっか。
 そうだったのか。
 わたしが嫉妬したお姉ちゃんは、わたしの小さな世界でだけの天才だったのか。

 胸の中に気づかないほど小さくなった、けれど決して消えることのなかった黒い(かたまり)が、溶けてなくなっていくのがわかった。

「先生って、ピアノの先生? それとも学校?」
「はじめは学校かな。ゆくゆくは個人でピアノ教室をやりたいなあと思ってる。今の先生、もうそろそろ引退を考えてるんだって。それを、引き継げたらいいなって」
「……そう、だったんだ。知らなかった」

 でも、お姉ちゃんがいろんな人にピアノを教えている姿は、とても似合うなと思った。だって、お姉ちゃんは本当にピアノが好きだから。

 わたしは、これほど好きでい続けることができただろうか。もし、左手の骨折がなかったら、同じように毎日ピアノに触れていたのだろうか。

 指に力が入らないというだけで辞めてしまったわたしが。
 あれから、弾きたいと思ったことすらもほどんどないわたしが。

「お姉ちゃんなら、いい先生になれるよ」

 そう口にすると、自然に顔には笑みが浮かんでいた。

「ありがと。なんかこういう話、風花とするの久々だね。私のこと、ピアノバカだなあって呆れられているのかと思ってた」
「すごいなって思ってるよ、ずっと」

 これは、本心だ。本当にお姉ちゃんのピアノへの愛情はすごい。

「ピアノのことばかりでから回ったり周りが見えないときがあるからさ……そういうときは、無理せず、遠慮せず、怒ってくれていいんだからね」

 思わず体が反応してしまいそうになり、慌てて「なにそれ」と大げさに笑ってみせた。お姉ちゃんにそんなふうに思われていたなんて、考えてみたこともなかった。

「そんなこと、ないよ」
「えー? ほんとにー? 上の空で聞いてたんじゃないのー?」

 否定したものの、お姉ちゃんはケラケラと笑ってわたしをからかう。

「風花は気を遣いすぎるからなあ」

 お姉ちゃんの言う通りだった。
 もしかすると、お姉ちゃんはずっと気づいていたのかもしれない。

 わたしはうまくやれていると思っていた。
 ピアノの話を避けるために園芸部に入り、遅くまで学校で過ごしていたのは間違いない。でも、無視をするようなことはなかったし、晩ご飯を一緒に食べているときに会話をすることも多かった。少しずつだけれど、ピアノを弾くお姉ちゃんに、昔抱いたような嫉妬を感じることも減った。

 そしてなにより、気を遣わせないように振るまっていたはず。

「風花は、いろいろあったからね。思うこともあるでしょ」

 いろいろ。お姉ちゃんのぬくもりを感じる声色が、胸に染みてくる。

 お姉ちゃんは、すべてお見通しだったのか。それでも、普段と同じように接してくれていただけだった。きっと、お母さんも。
 やだなあ、わたし、かっこ悪いなあ。
 でも、お母さんとお姉ちゃんのやさしさに、目頭が熱くなる。――と、

「わ!」
「なによ急に!」

 ポケットのスマホがブルブルブル、と震えだして、思わず大声をあげてしまった。それにお姉ちゃんもお母さんも目を丸くする。

「ごめん、電話。ちょっとお姉ちゃん、これよろしく。アク取り」
「えー、ちょっとお」

 アク取りならば怪我の心配はあまりないだろう。お姉ちゃんに無理やりお玉を押しつけてスマホを取り出しながらリビングを出た。秋が深まったからか、夜になると家の中でもひやりとする。

 スマホ画面を確認し、文哉くんの名前を見てほっと胸を撫でおろす。でも、いつもは電話の前にかならず、今電話大丈夫? というメッセージが届くのに。突然かけてきた理由はなんだろう。緊張しながら通話ボタンをタップする。

