空には白い雲がひとつ浮かんでいる。
 数時間ぶりに見る空は、今朝見たそれとは違って見えた。

 あんな柔らかそうな雲なのに、なんだか不気味に感じる。もし近づいたとしたら、強い風と薄い空気にたちまち苦しむことになるのだろう。

 まるで今の自分と同じだ。

 これまでは、死ぬことなんて考えないで生きてきた。
 ニュースで芸能人が死んだと聞いても、町内の誰かが亡くなったと聞いても、自分には関係のないことだと思っていた。僕にとっては遥か遠い未来の話だ、と。

 けれど、八月に倒れて以降、徐々に感じていた違和感は、数日前の検査入院によりはっきりとその姿を現している。

 おどろおどろしくも、どこか甘美(かんび)で抗えないような魅力すらあった〝死〟は、近づけばあまりにもリアルすぎた。
 先月はまだ周りの人にも平気な顔ができていたと思う。

 けれど、もう限界がきている。

 先週から背中に激痛を感じるようになり、四六時中だるさがつきまとっている。母親が何気なさを演じつつ口にした『入院』の言葉にもすぐにうなずいた。

 個室であるこの病室で、丸椅子に腰かけて空を眺めている。

 入院をして三日目。
 最後にした大がかりな検査について訊ねると、『ただの検査』と、堤医師は誤魔化していた。
 が、こっそり覗いたカルテには『MRCP』と記されてあった。

 調べなくてもなんの検査なのか予想はついていた。
 今ごろ母親は堤医師と検査結果を踏まえて相談をしているのだろう。
 ふいにベッドの上に置きっぱなしのスマホが震えた。風花の名前が画面に表示されている。

 風花……。

 こんなに暗い気持ちなのに、風花の名前を見るだけでまだ胸に希望が灯るようだ。

「もしもし、風花?」
『ごめんなさい、お葬式の最中に電話しちゃって』
「ううん、大丈夫だよ」

 病室のドアを見ながら答える。
 母親には学校に『親族が亡くなった』と説明してもらっている。
 ひょっとしたら、病気なんてたいしたことがないのかもしれない。

 そんな望みも、いまや風前(ふうぜん)のともしび。

 少しの風で希望はたちまち消え、暗闇が世界を覆う予感がしている。
 大げさだろ、と自分に言い聞かせる。すぐに、やっぱりそうかもという絶望にも襲われる。そんなことの繰り返し。

『本当に大丈夫?』

 そう訊ねる風花に、今日が木曜日なのを思い出す。

「もちろん。それより今日は学校だよね? ああ、そうか昼休み中か」
『急いで部室まで走ってきたところ。十月なのにすごく暑いよね』

 なんでもない会話なのに、彼女が自分の病気に気づいているような気がした。

 大丈夫なはず。

 体調の悪い日もあったけれど、なんとか表には出さなかったと思うし。
 不安になるのは自分に自信がないからだろう。同時に、最近では風花のちょっとした言葉がウソを言っているような気さえしてしまう。

 本当はなにか僕に言えない事情を抱えているんじゃないか。僕のことを好きな気持ちは冷めてしまったんじゃないか。
 退屈な入院生活では、明るい未来なんて想像できないでいる。

『もしもし。聞こえてる?』

 スマホ越しの声に我に返る。

「あ、うん。本当に暑いね」

 まだひんやりとクーラーの効いている部屋から青い世界を見た。窓越しでは風花と同じ空気を感じられない。
 さっき見た白い雲はどこかへ流れていったようだ。

『今日ね、友梨からハロウィンのことをまた言われたの。どうしても一緒に仮装したいみたい』
「ああ、そんなこと言ってたね。なにに仮装するの?」
『聞いてびっくりしちゃった。なんと、ゾンビだって。演劇部の子がペインティングしてくれるとかなんとか。もう、友梨はいつだって勝手に決めるんだもん』

 膨れている頬が目に浮かんで思わず笑ってしまう。こうして話をしているだけでどれだけ救われているか、きっときみは知らないのだろうな。

『ちょっと、今笑ったでしょ。ふたりで一緒に参加するんだからね』
「え、聞いてないよ。そういうのは苦手だし」
『わたしだって苦手だよ』
「じゃあやめておこう。友梨はそういうの好きそうだからひとりでも参加するよ。どうしてもパートナーがほしいなら、犬神を強制参加させればいい」

