人形堂へ、ようこそ

「どうして・・・、叶・・・」

 叶はあたしの手の戒めを解いた後、バスローブをあたしに羽織らせ。自分もそうして、冷蔵庫からミネラルウォーターを渡してくれた。
 樹は窓際に立ち、あたしには背を向けたまま。

 本当に良く解らない。
 あたしをただ、欲望の道具にしたかったと言うなら、もっとしたい放題にすると思うのに。
 
「・・・ここに樹を呼んだのは僕だよ」

 樹と少し離れた場所に立ち、叶はベッドの上のあたしを静かに見つめて言った。

「話す前に・・・リツ。今なら君はここから出て行ける。・・・これきりのチャンスだ。自分で選びなさい。話を聴いたら、君はもう一生僕から離れられない」

 あたしは黙って彼の言葉を聴く。最後まで。

「この部屋を出たら二度と紙宝堂には近付くな。・・・命の保証はしない」

 薄い微笑み。
 ああ、やっぱり貴方は。
 闇と隣り合わせに生きる人なの・・・。
 あたしはのろのろと重い躰を動かし、ベッドから降りた。
 樹がこっちを伺う気配。でも構わない。
 叶の前に立つ。
 見上げて、目を合わせる。
 叶もあたしを見つめる。
 ・・・そうね。目はね、本当に嘘がつけないから。

「・・・嘘つき」

 目を逸らさないままで、あたしは言う。

「思ってもない癖に」 
 揺れた、叶の眼差し。
 彼の本心が少しだけ剥がれて見えた。
 あたしの答えが思いも寄らなかったかのように。
 大人は建て前も完璧ね。
 逃がさないって言わないの?
 力尽くで征服しないの?
 あたしに選べなんて・・・、本当に狡いひと。
 
「叶が選んで。・・・言う通りにするから」

 叶の視線が止まる。
 微かに眸を見開いて、口許を歪めた。

「案外狡いんだね・・・、リツは」

「・・・・・・」

「自分の値段を僕につけさせたこと・・・きっといつか後悔するよ」

 言うと叶は、あたしのバスローブを乱暴に剥ぎ取った。
 強く引き寄せられ、裸身のまま彼の胸元に倒れこむ。
 痛いくらいに。
 痛いくらいに抱き締められた後。
 ベッドに戻されたあたしは、今までに無く責め立てられ、誰に何をされているのかも解らないほど。啼いて、壊れた。





 いつ眠りについたのかもあやふやな・・・朝。
 樹の姿は消え、あたしは叶の腕に包まれていた。
 いつもと変わらない温もり。

 ・・・何か変わったの?
 これから変わるの?
 聖なる夜の秘めごと。
 あたしは貴方に何を売り渡したんだろう・・・。何を失うんだろう。

 叶が目を醒ますまで。
 どうかもう少しだけ。
 何も知らない恋人同士のままで・・・いさせて下さい。
  
 


「・・・リツ」

 ホテルの部屋を出る前に、叶はあたしをソファに座らせて言った。

「何も訊かずに、僕に君をくれないか」
 
 目の前に跪いた彼があたしを見上げる。
 穏やかに凪いだ眼差し。
 あたしはただ見つめ返すだけ。

「・・・リツは僕に言うことを利かされるだけだから、仕方無くでいい。君が思ってるよりずっとね、酷い事を言える人間だから僕は」

 儚く笑う。

 ・・・叶の言葉を、あたしはどこか遠くに聴いていた。
 現実味があるようで無いようで。
 ここに居る自分は・・・〝明日〟さえ曖昧で。
 背徳すら畏れずに叶を選んだ自分が。
 ・・・自分が一番驚いている。

 子供の頃からどっちかと言うと、先生には好かれる真面目っ子だったんだから。
 家族の顔が浮かんだ。
 友達の面影も幾人か過ぎって。 
 でもどうしてか。
 叶を置いてゆけない。
 ・・・揺るぎなく見えたのに。
 貴方の眸が揺れたから。
 激情のままにあたしを抱いたから。
 
 一番人間らしく、貴方を。
 とても、とても愛おしいと思ったから。
 だから。

「・・・全部あげる。叶に」


 ほら。
 また。
 貴方の眸が微かに揺れた。
 あたしは笑おうとして、笑えてたのかどうか。
 彼が両手を伸ばしあたしの頬を包み込んだ。

「僕が奪うんだよ、君を」

 真っ直ぐに見つめる眼差し。 


 
「・・・リツは僕に浚われた、ただの人形だ。憶えておきなさい」 
 年が明けてから、あたしは実家に顔を見せに帰った。
 いちおう毎年、正月には戻っていたし、叶にもそうするよう言われたからだ。
 ゆっくりしておいで、と駅まで送ってくれた叶の笑顔に後を引く思いで、それでも家に帰れば帰ったで家族の温かさに、やっぱりホッとしてしまうのだけれど。