「も、もしもし」
「あ、風花? ごめんないきなり電話して」
「ううん、大丈夫だよ」

 電話の向こうにいる文哉くんは、「返事送れてなくてごめん」と謝る。なにしていたの、と訊きそうになって慌てて呑みこんだ。

 電話の内容は、近くで会えないか、ということだった。
 どこかに出かけていた帰りにわたしの家の近くまで来てくれるらしい。というか、すでに向かっていたらしい。

 晩ご飯の支度も始めていたけれど、家の近くならいいよとお母さんの許可が出た。お父さんが今日は出張で帰ってこない、というのもあるだろう。

 急いで身支度をして、家を飛び出し、家から最寄り駅に向かう途中にある公園で、文哉くんがやって来るのを待った。まだ昼間は暑く感じる日々もあるものの、日が沈むとさすがに寒い。薄手のジャケットを羽織ってくればよかった。ベンチに座りながらそっと腕をさする。

「もうすぐ、かな」

 ひとり暗闇に独り言を吐きだしながら振り返ると、すぐ後ろには、花壇があった。かなり広いけれど、花壇というよりも一段上にあるただの草むらみたいで、ほとんど手入れはされていない。土も色んな人が踏みあるいたのか、固くなっている。

 けれど、そこにはチラチラと小さな花が咲いていた。外灯だけでは白なのか黄色なのかがよくわからない。雑草だとは思うけれど、とてもかわいらしい。

 一体、なんという名前なのなのだろう。
 ……彼なら、教えてくれるだろうか。

「っ風花、ごめん」

 走ってきたのか、少し息を切らせていた文哉くんがやって来た。

 彼に会うのは、水曜日一緒に帰って以来だ。以前に比べたら少なくなったものの、そんなにあいだが空いているわけじゃない。なのに、すごく久々に会えたような気がする。

「走ってこなくてもよかったのに」

 肌寒いのにうっすらと汗が滲んでいて、そんなふうに会いに来てくれたことがうれしくなる。

「っていうか、風花、そんな格好で来たの? 寒かったんじゃない? 上着ないの?」
「油断しちゃった」

 薄着のわたしに比べると、文哉くんはちょっと着すぎじゃないの? ってくらい着込んでいる。薄手ではあるけれどマフラーもしているくらいだ。そして、それを解いてわたしの首に巻きつけた。

「首に風が入ってこないだけでもちょっとはマシになるかも」
「……ありがとう」
「上着もいる?」
「ふふ、わたしが着たら文哉くんが寒くなるじゃない。大丈夫だよ。それにそこまで寒くないよ」

 ジャケットを脱ごうとする文哉くんを止めて、くすくすと笑ってしまう。

「いや、今すごい暑いくらい」
「走ってたもんね」
「それもあるんだけど、母親が風邪引くからって押しつけてくるんだよ。ちょっと心配性っていうか、過保護気味でさ」

 いらないって言ってるのに、と文哉くんはブツブツと文句を言っていた。昼間は上着が邪魔で仕方がなかったらしい。

 ということは、昼間は出かけていたってことだ。
 ……どこに?

「風花は今日は、映画に行ったんだっけ?」
「あ、うん、おひとりさま映画鑑賞」

 本当は家にいようと思っていたのだけれど、お母さんにあれこれと用事を頼まれたり、あれをしろこれをしろと言われるので外に逃げだしただけだ。

「あとは帰ってから、お姉ちゃんのピアノを聴いてた。っていっても、防音室から漏れてくる音なんだけど」
「そっか」

 わたしの指の骨折の話を思いだしたのか、文哉くんは微笑する。

「さっきさ、お姉ちゃんの夢を聞いたの。お姉ちゃん、ピアノの先生になるんだって。わたしてっきりプロになるものだとばかり思っててびっくりしちゃった」
「そうなんだ」

 首に巻かれた文哉くんのマフラーをいじりながら「ずっと思いこんでただけだった」と言葉をつけ足す。

 怪我をするまで、わたしはピアノが好きだった。練習は苦手だったけれど、好きな曲を弾くのが大好きで、先生にも『風花ちゃんはうまい』と言われた。うまいんだと、自分で思っていた。

 でも、結局わたしはコンクールで弾くことができず、その日褒め称えられたのはお姉ちゃんだけだった。『うまい』ではなく『才能がある』と言われたお姉ちゃんが、羨ましかった。

