日に日に寒さが和らいで来て、そろそろ叶と出逢った季節が廻る。
OLの自分がただの幻だったみたいに。
それとも、この1年が濃密すぎたのか。
紙宝堂の仕事もそれ以外の時間も、叶と切り離されることが無いから、・・・何を思い出しても彼一色だ。
最近は時々そこに樹が雑じって。
〝色〟が重なることもあれば、融け合わずにマーブル模様を描くこともある。
「ここン家のフロ、もう少しデカくすべきだろ」
「樹が大きいだけでしょ」
もう何度も聴いたセリフで、あたしは呆れ気味に言う。
紙宝堂の奥の居住部分は以前に総リフォームしたようで、キッチンもカウンター式だし、バスルームも今時のユニットバス仕様だ。ただ元々の造りが古いからマンションサイズではあるけれど。
ガタイの良い樹が一人で浸かっても広くはないバスタブの中に、あたしを抱え込んではいつも無理なことをしたがる。
「リツコの為を思って言ってンだよ」
「なあに、それ」
「もっと俺に色んなことされたいだろ?、お前も」
「・・・知らない」
「嘘言え」
ククッと頭の上で笑い声がした。
最近は随分と樹にも馴らされて、その触手使いに容易に乱されてしまう。
ちょっと武骨そうで、自分本位にしそうなのに。
あたしの反応をよく見て、探り当てるのも上手。
「ん、・・・っっ・・・」
声を我慢しても、きっとリビングにいる叶に筒抜けだろう。
それを判ってるから樹はあたしをバスルームに誘うのだ。
ひと月半くらい前くらいからだ。
叶は、自分の留守の間を樹に任せるようになった。
『樹、リツを頼むよ』
決まり言葉のように笑み。
あたしには必ずキスを落として、出掛けてゆく。
樹が近くに住んでいるのか、そうでないのかも知らない。ただ彼が紙宝堂に姿を見せる日は、叶がいない日。・・・そういう図式が出来上がっていた。
最初は距離を於いて、あまり樹に近付かないように。
・・・別に警戒していたとかじゃなく、単にどう接していいのか判らなかっただけで。
業を煮やした?樹があたしに声を掛けるまで、かなり白白しい空気が漂っていたと思う。
『リツコサン』
さん付けで名を呼ばれたのは久しぶりだった。
そう言えば。叶はいつの間にか、リツとしか呼ばない。
『・・・そんなに俺が怖いか?』
溜息雑じりに樹が言った。
首を横に振る。
『じゃあ何を怖がってる?』
怖い・・・。
警告灯が。頭の隅で激しく点滅を繰り返す。
自分が・・・怖い。
これ以上樹に近付かれたら。
止められそうにない自分が怖いから。もう近付かないで・・・。
あたしから逸らした目。
彼には見透されたようだった。
『・・・逃げんな』
あたしの顎に手を掛け、上を向かせた樹は。
『試してみろよ。・・・そしたら判るだろ、全部』
・・・あたしは叶が好きなの。
でも、樹を拒めないの。
これって何なの?
『お前は俺に惚れてんだよ』
樹はシニカルに笑った。
叶の全部が好き。
顔も体も、声も仕草も。
優しいところしか見せないオトナの狡さでさえ・・・、あたしが愛おしいと思えるたった一人のひと。
樹は。
動のひと。叶は静のひと。
叶に無いものを持ってるひと。
叶とは違うひと。
でも、居心地は悪くないひと。
安心できるひと。
・・・あの力強くて逞しい腕に、抱き竦められるから?
湯上がりの肌の手入れも済ませて、リビングに戻ると叶はソファで雑誌を手にしていた。
「樹なら帰ったよ。用事があって、しばらく来られないらしい」
姿を探すあたしの視線だけで、叶は先回りに答えてくれた。
「そうなんだ・・・」
さっき言えばいいのに。
ちょっと内心、ムッと来た。
樹ってやっぱり猫っぽい。
欲しい時はじゃれついてくる癖にすぐどっか行くし、気儘だし!
「寂しい?」
クスリと叶が笑う。
断じて。
・・・そういうのとは違う。と思う。
別に、だって、あたしには叶がいるもの。
・・・・・・。
「足りないって顔をしてる」
クスクスと今度は妖しく。
首を横に振ったあたしを、叶は差し招く。
「そんな物欲しそうな顔で僕を誘うなんて狡い子だね、リツは」
彼の膝の上に抱き上げられるようにして、優しく掴まえられた。
「僕を樹の代わりにするの?」
「違うっ・・・!」
あたしは泣きそうだったと思う。
叶が本気でないと判っていても、そんな風に思われるのだけは絶対に厭だった。
ぎゅっと彼の胸にしがみつく。
代わりなんて。
叶があたしの全てなのに・・・!