 
『りっちゃん、ナンかキレイになった~。彼氏おるんでしょ』

 末妹で今年が成人式の紗菜にからかわれて思わず赤面とか、姉の威厳もへったくりもない。
 泊まっていけばいいのに、と残念がる家族に切符が取れなかったと謝り、夕方の新幹線に乗った。

 ほんの一日。
 叶と離れていただけなのに気が急いて。
 会いたくて。
 早く彼の腕に包まれたくて。
 車窓の向こうに流れてく夜景も、目に映っているだけで見てはいない。

 そう言えば、家族に仕事を辞めたことを話そびれた。
 子供が五人なだけあって、両親は細かいことはそんなに気にしない。元気でいるのが判れば、変に心配されることも無いだろう。
 今まで通りに。たまにメールしたり、普通にしていればきっと大丈夫。
 シートに体を沈め、あたしは瞑目する。

 これまでと変わらないよ、と淡く笑んだ叶を思い返す。あのクリスマスの朝の。

 『リツにはちゃんと別手当を支払うから、僕を手伝ってもらうことになる。・・・時間外労働で悪いんだけどね』

 どんな、と視線を傾げて見せたあたしに、

『リツにしか出来ないこと。僕が愛した君だから・・・出来ること』

 謎かけみたいな答え方で、叶はそれ以上のことは教えてくれなかった。
 いずれまた樹を呼ぶから、ときっぱり最後に言って、それまでは忘れていなさいとも。

 樹を呼ぶ。・・・の意味に惑ったのも確かだ。
 ただ。
 叶は意味の無いことはしない。絶対に。
 そう信じて、あたしは今は忘れてようと思うだけ。 
 やがて。
 新幹線の車内アナウンスが到着が近いことを告げた。 
 ホームに降り立つと足早にエスカレーターを昇り、改札を抜ける。
 〝駅の公園口ロータリーで待っているから〟 
 だいたいの帰宅時間をメールしたら、彼からそう返っていたのだ。
 三元日の終わりで、普段より利用客が少ないせいだろう。時間も時間だったがロータリーはそれほどの混雑でも無く、建物を出るとすぐに黒のハリアーが目に入った。  

 一刻も早くそこに辿り着きたくて。早足。
 中からも判ったらしく、寒いのに叶はわざわざ車から降りて迎えてくれた。

「お帰り。リツ」

「ただいま・・・」

 持たされたお土産で両手が塞がって抱き付けない。
 甘えるように見上げると、額にキスを落としてくれた。
 後部シートに荷物を収め車は走り出す。
 手を繋ぎながら。慣れた風で叶は片手運転だ。

「次は泊まっておいで。その方がご両親だって喜ぶ」

 それが思い遣りなのは良く解っているのだけど。
 ちょっとどうかなと思う。だって。

「・・・禁断症状が出るから無理」

「何の?」

 クスリと横目の笑いが返って。
 もう。
 判って言ってるでしょう。

「叶に会いたい病」

 わざとらしく。
 言った自分が恥ずかしい。
 多分あたしってこういうキャラとは違うと思うのに。
 顔が熱くなって、目が泳ぎまくる。

「・・・そういう嬉しいことをいう子は、どうしてあげようかな」

 赤信号で停まった交差点。
 彼の腕が伸びてあたしの頭の後ろをやんわり押さえ、少し自分に引き寄せて最初から深い口吻。
 朝、車で送ってもらった時以来だから何時間ぶり?
 随分と永い時間こうしてなかった気がして。
 ・・・どうしよう。
 禁断じゃなくて中毒みたい。これじゃ。
「家に着いたら、リツにすぐご褒美をあげるよ」

 信号が変わり、車を発進させながら叶は悪戯気味に。

「楽しみにしてて」

 ご褒美。ゾクリとして躰の奥底が否応なしに疼く感覚。
 フロントガラスの向こうを見やったままで、妖しく微笑む横顔。

「・・・物欲しそうな顔はもっといいね」



 

 
 家に着くなり、ベッドに沈められる。
  
 ああもう・・・〝毒〟だ。
 毒に冒されて、叶ナシでは居られない。
 もっと。
 もっと。
 もっと。
 何も考えられないくらいに。
 麻痺させて。
 溺れさせて。

 ほんの後悔すら、忘れるように。 
 
 