 だから、ピアノをやめた。
 指に力が入らないわたしには、もう追いつくことができるはずがないから。

「たしかに、ピアノが好きだったけど、いつの間にか自然と、そんな気持ちはなくなっていたんだなって」

 いつからか、ただ、わたしは意地になっていただけだった。

「話を聞いてもらったりしてから、少しずつ気にしないようにはしてたし、そうなってたんだけど。なんか今日、いろいろ()に落ちたと言うか」

 平気なフリをする自分。ピアノが好きな自分。お姉ちゃんはすごいんだと思っていた自分。それらに、もしかしたらわたしはずっと、縛られていたのかもしれない。

 お姉ちゃんはピアノがうまい。
 それは間違いない。

 だけど、わたしはお姉ちゃんを高嶺(たかね)の存在だと思いこむことで、自分を慰めていた。かなわないのだと、言いわけをして逃げていた。そうじゃないとあのときあきらめた自分を認められないから。

「すっきりした。けど、ちょっとショックだったんだよね」
「なんで?」
「びっくりしたけど、嫉妬しなかった自分に」

 あのコンクールで抱いた気持ちは、微塵も残っていなかった。

 わたしの気持ちは、いつの間にか変わってしまっていた。あんなにも悔しくて苦しかったのに、今ではもう薄れて思い出せないくらいに。

「今までなにを気にしてたんだろーって。全部なくなってたんだなあって。これからどうしたらいいのかなあ」

 ふふ、と顔を上げてなんでもないことのように笑ってみせた。文哉くんはぴくりとも笑わず「そっか」とだけ返す。そして、わたしたちのあいだに静寂が降りてきた。

 正直言えば、ピアノに関しては今はもうなんのわだかまりもない。すっきりしたとも思っているから。

 だからこそ、恐怖を感じている。
 いつの間にか、でも、確実に時間は経ってしまう。それでも、過去は決してなくなりはしない。目をつむれば、思い出せるシーンがたくさんある。でも、その瞬間に抱いた感情は、いつしか過去になって、ただの〝苦痛〟だとか〝幸福〟だとかの言葉だけになってしまうような気がした。

 ――わたしは、それが怖い。

 いつか、すべてを忘れてしまうのだろうか。
 あのキラキラ輝いていた気持ちも、日々も、苦しさも、悲しさも。

 想像すると、体温が、ぐっと下がった気がした。

「なくなりは、しないよ」

 どのくらい時間が経ったのか、ぽつんと文哉くんがこぼした。

「なくなるはずがないよ。なくなった事実を受けとめたってだけなんじゃないかな。その変化に、戸惑ってるから、そんなふうに思うんじゃないかな」
「そう、かな? 気持ちとかも、なくならない?」
「多分ね。そう、信じてるし、信じたい」

 文哉くんにも、そういうものがあるのだろうか。首をかしげていると「今でも思いだすたびに後悔に押しつぶされそうなときがあるよ」と苦笑した。

 なにがあったの、と口にしようとしたわたしを遮るように「それにさ」と明るい顔でベンチから足を投げ出した。

「風花はそのあいだに、映画っていう趣味も見つけてるじゃん。羨ましい」
「文哉くんにもあるんじゃないの? 花とか。あ、音楽も好きだよね」
「まあ……きらいではないけど、どっちも好きな気持ちから始めたわけじゃないから」
「そんなこともあるんだ」

 よくわからないけれど、へえ、と声を漏らす。

 そのふたつが趣味ではないとするなら、たしかに、文哉くんの趣味は他に見当たらない。映画もわたしと一緒に観に行くだけだし、どちらかといえば、映画よりも海外ドラマのほうが詳しい気がする。話によく出てくるけれど、趣味なのかと言われるとどうなのだろう。好きだとか言っているのは聞いたことがない。

「じゃあ、文哉くんは、なにが好き?」
「なんだろ、まあ……うん、うーん」

 首をひねる文哉くんを見ながら、本当にわからないのか、わからないふりをしているのかは判断できなかった。

 つき合って四ヶ月とちょっと。
 わたしは、文哉くんのことをそれほど知らないんじゃないか。

 彼が好きな映画も、音楽も、わたしは知らない。一番好きな花も、聞いたことはない。運動はするのだろうか。今までどんな部活動をしていただろう。走るのは速いのか。スポーツはなにが好きか。
 いや、それよりも。