 犬神なら喜んでやるだろう。
 風花がころころと笑う声がスマホ越しにやさしい。

『あー、お似合いかもね。じゃあ友梨に提案してみる。ふふ、電話してよかったぁ』
「僕も話せてよかった」

 ――本当によかった。

 知らないうちに張りつめていた肩の力が、すとんと抜けた感じ。
 風花がいればそれでいいんだ。

『いつから学校に来られるの?』
「うーん。いろいろ片付けとかあるみたいでさ。そのあいだ、花壇の手入れ頼むよ。アネモネの植え替えもせっかくだからやってみたら?」

 よい提案のはずなのに、風花は短く息を吸って黙った。
 なにかを言おうとして途中で止めたように思えた。

「どうかした?」

 もう昼休みが終わるのかと思い、スマホの画面を点灯させるけれどまだあと三十分もある。

『ううん。アネモネは、下瓦さんに聞きながらやってみる。きっとできると思う。でも……』

 悲しげな声のトーンに思わず(つば)を呑みこんだ。
 やはりウソがバレているのだろうか……。

 しばらく黙ってから風花は『あのね……』と声を発した。

『お葬式なのにこんなこと言っちゃだめなんだろうけどね……やっぱりさびしい』
「……うん。さびしいね」

 風花の話す言葉はいつだって魔法だ。さっきは楽しい気分になったのに、言葉にぐんと引っ張られるようにせつなさが胸を覆う。

 ――会いたい。風花に、会いたい。

『でも、ちゃんと花壇作ってみるから。早く戻ってきてね』

 目の前に風花がいなくてよかった。
 無意識に握りしめるスマホやうつむいてしまう自分の姿を見せずにすんだから。

「もちろん早く帰るよ。風花こそ、アネモネ枯らさないでよ」

 最後まで明るく言えた自分を、少しだけ褒めてあげたい。

 切れた電話をしばらく見つめてから、検索画面に【MRCP】と打ちこむと、すぐに結果が表示された。
 光る画面に浮かぶ文字の列を目で追っていくときも、不思議と心は静かなままだった。

 トントントン。

 ノックする音に振り向くと、若い看護師が顔を覗かせた。

「鈴木さん、体調はいかがですか?」
「おかげさまでずいぶん楽になりました」

 実際、薬や点滴のおかげでずいぶんと体が軽い。熱も体感的にはないように思える。

「先生からお話があるそうですが、大丈夫ですか?」
「大丈夫というのは、覚悟のことを言ってるんですか?」
「えっ……」

 思わず投げかけてしまった言葉に動揺する看護師。視線を落とすとスマホにはさっきの検索結果がまだ表示されている。

 なに言っちゃってるんだろう……。

「いいえ」と、口元に笑みを意識する。

「なんでもないです。面談室ですよね、すぐに行きます」
「……お願いします」

 戸惑った声の看護師がドアを閉めると、部屋に静けさが訪れる。廊下で聞こえるアナウンスも遠く、まるで世界にひとりぼっちのようだ。

 静かに息を吐くと、
「大丈夫」
 自分に言い聞かせた。

 覚悟を決めると僕は〝現実〟に向かって歩き出す。


 面談室に一歩入ると、中にいた人たちが一斉にこっちを見た。
 四人がけのテーブルにパソコンがあるだけの部屋は、壁紙もテーブルも白で統一されている。

 黙って腰をおろす僕を、隣で母親が心配そうに見ている。向かい側には年配の婦長、そして右には堤医師がいる。

 キーボードから手を放すと、堤医師がニッと笑った。

「いろいろと検査ばかりで大変だったでしょう?」
「いえ」
「夜はよく眠れている? 体調は少しはマシになったかな?」

 質問をすることで真実をぼやけさせているように思えた。実際、堤医師の言葉はどこか上の空で、時折母親と目を合わせたりしている。

「話ってなんですか?」

 空気を切るように訊ねると、堤医師はすっと背筋を伸ばした。
 つられるように母親も居住まいを正した。

 手元にあるカルテを見ながら彼女は言う。

「検査結果なんだけどね、実はあまりよくないの」
「はい」

 うなずく僕をいぶかしげに見てから、堤医師はぎこちなく笑みを作った。

「ちょっとした手術をしようと思っているの」
「手術、ですか」
「怖がらなくて大丈夫よ。執刀(しっとう)は私の上司が行うから」

 そこまで決まっているのか……。

 なにも答えない僕に、
「姉さんもそう言っているし、そうしましょうよ」
 母親が上ずった声で助け舟を出す。

 看護師は記録を取っているのか顔をあげない。
 どう話をしていくのかを、何度もみんなでシミュレーションを重ねたのだろう。
 誰もがそれぞれの役割を演じているように感じた。