 それからしばらく経って。あの夜以来はじめて、樹と顔を合わせた。

 後で。叶に仕組まれたんだろうと二人で気付いたのだけど、古書の買い付けに出掛けると言い置いて彼が店を出たその二十分後に、樹は突然やって来たのだった。
 最初の出逢いを再現したかのように店のドアが開き、お客かと思ったあたしと入って来た樹は、互いを見合ってしばらく固まっていた。

「えーと・・・、叶は出掛けてて・・・」

 とりあえずそれだけを言うと、樹は小さく溜息を漏らして、知ってる、と答えた。

「待たせてもらうわ」

 これもこの間と一緒。
 ホールの円卓席にどっかり腰を下ろした彼に紅茶を出し、さっさと書棚の整理に逃げようと踵を返しかけたところを呼び止められた。 

「叶から聞いたか?」

 なにを?
 首を横に振る。

「何も?」

 今度は縦に。

「・・・ったく。俺に丸投げかよ」

 チッと舌打ちが聴こえた。
 ・・・叶の話し方が丁寧な分、粗野というか粗忽というか。
 前にいた会社の営業社員と比べてもそんなに違わない態度だとは思っても、何か気に障る。というか。
 用がそれだけなら、と行こうとしたあたしの今度は腕を掴まえて。

「・・・知りたいこと、あんだろ? 教えるから座れよ」
 眼差しは静かだった。
 口数が少ないのと、あまり笑わないのとで構えてしまいがちだけれど。
 このひと、嘘は言わない。
 気取られないぐらいの吐息をついて。
 あたしは樹の向かいに座った。

 樹はじっとあたしを見て、話し出す。
 自分と叶はビジネスパートナーなのだと。

「・・・ずっと二人でやってきたし、俺的にはどうかとも思ったけどな。叶があんたの分も責任取るって言うし、・・・あんたも離れる気ないみたいだし」

 抽象的で・・・捉えどころの無い、話の入り口にあたしは黙って耳を傾け。
 樹は淡々と続ける。

「ビジネスっつっても〝裏〟なのは、うすうす判ってんだろ?」

「・・・・・・」

「中身はあんたが知る必要は無い。・・・叶の希望なんでね」

「・・・じゃああたしは何を・・・?」

「それもいずれ判るさ」

 肩を竦めて樹はあたしを探るように、目線を上から傾げた。
 結局、肝心なところは蓋をされたまま。
 それでも樹の口からはっきりと、自分の居る場所がどこなのかを改めて突き付けられ、かえって底に足がついたような。

「ならそれまで忘れてればいいのね」

 あたしは少し笑った。・・・笑えた。
 女って。開き直ってしまうと案外、肝が据わってしまうらしかった。 
 クリスマスの夜のことも。
 叶の思惑がどうだったのであれ、樹に真意を問うつもりも無かった。
 確かに彼にも抱かれたのだけれど。
 あれは。
 儀式のようなものだったと思うから。
 樹の感情もあたしの感傷も必要ない。そういうものだと。

 余裕が出て来て紅茶のおかわりまで尋ねるあたしを、樹はまたじっと見つめ、何かを早口で言った。
 訊き返せば、「・・・耳貸せ」と肩を竦める。
 そう大きくもない円卓を挟んで少し身を乗り出せば、相手が近くなり。

「あのな」

 こっちは真剣だったのに。
 腕が伸ばされて頭の後ろを掴まえられる、このパターン。
 驚いて声を上げる間も無く。
 唇が塞がれ、いきなり舌でこじ開けられた。
 あたしの歯列をなぞり、舌をなぞり、絡められれば自然に反応してしまう。
 頭では駄目だと思ってるのに、慣らされてる官能はどんどんあたしを呑み込んでゆく。
 角度を変えては何度も何度も。
 樹は無尽に口腔を侵して、やっとのこと唇を離した。

「・・・叶が可愛がるわけだよな」

 まだ頭は掴まえられたまま。
 彼の口許にうっすらと笑みが滲んだ。
 笑ったと思ってたら、また。
 今度はさっきよりはソフトに。

「んっ、んん・・・っ!」

 いい加減にして、と抗議したつもりを判ってか、今度こそあたしを解放した。

「叶がいないからって・・・好きにしないで」

 恥ずかしいのと、何だか色々ごちゃごちゃの感情が湧いて出る。
 でも一応、少し怒った風に。
 
「なら次は、見てる前でも構わねーけど?」

「・・・!?」

「俺とリツコはそういう関係なんだってこと、憶えとけ」

 最後は。
 随分と真っ直ぐにあたしを見据えた。

 じゃあまたな、と頭を軽く撫でて店を出て行く樹。
 呆然とその背中を見送るしか出来なかった自分。
 叶が戻ったら、事の次第を話さない訳にもいかないだろう。
 どことなく憂鬱な気分になって、冷め切った紅茶を飲み干したのだった。