このときの記憶は、思い出せなかった。 けれど、文房具店があることと店主のおじいさんの姿はぼんやりと思い出せた。

あの人は、どこか祖父と雰囲気が似ていて、この町で僕が唯一言葉を交わす人だ。

スマートフォンをベッドから拾い上げて、ノートを見ながら文房具店の名前“文房具店 ランコントル”と検索バーに打ち込み、マップが表示する。 ランコントルは、ここから徒歩15分の場所に位置している。

椅子の背もたれに引っ掛けてあるショルダーバッグに空になったインク瓶を入れたら、中にボールペンを発見した。 そのボールペンのノックを押してペン先をノートに擦らせてみたけれど、インクは切れていたようで、ただペン先の形に凹んだ白い線が表れただけだった。 

ひどくやるせない気持ちになって、短いため息を吐く。 いま自分の周りにある全ての物が不足していて、今日まで過ごしていた自分は一体何を考えていたのだろうと、腹立たしい気持ちになる。

けれど、きっと昨日の自分も必死だったのだろう。 そう思えば、自分自身に同情できた。

ショルダーバッグにノートを入れて、玄関で靴を履いてアパートを出た。 小雨が降り続ける外は、室内よりも湿度が高くて空気自体がじっとりと重たく、濡れた土やアスファルトの匂いが立ち込めている。 

視線を遠くへと投げて、町を見る。 坂の多いこの町には、ギラギラしたビルなど無く、民家の屋根と電柱と、坂と緑、さらに遠くを見てみると、海が見える。 ここからでは、その潮風を感じることはできない。 以前の僕なら、自由に気ままに、行きたいと思ったらバスにでも乗って、あの海の水平線を間近で眺めることができたと思う。

けれど、もう、今の僕にはあの海までの道のりは途方も無い。

ランコントルは赤煉瓦造の建物で1階部分がお店になっており、扉横の壁には『文房具店 ランコントル』と表札があった。 傘立ては見当たらなかったので、扉の横に置かれた猫の置物の横にそっと立てかけて、扉のハンドルを引いて開けると、カランとドアベルが鳴った。 

店内には、至る所に沢山の文房具と雑貨がぎっしり並べられていて、インクと紙の匂いが鼻をくすぐる。 ゆっくりと深く息を吸うだけで、この匂いが体中を満たしていくような感覚が心地良い。

僕の住む部屋にも、インクと紙はあるのに、まったく違う。 万年筆インクを探そうときょろきょろと店内を見回しながら奥へ進んだとき、「いらっしゃいませ」と後ろから声が聞こえた。 振り向くと、店の奥から女性が顔を覗かせていた。