「手術をする前に病名を教えてください」
「ストレス性の腸炎」

 間髪(かんぱつ)()れずにそう言う堤医師。
 はじめから用意していた答えだとすぐにわかった。

「腸炎で手術が必要なんですか?」
「そうよ。放っておくと大変なの。だからパパッと手術を……え? どうしたの?」

 堤医師が目を丸くするのを見て、はじめて自分が笑っていることに気づいた。
 感情が壊れてしまったのか、どんどんおかしい感情が湧きあがってくる。
 声を漏らして笑う僕を、それまでうつむいていた看護師までが、不思議そうな顔で眺めている。

「いえ、すみません」

 咳払いをして笑いを止めた。

 誰も言葉を発せない様子で、戸惑った雰囲気が場を浸しているのを感じた。

「どうして笑っているの?」

 代表で訊ねる堤医師。
 自分の中にある答えを言うなら今しかない。

「僕の本当の病名は、すい臓がんですよね?」

 ヒッと短い悲鳴が聞こえた。両手を口に当てて目を見開く母親から、堤医師に視線を戻す。

「あまりにウソが下手だから笑っちゃった。もう、本当のことを言ってもいいよ」
「…………」
「自分の体調がどれくらい悪いかはわかってる。それにこんなに何回も検査をするなんてよほどのことだよね。先月くらいからコソコソ連絡取り合っているのも知ってたし」
「そんなこと……ないわよ」

 プロ意識からなのか、まだ微笑を浮かべて堤医師は否定をするが、かたや母親はこらえきれないようにボトボト涙をこぼしている。

 やっぱりそうだったんだ、という気持ちをすぐに振り払う。

 今は、自分の病状について知ることだけに集中しなくちゃ。
 肺に空気を入れ、そして静かに吐き出し深呼吸をした。

「MRCPがなんの検査かも調べました」

 MRI検査と同時に行えるMRCPは、すい臓や(たん)のうなどの臓器をスキャンする検査のこと。
 主にすい臓がんを調べる、とネットに書いてあった。

「違うの。これはなにかの間違いなの」

 涙声の母親に、僕は首を横に振ってみせた。母親の動揺した様子に、逆に心がしんと落ち着くようだった。

「大変な病気だから、みんなで必死で隠そうとしていたんだよね。すごくうれしかったよ。本当にありがとう」
「ちがっ――」
「知りたいんだ。自分の病気のことをちゃんと知りたい。だから、ウソはもうつかないでほしい」

 言葉に力を入れる僕に、
「わかったわ」
 堤医師がそう答えた。

「姉さん!」

 身を乗り出し異を唱える母親。こんなときなのに、まるでドラマみたいだなんて考えている僕。

 現実はいつも、予感や想像のせいで境界線をあいまいにぼやけさせる。

 だけど、これは実際に起きていること。
 真っ直ぐに堤医師を見ると、彼女はひとつうなずいた。

「だめよ。姉さん……こんなの、こんなの――」
「あなたの気持ちはわかるけれど、ここまで知っているんだもの。これ以上誤魔化すのは無理よ。それに、この子には知る権利がある。そうでしょ?」

 理路整然と諭すと、堤医師は手元のカルテに目をやった。

「検査の結果、あなたはすい臓がんです。『Ⅰ期』と言われる初期段階で、切除(せつじょ)可能な部位であることがわかりました。だから手術をしたいと思っています」

 丁寧語で話す堤医師は対等なひとりの人間として話をしてくれているように感じた。

「よろしくお願いします」

 深く頭を下げると暑くもないのに汗をかいていたらしく、額からひと粒の雫が流れ、テーブルに落ちた。

 ――僕は大丈夫。

 自分に言い聞かせると、根拠のない勇気が湧いてくるようだった。
 手術でもなんでもして、早く風花に会いたい。こんなところで立ち止まっている暇はないのだから。


◆◆◆



 感情は、見える景色さえも変えてしまう。
 久しぶりに訪れた部室、いつもの席に座れば木や土のにおいがやけに懐かしい。古ぼけた木製のテーブルも愛おしくなるほどさっきから指の裏で何度も撫でてしまう。

