そう思いながら机の横にある3段の引き出しを全て開けてみたけれど、中にはノートとメモ帳と写真が乱雑にばら撒かれて入っているだけだった。
仕方なく、重たい腕を持ち上げて椅子から立ち上がって、机の上に置かれたノートを手に取る。 このノートには、この街にどんな道があるのか、どの店に何が売っているのか、そこからの僕が住む家までの帰り道はどれか、僕が過ごせていける最低限の情報だけが書かれている。
これがないと、僕は家の外から怖くて出られない。
ノートと財布だけをショルダーバッグに入れて、玄関で靴を履いて部屋から出た。
外は小雨が降っているためか思ったより気温が低かったけれど、室内よりも湿度が高くてじっとりとした嫌な空気が肌に纏わりつく。
腕に引っ掛けてきたビニル傘をさして空を見上げると、薄い灰色の雲に覆われた隙間に水色が見えた。
ビニル傘に小さな雨粒が当たって、弾いて、流れて、落ちていく。
視線を遠くへ向けると、眼下には街が広がっている。 僕が今立つこの場所は、この坂の多い街でも高台のところで、眺めが良い。
ビルが一つもなくて、民家の屋根と電柱と、坂と緑、そして少しだけ目を凝らして遠くを見てみると、ぼんやりと海が見える。
ここからでは、その潮風を感じることはできない。 以前の僕なら、自由に気ままに、行きたいと思ったらバスにでも乗って、あの海の間近で水平線を眺めることができただろう。
それでも、今の僕にはあの海までの道のりは途方も無い。
ノートを開いて、文具店までの道のりを辿って僕は歩き始める。 ここに書かれたことを何度も確かめながら、時々立ち止まって自分が今どこにいるのかをよく確認する。
どんな看板が立っているのか、近くの民家の色、塀の色は何色か。
書かれていないところを見つければ、新たに書き込む。 だから、普通の人が普通に行くよりも何倍も時間がかかっている。
頭の中に地図が描けたら、記憶だけを頼りに目的地を目指せたら、どんなに気楽で楽しいだろう。
本当は家から一番近い場所にあるはずの赤レンガ造りの文具店「ランコントル」に到着した時には、小雨はもう止んでいて、地面に出来た小さな水たまりも静かになった。