人形堂へ、ようこそ

 紙宝堂に来て初めて、叶の知り合いらしき人と遭遇した。
 12月も間近の、冬の始まりの頃。
 その時はちょうど古書の買い付けに出掛け、叶は留守だった。

 店の入り口から入ってきたその男性はパッと見、お客には見えなかった。
 三十代前後。B-3の革ジャンにジーンズ。足許はウエスタンブーツで、バイクのヘルメットを手にしたライダー。
 どう見ても場違いな、・・・入る店を間違えたんじゃ、と即座に思ってしまった位に。
 向こうは向こうで、あたしが居るのを驚いた風で一瞬視線が固まっていた。

「い・・・らっしゃいませ」

 とりあえず。
 客だろうとなかろうと、これは接客の基本だ。

「あー・・・叶、いる?」

 ぶっきらぼうな訊ね方に、初対面の印象はそこそこ悪い。

「・・・申し訳ありません。外出しておりまして」

 ほんの少し愛想を乗せて口許だけ緩ませる。
 つい数ヶ月前まで日常だったやりとりだ。この手の対応は慣れてると言うか、体が覚えていると言うか。

「なら、待たせてもらうわ」

 言うと、男はホールの円卓席にどっかりと腰を下ろした。
 あたしは何も訊かずに紅茶を入れ、テーブルに置くとそのまま自分の仕事に。 
 それから40分ほどして叶が戻るまで互いに一言も喋らず、それが樹(いつき)とのファーストコンタクトだった。
「理津子さん。彼は樹君。志穂(しほ)の、・・・亡くなった妻の弟さんでね。今でもときどき遊びに来てくれるんだよ」
 
 叶は彼に、「僕の大切なひと」だとあたしを紹介した。

「いいんじゃねぇの。・・・アンタが決めたんなら」 

 樹は、あたしをちょっと見てから叶にそう言った。

 志穂さん。
 前の奥さんが8年前に事故で亡くなったのは聴いていた。
 七回忌の時、あちらのご両親が叶に言ってくれたのだそうだ。
 指輪を外して、次のひとを見つけなさいと。
 叶の左薬指には確かに何も嵌まっていない。
 でも何となく思う。
 彼は多分、二度とその指には嵌めないんだろう。
 何となく。
 志穂さんへの感謝・・・というか。叶にとって〝妻〟と呼べるのは今でも、彼女ひとりだけなんじゃないかと思えるから。

 あたしは。
 ・・・叶の傍にいられればいい。今は。
 可愛がってもらうばっかりで、全然そんな立ち位置には無いって自分が一番よく知ってるし。

「そんな年下好きだったとは知らなかったけどな」

 樹が肩を竦めて見せたのを、あたしはちょっと訝しく反応。
 三十六歳と二十六歳って、そんなに言われるほど?
 すると叶が小さく笑った。

「理津子さんは可愛く見えるけど、僕と十しか離れてないからね」

「・・・マジ?」

「僕も最初は女子大生かと思った」

 はいはい。すみせんね、童顔で。
 子供の頃から背も小さかったし、これは母譲り。
 前の会社でも、取引先の新人営業マンとか、勝手に年下扱いしてくれたっけ。

「理津子さん、樹君はスポーツマンなんですよ。格闘技のジムに通ったりね。力仕事があったら遠慮無く頼んだらいい」

「ああ、それじゃ書棚の移動とか楽ですね」 

「ほんとに遠慮ねーな」

 ぼそりと呟く姿に、思わずあたしも笑いが溢れた。
 無遠慮で、取っつきにくい人なのかと思ったけれど、馴れたらもう少しフランクに話せそう。
 何より・・・叶のとても近しいひとなのだから。
 あたしにとっても特別。だなんて、ちょっとおこがましいかな。
 

「じゃあ、また来るわ」

 やっぱり別れ際も素っ気ない。
 でも、そんなに他人行儀でもない風で。 
 あたしより3つ上らしい樹は男っぽくて、叶とはかなり色が違う。合うのかな、と不思議な感じがした。
 





「ご機嫌だね、リツ」

 リビングのソファで、覆い被さったあたしに悪戯しながら叶はクスリと笑う。

「・・・樹を紹介されて嬉しかった?」

 耳たぶを甘噛みされ、妖しく囁かれた。

「樹にもこんなこと、されたい?」

 脈絡があるような無いような問いかけ。
 
「かなえ、だけ・・・」

「可愛いね、君は・・・」

 指が躰中を這い回って、どんどん理性を追い詰める。

「樹に見せてあげたいな」

「や、・・・だめぇ」

「僕の好きにされてるリツを見たら、あの子もきっと我慢出来なくて・・・欲しくなるかも知れないね。・・・おいで」

 蕩けながら、言われるままに叶と向かい合う恰好で彼と繋がった。

 いつも思う。
 叶のは、何の負荷も無く受け容れられる。
 キスもどれも、全部いい。


  
 呼吸が整わずに、まだ起き上がれないあたしの頬に触れながら叶は微笑む。

「君を欲しくならない男なんて、・・・きっといないよ」





「理津子さん。明日はお店は休みますから、一緒に出掛けましょう」

 叶がそう言ってくれたのは12月23日。クリスマスイヴの前の日のこと。
 多分あたしの顔には思い切り「嬉しいっ!」って書いてあったと思う。
 そんなに喜んで見せると、まるでプレゼントでもねだっているかのように思われそうで、ちょっと恥ずかしくて。
 平静を装って「どこ行くの?」と訊いてみる。