「リツ」
子供を宥めるような、柔らかなトーン。
おずおずと顔を上げるとキスを落とされた。
額に頬に、そして唇に。
「ごめん。ちょっと意地悪したくなった」
優しい目。
「じゃあ僕はどんな風にリツを啼かせようか」
それだけで。
麻痺してく。
甘さで。
あたしは蕩けてく。
だから夢心地で聴いていた。その呪文のような言葉を。
「本当に可愛いよ。リツは僕の、最高の・・・人形だ」
「リツ。ちょっとこれから、手伝ってもらえるかな」
叶がそう言って微笑んだ。
花も満開の、桜盛りの夜。
「大丈夫。何も要らないから。・・・特別なことは何も、ね」
連れて来られたのは、どこかの別荘のようだった。
車でどれくらいだったろう。
途中、車の中で目隠しをされたから時間の感覚も、どこに来たのかも真っ暗で判らない。
森の中なのか山の中なのか。暗闇に高い樹々のシルエット。
平屋建てで、和モダン風な造りのこぢんまりした建物が目の前にあった。
「ようこそ、人形堂へ」
先に着いていたらしい樹があたしを出迎えて、少しわざとらしげに笑いを浮かべた。
〝人形堂〟
新しいキーワード。
でもどこか聴き慣れた・・・。
ああそうだ。
叶だ。
〝僕の人形〟
時折り、あたしをそう呼ぶから。
にんぎょう。
・・・自分の意思では指先ひとつ動かせはしない傀儡(かいらい)。
見えない吊り糸に括られてるのは、あたし。
望んでその躯を差し出したのも。
中に入ると。マンションギャラリーの見学にでも来たかのような、シンプルデザインの家具や調度品が体裁良く整っていた。
リビングダイニングがあり、壁際のドアに続くのはベッドルームだろうか。
ここも叶の持ち物だとしたら紙宝堂とは随分、趣が違う。
人形堂、と樹は言ったけれどお店では無いし、不安より不思議な感じがする。
「リツ。おいで」
叶は変わらない笑みで、あたしをベッドルームの方へ通した。
一転してカントリー風の内装。
サイドチェストやロッキングチェアー、木の温もりの数々が気持ちを和らげてくれる。
「こんな遅い時間に、〝残業〟でごめん」
言いながらあたしをベッドの端に座らせ、叶も横に腰掛けた。
背中から腕を回して頭を抱き寄せてくれたから、そのまま彼の肩にもたれてしまう。
「これから来客があってね。・・・商談が成立するまでの間、リツにもそこに居て欲しいんだ」
「・・・居ればいいの?」
「樹が傍にいるから全部任せておけばいい。大丈夫、リツの安全は保証するよ」
思わず上げた顔。
叶の視線とぶつかった。
揺れない眸。
今の貴方には。迷いが無い。
「リツは何も考えなくていい・・・。僕が仕事を終えるまでちょっと君を借りる、それだけだから。・・・怖い?」
首を横に振る。
「緊張はしてるけど・・・」
「じゃあ一緒にお風呂に入ろうか」
にこりと叶が笑った。
「ここのは大きいから、二人でゆっくり出来るよ」
「二人して出て来ねーと思ったら。随分とお愉しみだな、そろそろ客が来るってのに」
バスルームの入り口に樹が立っているのも構わず、檜の浴槽の中で叶は、あたしの理性を溶かし尽くしていた。
樹に見られてる。
でも。止まらない。止められない。
「・・・樹が待ってるから、続きはまた後にしようか」
「ヤ・・・」
昂ぶりの最中でお預けを喰らい、あたしは思わず叶にしがみつく。
「いい子にしたらご褒美あげるよ、リツ」
妖しく笑んだ叶はでも、これ以上の我が儘を言わせない。
冷めた眸が彼の冷静さを窺わせていたから。
「リツコ。ほら上がって来い」
樹にも促されてお湯から上がる。
大きなバスタオルですっぽり包まれ、まるで子供がされるように樹に躰を拭かれていた。
「自分で拭けるってば」
「いいから」
その後ドライヤーで髪まで乾かしてくれて。
叶が途中で差し入れてくれたオレンジジュースを飲んだところで、少し記憶が曖昧になった。
頭がぼんやりとして、でも誰かに抱き上げられた感覚は憶えている。
それから。
・・・それから?
眠ったような気もして、ふっと意識が戻りかけた時に声が聴こえて来た。
「・・・ああ、当店秘蔵の人形なんです。僕らの気に入りなので、非売品ですが」
躰に力が入らなくて・・・、後ろから樹に抱え込まれているのだと気付く。
目隠しをされていても、すっかり馴染んだ体付きの感触は間違えようも無い。
ソファか何かであたしは、樹の脚の間に座らせされているようだった。
身じろいだあたしの耳許に、聴きなれた声が囁く。
「お目覚めか、お姫サマ?」
意識はあっても、どこか頭の芯がぼんやりしていて。あまり上手く返事ができない。
「可愛い人形だと思いませんか」
叶が誰かに話し掛け、樹があたしの肩に口吻を落とす。
意識のない間に、オフショルダーのドレスか何かに着替えさせられたみたいだった。
首筋、うなじ、肩、また首筋。やんわり唇が這って、状況もなにも分からないのに躰だけが反応する。
叶と樹のほかに誰か『お客』がいる認識があっても、見えないことが羞恥心すらも麻痺させていた。
「啼き声も、とても可愛いんですよ」
「非売品なんじゃねぇのか」
野太い男の声。
「ええ、もちろん。・・・ですが少しくらいならお聞かせできます。特別なお客様には」
穏やかな。でも温度と感情が抜けているような。いつもとは違う叶が、確かにそこにいる。気がした。
揃わない足音が近づくのが分かった。
「今は少し薬が効いていますので、のちほど」
「勿体つけるな」
顎の下をぐっと掴まれたかと思うと、乱暴に顔を上に向かされる。
「・・・手荒に扱うのはナシにしてもらえませんかね」
冷ややかに樹が制しても、男は手を離さないどころか嘲笑って言った。
「売りモンじゃねぇなら、レンタル料を払ってやる。金さえ払えば文句はねぇんだろう、人形堂」
「安くはありませんよ」
答えたのは、叶。
「なら今回の報酬に上乗せしとけ!」
「そうさせていただきましょう」
叶はずっと冷静だった。
目隠しで表情は見えなくても、声のトーンで判る。
そして樹は、あたしを抱えたまま離さなかった。