 わたしは文哉くんの友人関係ですらほとんど知らない。

 学校で顔を合わせるとき、そばに友だちらしき人がいるときもある。けれど、その人たちの名前をわたしは知らない。紹介してもらったこともない。文哉くんとの会話に友だちの名前が出てきたこともないような気がする。

 家族のことはたまに話してくれる。兄弟がいるということと、母親のこと。でも、でも、どのあたりに住んでいるのかも知らない。

 文哉くんのことでわたしが知っていることのほうが、少ないのではないだろうか。
 突然、わたしと文哉くんの関係があまりに(いびつ)に思えて、気持ち悪くなった。

 まだ知り合って四ヶ月だから、これが当たり前なのかもしれない。でも、本当にそれだけの理由だろうか。

「……寒い?」
「あ、ううん、大丈夫」

 心配そうに覗きこまれて、ふるふると首を振る。

「でも、文哉くんもゆっくりしたいんじゃない? わたしの家すぐそこだから寄っていく?」

 たった五分ほどだ。
 公園で過ごすよりもずっとくつろいで過ごせるのではないだろうか。

「いや、いいよ。はじめての訪問がこんな夜遅くなんて、なんか悪いし」
「あー……そうかな。でも気を遣うなら疲れるよね。っていうか、この公園がわたしの家から近いってよく知ってたね」

 場所を指定したのは文哉くんだった。多分なにかの会話で話をしたのだろう。きっと文哉くんはそれを覚えていてくれたのだ。むしろ、わたしも知らないと思っているだけで忘れているのかも。

「そういえば、今日はどうしたの?」

 突然ここまでやって来たのには、きっと理由があるはずだ。
 手先が冷たくなってきたのでこすり合わせながら隣を仰ぐと、文哉くんは「あー、うん」と言いにくそうに言葉を(にご)した。

「ごめん」
「……なにが?」

 話の前に謝られても、困る。
 むしろ、今からどんな嫌な話をされるのかと、不安でいっぱいになる。

 手をぎゅっと握りしめながら、いつものように笑っていなければと必死に言い聞かせて笑みを浮かべる。

「明日、用事ができたんだ」

 文哉くんは視線を地面に落として、ゆっくりと、いつもよりも低い声で言った。なにも言えずにじっと見つめていると、しばらくしてからおそるおそるといった様子で顔を上げわたしを見る。

 真剣な表情をしているのかと思ったら、まるで捨てられた子犬のような顔をしていたので、体から力が抜けてしまう。

「どうしても、ちょっと、無理で」
「そう、なんだ」
「ほんとごめん。今度絶対埋め合わせするから」

 目の前で手を合わせる文哉くんに、「絶対埋め合わせしてね」とわざとらしく頬を膨らませてから肩に頭をのせる。目の前にいる文哉くんの体温が、わたしを包み込んでくれるような気がする。けれど、文哉くんの手が、わたしの背中に回されることはなかった。あたたかいのに、さびしさで(こご)えそうになる。

「ごめん、本当に」

 謝ってくれる、けれど、その理由は教えてくれない。
 なにがあったのか、文哉くんは言わない。

「いいよ」

 学校で過ごす時間を除けば、ふたりで過ごす日は徐々に減っている。用事があるから、と言われたけれど、本当にそれだけなのだろうか。顔を合わせても、前に比べたら短い時間だけだ。

 避けられているのかもしれない。
 わたしと過ごす時間を減らそうとしているのかもしれない。

 なんで、どうして、と思うのに、強く思えば思うほど、わたしは口にできなくなる。なにも言いたくないと思ってしまう。

 文哉くんから体を離して、「次のデートは期待してる」とにやりと口の端を持ちあげる。決して、その〝次〟がいつなのかは聞かない。そして、文哉くんも「わかった」と言うだけで決めようとしなかった。

 もしかして、もうわたしのことを好きじゃないのかな。
 
 でも、
「そのマフラー、持ってて。風邪引いたら大変だろ」
 文哉くんは首元のマフラーをさっきよりも強くわたしに巻く。風の入る隙間なんかできないようにと、固く、しっかりとわたしの首を守ろうとしてくれる。