「内緒。それとも僕のエスコートじゃ不安?」

「全然」

 即答。
 今までだって映画に誘われれば、あたしが観たいと話した作品のチケットを予約済みだったし、食事に出掛けても、最初から叶の頭にあるお店を選んでくれていて、パーキングに迷ったりだとかも無い。

 ・・・前カレは案外思いつきで行動するタイプだったから、映画行くにも、適当に行って上映時間が合うのを選んだり、買い物がカラオケになったり。
 まあ若さ故の、それはそれで楽しんではいたけれど。
 叶の場合、何でもそつ無くこなすから。
 完璧主義とか理想主義じゃなく、・・・先回りが出来るひとなんだと思う。
 ちゃんと相手を見て考えて行動するから的を外さない。そういうひとだって思う。

 どんな一日であれ、明日は特別の想い出になる。
 期待とか期待とか期待とか。・・・どうしても色々考えてしまって、眠れなかったらどうしようかと心配したけど全く問題は無かった。
 いつものように叶に啼かされて。
 夢見ることも無く、深い眠りに堕ちていたから。 
 どれ着ても可愛いよと、服に迷うあたしを見て叶は笑う。
 別に。初めてのイヴだから気合い入れたいとかじゃなく。
 出掛ける時は特に恰好好すぎる叶の隣で、せめて釣り合う自分でいたいだけ。

 何しろ今日の叶はスーツ姿なのだ。前に古書関連の何かに出席するとかで初めて見た時。・・・言い方はあれだけど、これが自分のものなんだと、どれだけ優越感に浸ったことか。そのくらい似合う。

 背も180近くあって、頭の大きさとか躰つきとかバランスも良いし顔も好いし。
 反対にあたしは歳より幼く見えるほうだし。
 叶に見合うような、大人っぽい服が合わない現実はどうしようも無いから、一番自分が納得できる服を選ぶ。

 格子柄のプリーツスカートに、上は首元ラインにビジューをあしらった、黒のタートルニット。丈が短めのボレロ風ジャケットを羽織って、カジュアル過ぎず、フォーマル過ぎないコーディネイトにしてみた。

「似合うよ。とてもリツらしくて」

 車の助手席に収まったあたしの額にキスをすると、目を細めるようにして叶は微笑んだ。

 二人きりだとリツって呼ぶのは、ちょっと反則・・・。
 嬉しすぎて血圧上がるんじゃないかな、あたし。
 車を発進させた叶の横顔にうっとりと。
 夢見心地の、シンデレラさながらに。


 クリスマスとかバレンタインとか。
 こういうのって何歳になっても、初めての相手だと浮かれて舞い上がるものなんだと思った。
 あたしの歩幅に合わせてゆっくり歩く叶。
 彼のコートのポケットには、繋いだあたしの手ごと収まって。 
 車だから手袋は持って出なかった。
 ランチの後、少し歩くからと叶はすぐにそうして、ひと時も離れてる感が無い。 

 赤。緑。白。
 クリスマス色に染まった街。
 この日に独りじゃないってだけだって、奇跡みたいなものなのに。
 さっきのランチだって和懐石のお店で。予約しか受け付けていないらしく、席もすべて個室のようだった。かなり前からリザ-ブした筈だと想像がつく。

 叶が。
 この日を用意しておいてくれたことが、こんなに嬉しいなんて。
 だって。先のことなんて判らないって思わなかった?
 あたしがいることを当たり前って・・・思ってくれてた?
 ああもう。
 世界が明日で終わっても後悔ないぐらい、何に感謝しよう。

「・・・理津子さん、さっきからご機嫌ですね」

 言われてちょっと赤面。
 隣を見上げると、叶にクスリと笑い返される。
 思ってる事がぜんぶ顔に垂れ流しになっていたみたい。・・・恥ずかしい。

 叶がふと一軒の店の前で足を止めた。

「ちょっと寄ってもいいかな」

 三角に突き出た小ぶりのショーウィンドゥ。
 懐中時計が数点、飾られている。
 英語かドイツ語か、店の名前は読み取れない。
 木製の扉を押し開け、叶はあたしを連れて中に入っていった。

「いらっしゃい」

 ルーペを付けた年配のおじさんが、こっちを見て愛想も無く声だけ掛けて来る。
 店内は思ったよりも手狭で、ショーケースが一列だけ。その奥にコの字型のカウンターがあり、おじさんは内側に座って何かの作業をしていた。

