紙面をなぞる手を止めると、紙が手にひっついた。 肌に纏わりつく湿気を感じる。 

置いた手の下に付箋が貼られていたことに気付いて手を上げると、付箋には“アジサイ、雨、季節は梅雨。6月某日“と走り書きされていた。

「梅雨……」

今って、梅雨か。 そう思ったら、より一層肌に纏わりつく湿り気を感じた。

再び、なぜか分からない不安に襲われて万年筆を手に取った。 けれど、さっきよりも湿度が増したのか、万年筆を持った右手がぺったりと紙に張り付いて書き辛い。

それでも書いていくうちに、文字のインクが掠れてきた。 机の隅に置かれたインク瓶を見たら、中身はもう空になっていた。 困った。

机の横にある3段作りのチェストの棚を全て開けてみたけれど、中にはインク切れのボールペンが10本以上と以前使っていたノートと、写真が乱雑に入っていた。

写真を1枚手に取って見ると、見覚えのあるアパートが映っている。

「……よかった」

思い出せることに安堵する。 僕が、両親と、祖父と、住んだアパートだ。

もう1枚手に取ったのは、僕と祖父が囲んだ食卓の写真だった。 ふと、昔のことを思い出す。

僕が小学生の頃、夏の日差しが本格的になるよりも少し前の季節に、祖父と近くの公園でピクニックをした。 そのピクニックは、ただベンチに座って祖父が作ってくれたお弁当を食べただけだったけれど、とても楽しかった。 僕が思い出せる記憶の中で、家族と青空の下でご飯を食べたのは、あれが初めてだった。

あの時祖父が握ってくれた、ぎゅっと力の籠った鮭フレーク入りのおにぎりを、また食べたいなあと思う。

記憶は不思議だ。 なんの脈絡もなさそうな物から意外な記憶が想起される。 自分でも、どうしてこんなことを思い出すのだろうと思うことがあるけれど、脳はそれだけ自分の意思とは反した動きをすることがあるのだなと実感する。

僕は再びノートに視線を落として、去年この町に来たときのページを読んだ。 電車やバスを乗り継いで、この町に来てからまず初めに文房具店に立ち寄って、ノートや付箋、ボールペンを購入したことが書かれていた。