「返事、遅れるかもしれないけど、必ず返信するからいつでも連絡して」

 いつもごめん、と言いながらわたしの冷たくなった両手を包み込んでくれる。電話も出られないときもあるかもしれないけれど絶対かけ直すから、と言ってくれた。

「気にしないで、いつでも」

 わたしの気持ちを探るように、しっかりと目を合わしてくれる文哉くんからは、わたしへの気持ちをしっかりと感じることができる。

 大事に想ってくれているのはわかる。
 なのに。

「寒いのに呼びだしてほんと、ごめんな」
「謝るためにわざわざここまで来てくれたの?」

 それをメッセージや電話で済まさないところが、文哉くんらしいなと思う。

 だったら、なんでなにも言ってくれないの、という不満。
 どうして、会えないの、という不安。
 それでも、わたしのことを大切にしてくれるという、安心。

 三つの感情がわたしの胸の中でマーブル模様になるくらいに混じって、そして溶け合って、ひとつになる。

 近くを車がゆっくりと通りすぎていく。車のヘッドライトがわずかに公園に光を注がれて、文哉くんの顔を半分ほど照らした。
 少し、疲れたような目元をしている。寝不足なのか、以前のような隈もできている。

 けれど、瞳はとても力強い。彼の双眼(そうがん)には、わたしが映っている。
 以前は少し、子どもっぽい雰囲気があったのに、最近は覚悟を決めたような大人っぽい表情をすることが多くなった。

 視線に(とら)われて、胸がきゅっと締めつけられる。

「会いたかったから」

 明日も明日は会いたかったのに、と、彼は小さな声でつぶやいた。夜の、人気のない公園だからこそ聞こえるくらいの音量だ。さっきの車が今通っていたら、わたしはこのかわいい声を聞くことができなかっただろう。

 文哉くんは、わたしの左手の中指を撫でる。そこから、じわじわと彼のぬくもりが伝わってくる。

 普段よりも心拍数が早い。けれど、心地いい。
 この行為に、もう、魔法の力はないはずなのに。

「好きだよ、風花」
「――うん、わたしも」

 唇で()を描き、目を細める。
 対象的に、文哉くんの顔がぐにゃりと歪んだ。

「……風花、に」

 消え入りそうな声が、わたしの耳に届く。
 けれど、その続きを文哉くんが発することはなかった。
 かわりに、彼の手がわたしの頬に触れて、そして、ゆっくりと唇が重なった。まるで、自分の、わたしの、口を塞ぐみたいに。



 家に戻ると、ちょうどいいタイミングだったらしく、お姉ちゃんとお母さんが晩ご飯をテーブルに並べていたところだった。普段よりも遅い時間なのは、わたしを待っていてくれたからだろう。

「彼氏連れてきたらよかったのにー」

 ひとりきりのわたしを見て、お姉ちゃんが残念そうに言った。斉藤さんがよく一緒にご飯を食べるので、文哉くんもそうなるのだと思っていたらしい。お母さんもお姉ちゃんと同じように「えー」と肩を落とした。

「今度改めて来てくれるんじゃないかな。今日はもう夜だし帰ったよ」
「なーんだ。風花の彼氏が見れると思ったのになあ。風花のことちゃんとお願いしようと思ったんだけど」
「いいよそんなの、恥ずかしいじゃん」
「なんでよ。お願いもあるけど、お礼だってしたいじゃない」

 だって、ねえ、とお姉ちゃんはお母さんを一瞥する。目を合わせたふたりは苦笑するだけで続きを言わずに「まあ幸せそうでよかった」と話を変えた。

「……幸せ、か」

 わたしにとって、なにが一番の幸せなのか、自分でもわからないのに。
 そして、今までのわたしが不幸だったわけじゃないのに。

 むしろ、今のほうが苦しいくらいだ。

 ふっと、自嘲気味な笑みがこぼれてしまう。それを見ていたお姉ちゃんはさっきまでの明るい表情を途端に消した。

「なにかあったの?」
「あ、いや、なんでもないよ」

 デートドタキャンされたから、とウソでも本当でもないことを言って、テーブルの前に腰かけた。お姉ちゃんは「ドタキャンは許せん!」とわたし以上に怒っていて、彼を許したわたしに「甘やかしたらだめだよ!」と言った。