「叶と言いますが」

 彼がそう言うと、「出来てるよ」とついでのような返事が返った。
「あの人、とても腕の良い職人さんでね。気に入りのお店なんだよ」

 品物を受け取り店を後にした叶は、あたしの手をコートのポケットの中で繋いで来た道を戻る。

「理津子さんに似合いそうなのを見つけたから・・・。後で付けて見せて?」
 
 にっこりと微笑まれあたしは、はにかみながらお礼を言うのが精一杯。
 さっきは少し後ろにいたからはっきりと憶えてないけれど、ペンダントのようにも見えた。

 アクセサリーや時計って、あたしが相手に贈るとしたらそれはやっぱり独占欲のカタチで。
 そんなことで縛れるものじゃないとしても、〝あたしのもの〟だって名札ぐらいは付けておきたいから。
 叶が同じように思ってくれてるかは。・・・手放しで何もかもを信じてしまうには、まだあたしは臆病だった。



 それから叶は、ただでさえクリスマスで賑わう商業施設へと足を向け。

「こういう処は滅多に来ないし、浦島太郎にならないように色々見ておかないとね」

 と、順にショップを回ったのだった。

 彼ぐらいの歳、なんて言ったら失礼だけれど、ウィンドゥショッピング的なものは苦手かと思っていた。
 見ていると店員のあしらい方も上手だし、女性の買い物の付き合い方も心得てる感じだ。

「理津子さんだったら、こっちの色のほうが似合うかな」
「・・・ちょっと試着してごらん」
「思った通りだね」

 気が付いたら、普段は着ていく場所も無さそうな可愛いワンピースと、揃いのコートまで買ってもらっちゃう羽目になってたり。

「叶はあたしを甘やかしすぎ!」

 もう、と困って見せると、「僕の愉しみのひとつなんだから」と余裕の笑みが返った。 
「今夜はここで、二人きりのクリスマスだからね」

 叶はあたしの肩を抱き、ゆっくりとフロントに向かいながら耳許に甘く囁いた。 
 買い物の後はどこか食事でもして、家に戻るのだとばかり思っていた。
 だって、それだけでも充分だったし!
 なのに。
 ちょっとドライブしようか、なんて言って小一時間車を走らせ、陽も落ちかけた海沿いの夜景を堪能していたら、いつの間にか地下駐車場にハリアーは滑り込んでいたのだから。

 人気の湾岸エリア。海浜公園を臨むホテルは、コンチネンタルスタイルでとても上品な空気に包まれていた。
 外国人も多く、例えば若いカップルがはしゃいでいたりしたら相当場違いなことだろう。

「お荷物はお運びしてございます」

 チェックインを済ませ、エレベーターの中でコンシェルジュがにこやかに笑う。
 
「有難う」

 薄く笑んで返す叶。
 他人の目から見たら、彼は一流企業のエリート社員にも見えるだろうか。
 5年前、紙宝堂をお父様から継ぐまではサラリーマンだったって前に話してくれたけど、・・・もしかしたら。
 いろいろ場馴れしてるのは判るし、だったとしても、あたしは今の叶だけでおなかいっぱい。本当に。

「ごゆっくりとお寛ぎ下さいませ」

 彼女が退室した後、あたしは思わずはしゃぐ。

 11階の展望は素敵だった。
 大きな窓。バルコニーの向こうには、海を渡る道路のイルミネーション。海浜公園の大観覧車も光のドレスアップをしていた。
 一番はバスルーム。こっちも嵌め殺しの大きな窓から夜景が一望出来るのだ。

「気に入ってくれた? リツ」

「嬉しすぎて・・・どうしよう」

 ぎゅっと叶の背に腕を回し、あたしはその胸元に顔を埋めた。

「まだ夜は・・・これからだよ」

 顔を上げたあたしにキスが落ちる。
 腰を引き寄せられ、長いことお互いを堪能する。
 このままベッドで好きにされたい欲情が湧いているのも、叶はお見通しだったけれど。

「ディナーの後まで我慢しなさい」

 クスリと笑ってあたしの髪を撫でたのだった。
 ホテルの最上階にある、フレンチレストランでのディナー。
 さすがに今日のあたしの恰好だと気後れしそうだったから、買ってもらったワンピースを着てしまう。
 ・・・ううん、叶のことだからきっとこれも計算内。
 本当にこのひとって。
 向かいの席でシャンパングラスを手にする彼を視線に捉えながら。
 
 テーブルマナーなんて聞きかじり程度だし、正直苦手。
 悪戦苦闘とまでは行かなくても、四苦八苦の末デザートまでどうにかいただき、部屋に戻ると叶がバスルームにあたしを誘った。

「綺麗に洗ってあげるよ。・・・全部」
  
 泡まみれのバスタブの中では思ったほど啼かされず。
 レストルームで、髪を乾かすのにバスタオルを躰に巻き付けた恰好でいたあたしを背中から抱き竦めて叶は、露わになっている肩に唇を這わす。

「・・・こら」

 まだ途中だから、と宥めれば。

「僕が乾かしてあげる」
 
 そう言ってあたしの手からドライヤーを取り上げてしまう。
 やっぱり慣れた手付きで、指で梳くように風を通す鏡の中の叶があんまり満足そうで、ちょっと可愛かった。



 そのまま抱き上げられてベッドに連れて来られると、ほんの少し・・・叶の纏う空気が妖しさを増した。気がした。