【部室にいるよ】

 さっき風花に、このSNSメッセージを送るまでずいぶん時間がかかってしまった。
 明日からは学校に戻れることになっていた。

 今日はずいぶん体調がいい。吐き気や痛みもなく、まるで日常が戻ったみたい。ここに来たのは、久しぶりに花壇を見たくなったから。

 いや、それは言いわけだろう。
 風花に会いたかったんだ。

 昼過ぎにこっそり部室にやって来た。もちろん母親には言っていない。
 入院から三週間が過ぎ、十月も下旬に入っている。手術からは今日でちょうど二週間。最初は痛んだ傷痕も、内視鏡(ないしきょう)手術で済んだおかげで、ここ数日はたまに思いだす程度になっていた。

 テーブルの上には風花が置き忘れたらしいマニュアルのコピーがぽつんと置かれていた。
 前よりもさらに赤字で記入されている文字を見れば、早く彼女に会いたい気持ちだけが大きくなる。

 大丈夫、きっとうまく誤魔化せるはず。

 自分に言い聞かせていると、校舎のほうからチャイムが聞こえた。
 外に出ると、足裏に土の感触が柔らかい。右側の花壇では一斉に小さな芽が生まれていた。
 途中まで間引きしてあり、脇には『スイートピー』と風花が書いたプレートが立っていた。これから冬を乗り越え、春にはピンクの花を咲かせるのだろう。

 吹き抜ける風は、彼女にはじめて会った春の日を思い出させる。あれからまだ半年しか経っていないのに、これほど自分の人生が変わってしまうなんて思っていなかった。

 けれど、もう心配することはなにもない。

「鈴木くん!」

 声に振り向けば体をふたつに追って息を切らしている風花がいた。メールを見て慌てて走ってきたのだろう、前髪が額に張りついていた。

「ただいま」

 そう答えた僕に、風花はぱあっと顔を綻ばせた。
 が、次の瞬間、へなへなとその場に座りこんでしまうから驚いて駆けよる。

「ど、どうしたの?」
「ほんとにいるって思ったら力が抜けちゃった」

 差し伸べた手を掴む小さな手。引き起こすと、やっと会えた大好きな人の顔がすぐそばにある。

 ずっと会いたかった! と心で叫びながらニコニコと笑う僕はピエロみたいだ。
 それでも、この手で風花に触れられたことがなによりもうれしい。

「もう、体の具合はいいの?」

 目を潤ませて訊ねる風花に大きくうなずいてみせた。
 手術後の回復は順調で、あんなに感じていただるさや胃の痛みもない。

「ありがとう。あと、お見舞い断ってごめんね」
「ううん。わたしも同じ立場だったら、お見舞いは困るもん。好きな人には元気なわたしだけを見てほしいから」

 風花は照れたようにスカートの土を手で払った。その仕草があまりにも愛らしくて、抱きしめたくなる衝動を抑えるのに必死。

「でもさ、まさかお葬式の最中に盲腸(もうちょう)になるなんてね。すごく痛かったの?」
「あ、うん」

 ウソが下手なことは自覚している。それでも風花のために、ウソをつきとおさなくてはならない。

「なんだか……またやせたみたいに見える」

 つないでいる僕の手に視線を落とす風花に、

「体重は変わってないけどね」

 笑顔を見せた。実際のところ、体重は入院前に比べて三キロ減っている。
 去年の今ごろと比較すると目も当てられないほどだ。今日は厚手のパーカーの下に何枚もシャツを重ねて誤魔化す作戦だった。

 それなのに手を見ただけでわかるなんて、うれしくて少しせつない。

「もう大変だったよ。でもすぐに手術してもらえたから大丈夫」

 ネットで調べた盲腸の辺りを指さす。
 いくらなんでも忌引(きび)きで三週間は休めないため、堤医師のアイデアで学校には『盲腸』ということにしてもらっている。

「もう病院には通わなくていいの? これからは学校に来られるってこと?」
「そうだよ。もうなんにも心配いらない」

 これは本当のこと。
 来週、もう一度精密検査があるが、今のところ腫瘍の摘出は成功と言えるらしい。

 母親は喜び、退院後は部屋から出てくることの多かった弟も、最近ではまた籠もりがちになっている。あきらめかけていた〝日常〟が再びやって来たのだ。

 一度真っ暗な未来を思い浮かべたせいか、あの日から生まれ変わったように日々は輝いている。

 もうどこへも行かない。ずっと風花のそばにいるから。

「スイートピー、植えてくれたんだね。ありがとう」
「下瓦さんが教えてくれたの。間引きが途中だけど、今日には終わると思う。あ、そうだ。あとね、あとね、アネモネもそろそろ植えていいんだって。でも、それはふたりでやりたいから待ってたの」