 三人でご飯を食べて、順番にお風呂に入った。リビングに顔を出して最後のお母さんにお風呂が空いたことを伝えてのろのろと自室に戻る。髪の毛を乾かさないといけないけれど、もう少ししてからにしようとベッドにどさりと倒れこんだ。

 スマホのアプリを起動して、ラジオを流す。無音の空間では余計なことばかり考えてしまいそうで、とにかくなんでもいいから耳にしたかった。ただ、今の季節をすっかり忘れていて、聴こえてきた曲につい舌打ちをしてしまう。

 来月はクリスマス。そのせいでリクエスト曲はそれっぽい曲が届くようになったらしい。軽やかなリズムと楽しげな声に、すぐにアプリを落とした。

 むくりと起きあがり、タオルを首にかけたまま部屋にある小さなベランダに出る。髪の毛が濡れているせいで寒さが増した。隅にあるこげ茶色の鉢は、まだ静かに眠っているらしく表面になんの変化もない。

 昼間はよく日の当たる場所。
 この冬を超えたらきっと、かわいい花を咲かせるはずだ。

 思った以上に冷静に、わたしはこの作業に向き合うことができた。それを、どう受けとめればいいのか悩ましい。そして、わたしはこれを、どうするつもりなのか。

「クリスマス、か」

 文哉くんとの別れ際、彼は『もうすぐクリスマスだな』と言った。そして、『二十四日は会おう』とも言ってくれた。なにをするつもりなのか、どこに行くつもりなのかはわからない。

 わたしは当日、どんな気持ちで過ごせばいいのだろう。
 楽しむのがいいのか。
 やっぱり悲しむほうがいいのか。

「怖いな」

 ぽつりと、鉢植えに落とす。

 クリスマスになると、花屋にはポインセチアが並びはじめる。シクラメンも咲きはじめる。赤色と緑が街に溢れて、楽しげな音楽がそこらじゅうから聴こえてくるに違いない。もしかすると、学校の花壇も、クリスマスっぽく彩られるかも。花屋なんかは、絶対クリスマスコーナーができていて、かなり派手な装飾(そうしょく)になっているはずだ。どこかではイルミネーションが眩しいくらいに輝いているだろう。
 
 わたしは文哉くんが好きなんだな、と思う。

 多分、つき合ったときよりも今のほうが好きだと思う。人前で、大きな声で叫んだ気持ちよりも、今のほうがずっと大きい。

 でなければ、今、さびしさも不安も感じることはなかった。
 だからこそ、これ以上踏みこまないようにしなくちゃいけないと警報が頭の中で鳴り響く。この気持ちを、決してぶつけてしまわないようにしなくちゃいけない。じゃないと、きっとブレーキが壊れてしまう。

 右手で左手をしっかりと握りしめる。

 中指に詰まっている思い出が、ゆっくりと上書きされていく。やめてほしいのに、止められない。いやで仕方ないのに、わたしの気持ちは満たされていく。


 ――これ以上、好きにならないほうが、いい。
 ――これ以上、好きになりたくない。


 記憶が、薄れていく。

 あのとき、あの瞬間、わたしが感じた、息が止まるほどの悲しみが。幸福と隣り合わせにあった離別の、胸を引き裂くような激痛が。

 ――『会いたかった』

 彼は、わたしの顔を見て、そう言ってくれた。
 いつだって、微笑んでくれて、いつだってわたしに好きだって言ってくれた。

 ――『好きだ』

 彼の笑顔は、わたしの脳裏で(きり)がかっている。あのとき流した涙のせいかもしれない。でも、そうじゃないかもしれないと考えてしまう。


 脳裏には、ちゃんとあのときの映像が、わたしの目が見たものが残っている。
 でも、それが真実なのか自信がなくなる。不確かな記憶になっていく。 あのとき流した涙は、どこに行ってしまったのだろう。

 あの頃感じたわたしの気持ちは、どこに消えてしまうのだろう。

「いやだ、やだ、やだ」

 自分の体をギュッと抱きしめて、奥歯を噛みしめる。そうすると、今までのものすべてを、ここに閉じ込めておけるような気がした。


 消えてほしくない。
 忘れたくない。


 目をつむっているのに涙がこぼれた。