翌日、目を覚ますとひどく腕が凝り固まったように痛かった。 ぐぐっと伸びをして、窓から差す陽の眩しさで霞んだ目をこする。

昨日、帰ってきて日記を書きながらそのまま机に突っ伏して眠ってしまったようだった。 目を細めて机の上を見ると、書きかけの日記帳が開かれたまま置かれている。

顔を上げて窓の外を見てみると、普段とはどこか違う明るさだと感じた。 なんというか、爽やかな気がする。

ようやくその明るさに目が慣れてきたようで、向こうで咲く紫色や青色の花がキラキラと光っているのが見えた。 椅子から立ち上がって窓を開けてみると、どうやらさっきまで雨が降っていたようで窓の外側や草木が濡れていた。

……こういう景色を撮るのが好きだったなあ。

不意に、自然にそう思って、疑問に思う。

僕は視線を机に落として、右端に置かれたインク瓶を見る。 それから祖父の万年筆、日記帳へと視線を移し、最後に視線が止まったのは生成色の布に覆われたカメラだった。

昨日まで机の上に存在してなかったはずのそれに触れると、なんとも懐かしくて切ないような気持ちが込み上げてくる。

僕は確かに、昨日のことを覚えている。

ランコントルで、また夕食をご馳走になったこと。 

しっぽの付け根にまん丸の模様がある猫に会ったこと。 

そして、ヨシジさんの日記帳を読ませてもらったこと。 

今思い出せるこの記憶が、本当に昨日の出来事の全部なのかは自信がなくて開かれた日記帳に視線を落とす。 そこに書かれていることと僕が思い出せることが、一致している。

僕はもう一度、カメラに触れて、ゆっくり持ち上げて膝の上に置く。 僕が撮った、ヨシジさんとマルが写っている写真が飾られていた光景を思い出す。

思い出せる。 自分の意思で、思い出したい記憶を頭の中で思い浮かべることができる。

こんな感覚は、いつぶりだろう。

毎朝、目が覚めると頭の中が真っ白で、絶望していた。 
そして、この真っ白な部屋を見渡して、自分のことを思い出す。

自分の右手の、ペン痕のついた中指を見る。 思い出す。 僕は、何も思い出せないことを。

そんな日々が、ずっと続いてきたことを覚えている。

こんな日々が、死ぬまで一生続くのかと思うと死にたくなった日もあることを覚えている。

だから、こんな良い日は他にないと思った。

目の奥が熱くなった気がして、僕は顔を上げる。 窓から光が入ってくる。 晴れて清々しい青色の空に、白い雲が流れている。

カメラを構えて、レンズ越しにその景色を覗き込む。

今この瞬間を忘れてやるものかと、僕はカメラのシャッターを切った。