 話したくて仕方ない様子の風花が次々に報告をしてくる。

「下瓦さんにね、明日から学校に戻ることを言ったら『そうか』っていつもの口調でそっけなく言ってた」
「下瓦さんらしいね」
「でも絶対に喜んでいると思う。声色が少し高かったし、表情が緩んでいたから」
「うん」
「それでね、アネモネの球根なんだけど、部室にそろそろ移して――」
「風花」

 うしろから風花を抱きしめる。

 恥ずかしさなんてない。ただ、そうしたかった。ずっと風花に触れたくて仕方なかった。

「――会いたかった」

 入院中いつも思っていた。

 手術の麻酔が効く一秒前まで考えていた。ようやく自分が無事に戻ってこられたことを実感した。

「わたしも会いたかったよ」

 風花の肩にあごを乗せて花壇を見ると、ウインターコスモスが淡い黄色の花を咲かせている。
 まるで星空みたいに光っている。
 空を見上げると、さっきよりも眩しい世界がそこにあった。

 ――神様、もう二度と風花を僕から遠ざけないでください。

 願いは絶対に叶うはず。
 だって、こんなにも風花のことを僕は想っているのだから。

 キスをするのになんの躊躇(ためら)いもなかった。

 入院中は悪いことばかり考え、風花の気持ちさえ疑ってしまっていた。青空の下ではそんなものどこかへ飛んで行ったみたい。
 風花は照れたように、だけどうれしそうに笑っている。本当の笑顔を見せてくれた風花をずっと大切にしたい。

 ここから僕たちの物語は第二章に入るんだ。

 世界は眩しくあたたかく、そしてやさしい。

 今はすべてに感謝したい気持ちでいっぱいだ。



◆◆◆



 部活に行けない夕暮れはなんだかやるせない。外
 は夕暮れに傾いているのに、さっきから教室でぼんやり外を眺めている。

 間もなく十一月という放課後。
 これから病院に検査結果を聞きにいかなくてはならない。母親の仕事が終わる時間に病院で待ち合わせをしている。

 なのに、なぜ僕がまだ教室にいるか。
 それは犬神に呼び出されたからにほかならない。

 人を足止めしておいて、当の本人はなぜかどこかへ出かけてしまった。こんなことなら部室で待ち合わせにして、今日はひとりで水やりをしている風花を手伝えばよかった。

 ブツブツと文句を宙に逃がしていると、廊下を走る足音が聞こえた。
 一歩一歩の音の感覚が長いのは犬神の走り方の特徴だ。

「悪い、お待たせ」
「遅いよ。てか、それなに?」

 ユニフォーム姿の犬神が手にしているのは黒い布のかたまり。

「ハロウィンの衣装。演劇部から借りてきたんだよ」

 借り物なのにひょいと投げてくるから慌てて受けとめる。黒いスーツに黒いネクタイ。まるで喪服(もふく)のように見えてしまう。
 犬神は僕のそばにある机の上に腰をおろした。
 長い足を組むと、
「スズッキイにぴったりのはず。メイクも頼んどいたから」
 なんて言ってくる。

「だから、ハロウィンは行かないって言っただろ?」
「え、聞いてないし」
「言ったしお前も納得してたじゃん。友梨とふたりで参加することになってるはず」

 スーツを返そうとするが受け取らないので、机の上にそっと置いた。

「いや、それなんだけどさ……。友梨が『犬神とふたりなら参加しない』なんて言うんだぜ。なんか告白もしてないのにフラれた気分」
「ひとりで参加すればいいじゃん。もしくは部活のメンツとかとは?」
「わかってないな。スズッキイが来れば、女子ふたりも参加してくれるんだよ。な、絶対楽しいから参加してくれよ。駅前の道が仮装した人で溢れるなんて、年に一回しかないんだからさ」
「参加しない」

