どんな記憶でさえ覚えているという事実には、ほっとする。 けれど、その安堵を全て飲み込んでしまうかのように、暗い不安に襲われる。
僕はどうして、こんな古い日記を引っ張り出して来たんだろう。 部屋をぐるりと見渡してみても、昨日の記憶はやはり戻ってこない。
こうしている間に、僕の知らぬ間に、記憶は消えてしまう。 どんなに大切な記憶だろうと、僕の意に反して、頭はそれを手放そうとする。
それが、祖父との思い出だったら、どうしよう。
さあっと血の気が引いていく。 そのまま身体の中が空っぽになってしまいそうで、深呼吸をした。
拾い集めた紙を机に置いて、再び椅子に座って万年筆を握った。 書かないと……。
それからしばらく、いま思い出せる記憶を書いて、書いた紙は床に落としていった。 そうしていくうちに、涙を流していたことに気付いて、手の甲で目元を拭った。 けれど涙は止まらなくて、ぽたぽたと落ちる雫は、紙に書いたインクを滲ませた。
鼻が詰まって、息もし辛くなって顔を上げて卓上時計を見たら時刻は17:30を過ぎていて、えっと小さく声を漏らす。
そういえばさっき洗濯機が乾燥を終えた音が聞こえたが、それからまた随分と時間が過ぎている。 椅子の背もたれに身体を預けたら、どっと疲れが押し寄せて、額の汗を拭ったら手の甲が湿っていて気持ち悪かった。
窓を見ると、雨がすっかり窓を濡らしていて、外の景色がよく見えない。
机に手をついて前のめりになって窓の外をよく眺めると、青色と紫色の花が咲いていた。 あの花は、なんていう花だっけ。
スマートフォンを探すよりも先に、机の上に置かれていた、この真っ白な部屋の中で一際目立つ緑色の花図鑑を広げる。 この図鑑は、母が使っていたものだ。
花図鑑のページを捲る、捲る。 そして、見たことのある花と同じ花を見つけて、手を止めた。 そこに書かれた花の名前と写真を指でなぞる。 あの花は、紫陽花だった。