 必死でプレゼンテーションをしてくる犬神に迷うことなく答えると、
「うわ、ひでぇ」
 と顔をゆがめている。

「まあ、いいや。しょうがないから部のメンバーで参加するわ」

 半年以上クラスメイトをしているから、僕がハロウィンに乗り気じゃないのはとっくに知っているらしい。
 あっさりとあきらめた様子なので席から立ちあがった。

「話ってそれだけ? じゃあ行くわ」
「これから部活?」

 唐突の質問に返事が一瞬遅れた。

「……ちょっと用事でさ。今日は部活は休むんだ」
「ひょっとして風花ちゃんとデート?」

 ニヒヒ、と笑う犬神にグイとスーツを押しつけてやった。クラスで僕と風花の仲について、広まった原因のほとんどはこいつだからだ。

「違う。病院へ行くんだよ」
「病院?」
「盲腸の後日診断ってとこ。じゃあな」

 ウソはついていない。カバンを肩にかけて歩き出す僕に、
「でもよかったな」
 声が追いかけてくる。

 振り向けば、夕暮れ迫る教室で犬神がさっきの姿勢のまま目を線にして笑っていた。

「夏ごろ、ずいぶん体調悪そうだったろ? 結構心配してたんだぜ」
「あ、うん」

 なんて答えていいのかわからずに戸惑っていると、犬神はひょいと立ちあがった。

「もう元気になったならよかった。あのさ、なにかあったらちゃんと言えよ。友だちなんだからさ」

 そう言って教室の前のドアへ歩いていくうしろ姿。

 このまま行かせてはだめだと思った。

「犬神!」
「ん?」
「あ、ありがとう」

 感情は言葉にすれば、いつだって使いまわされた単純なものになってしまう。

「やめろ。おれ、思いっきり照れてるんだから。慣れないこと言ったな」
「それでもうれしかった。ありがとう」

 顔を真っ赤にしながら言う僕に、犬神はスーツを持った右手を一度上げてから出て行った。

「友だち、か」

 静けさの戻った教室でひとりつぶやく。
 病気さえなければもっと幸せだと思えるのだろうか。それとも、病気になったからこそ知ることができたのだろうか。

 答えはまだ、わからない。


 病院の自動ドアから中に入ったとき、すぐに違和感があった。
 診察時間も終わり、薄暗くなった受付前には見舞いの人が行き交っている。
 その流れの真ん中で、いつもならいないはずの人物が立っていたのだ。
 
 それは堤医師だった。

 両手を白衣のポケットに突っこみ、まるで僕が来るのを待ち構えていたかのように真っ直ぐにこちらを見ている。

 約束の時間にはまだ少しあるはず。壁にかかっている時計を見ているあいだに堤医師は早足でこちらに向かってきていた。

「悪いけど、ちょっと来てほしいの」

 有無を言わさぬ様子で僕の右腕を引くと、堤先生は右奥の廊下を進んでいく。突然のことで反応ができない。
 誰もいない廊下を進むと、やがて『関係者以外立ち入り禁止』と書かれたドアが現れた。

「ちょっと寒いけど」

 独り言のようにつぶやいて堤医師がドアを開けると、そこは建物と建物のあいだにある小さなスペースだった。

「あの……」
「待って。少しだけ待って」

 質問をしようとする僕を右手で軽く制してから、堤医師は白衣のポケットからもどかしく煙草(たばこ)を取り出し火をつけた。
 暗い空間にガスライターの炎が勢いよく上がった。
 深く煙草を吸いこみ白い煙を吐く。

 暗闇にすぐに溶けていく煙を眺めながら、
「ごめん」
 そう謝る堤医師。

「……母さんは?」

 乾いた声になってしまう僕に、堤先生はため息で答えた。

「診察室で待ってもらっているの」
「どうして?」

 聞きながら、一度は消えたはずの絶望がまた顔を出していることに気づく。さっきまでの幸せな気持ちは一瞬で消えさり、夜風が髪と体を震わせる。

 堤医師はひとくち吸っただけの煙草を()(がら)入れに捨てると、首を横に振った。

「あの子……お母さんにはまだ言っていないことなの」

 そんなことはどうでもいい。

「お母さんに言うかどうか、まずはあなたの意見を聞きたくって」

 早く、早くしないと心が折れそうだ。

「あなたは告知書にサインをした。本来なら未成年の場合は――」
「いいから言ってください!」

 大きな声を出してしまった。悲しく目を伏せる堤医師に、まだモンスターが消えていなかったと知る。
 むしろ、前よりも大きな姿で僕の前に立っている。

 苦渋に満ちた表情で、堤医師は言う。

転移(てんい)が見つかったの」
 と。