会社からは、せめて年内いっぱいは残って欲しいと泣き付かれた。
母親が病気になり実家に戻る、と苦しい言い訳で9月末に退職。
アパートも引き払って、紙宝堂に引っ越した。
外観からは判らないけれど奥はちゃんと居住用に造作されてあって、叶は初めからここに住んでいたし、空いている部屋を使わせてくれる事になったのだ。
「だって家賃ももったいないし、こんな近くで別々に暮らす方が変でしょ?」
変・・・かどうかはともかくとして。
本当はちょっと躊躇していたのだ。
前の彼氏も半同棲みたいになって、結局お互いが見えすぎる位置にいると上手くいかないって思ったから。
その不安を打ち明けると叶は少し考えて、あたしの頭をぽんぽんと撫でた。
「確かにね。そういう時期はどこにでも来る。でも君より長生きの分、僕は大人だから。乗り越える自信はあるよ」
先のことは判らない。
ひとの気持ちほど不確かなものなんて無い。
目の前の叶を信じられなければ、何ひとつ成立しない関係。
レンアイって、難しくて面倒で厄介で。
自分と相手の気持ちに振り回されて、傷付いて・・・疲れて。
あんな思いは2度とごめんだと思うから、走り出す前にあんなにブレーキかけておいたのに。
彼でなかったら。
アクセルには踏み替えなかった。
慎重に、今はまだ制限速度で。
多分、きっと。どんどんスピードが乗ってしまうだろうけど。
・・・叶に乗せられるほう? それとも。
紳士然としてる所所に覗かせる、悪戯っ子みたいな一面(カオ)。
「リツは縛られるの、好きだからね・・・」
ベッドの上で見せる叶の微笑みは妖しくて、いつにも増して愛おしげで。
あたしの自由を奪ってから、目隠しをして。
より官能を扇情させる。
「僕の好きにされるリツを見てるのが一番・・・嬉しいよ」
額に、瞼に、頬に、首筋に。叶の唇を感じながら。
やがて胸に辿り着くと、舌と指も加わって。
彼が飽きるまでなぶられ続ける。
「だって君の声があんまり可愛いから。・・・もっと啼いて、リツ」
どこまでも甘く。
優しい旋律で。
叶に侵されていく。
・・・矢のような速さで。
「理津子さん。休憩にしませんか」
普段はあたしを、さん付で呼ぶ叶。リツと呼ぶのはあの時だけ。
「さっき、したばっかりでしょう」
あたしは振り返りもせず書棚から本を取り出し、状態をチェックしては戻す、の手を止めない。
「さっきのはお茶の時間」
言いながら叶は後ろから腕を伸ばして、あたしが取ろうとした本を押し戻してしまう。
「・・・こら」
溜息雑じりに仕方なく向く。
「お給料分の仕事はさせてもらわないと」
「そういう真面目なところも理津子さんらしくて好きだけど」
クスリと笑うと、叶はあたしを引き寄せてやんわり抱き締めた。
「・・・キスしていい?」
ダメ、なんて言ったこともないのに、時々こういう訊き方をする。ちょっと遊ばれてる感じだ。
返事の代わりに上を向く。啄むようなキスから、深く舌の絡み合う愛欲のキスへ。 唇を離さないままで、叶はスカート越しにあたしの足の間に手を差し入れてくる。
「・・・ん・・・っ」
絶妙な加減でそこを擦られると、勝手に躰が反応して小さく跳ね上がり。叶はあたしをそんな風に確かめるのが好きだ。強弱をつけながら弄ばれて、躰中に疼きが広がる。
「ッ・・・あ、んっ・・・」
「・・・ここで止めたほうがいい?」
耳許に囁かれる甘やかな悪魔の声。
「好きなほう選んで」
「・・・むり・・・」
だってもしかしたら誰か来るかも知れないし。でもこんな中途半端なんて。
「そういう我がままは、聴かない」
叶は仄かに笑うと、スルリと膝丈スカートをたくし上げる。
「口よりこっちの方が正直なんだから」
「あ・・・」
あたしは叶にすがりつくような恰好で。
もう。脳は羞恥なんてコトバを認識しない。
彼の指をねだって、本能のままに。
「ここがいいってちゃんと教えて、リツ」
わざとそこには触れてくれない意地悪。
「・・・あ、んっ、かな、え・・・」
「気持ち良くして欲しい?」
「・・・して・・・」
「じゃあ次は、もっと素直にならないとね」
立っていられなくて、叶があたしの腰に腕を回し支えてる。
「や、・・・あ」
勝手に口から迸る絶え間ない声は、すすり泣く悲鳴のように。
と、次の瞬間。
崩れ落ちそうになったあたしの躰をしっかりと抱きとめ、乱れた髪を撫で付けながら叶はひどく満足そうに言う。
「リツの啼き声を昼も夜も聴けるなんて、ちょっと贅沢すぎるかな」
お客様各位。
・・・表の扉に〝ただいま留守にしています〟のプレートが掛かってる際は、決して聞き耳など立てられませんように。
邪魔をするものは消されてしまいます。
永遠に、この世から。
人形堂より。
紙宝堂に来て初めて、叶の知り合いらしき人と遭遇した。
12月も間近の、冬の始まりの頃。
その時はちょうど古書の買い付けに出掛け、叶は留守だった。
店の入り口から入ってきたその男性はパッと見、お客には見えなかった。
三十代前後。B-3の革ジャンにジーンズ。足許はウエスタンブーツで、バイクのヘルメットを手にしたライダー。
どう見ても場違いな、・・・入る店を間違えたんじゃ、と即座に思ってしまった位に。
向こうは向こうで、あたしが居るのを驚いた風で一瞬視線が固まっていた。
「い・・・らっしゃいませ」
とりあえず。
客だろうとなかろうと、これは接客の基本だ。
「あー・・・叶、いる?」
ぶっきらぼうな訊ね方に、初対面の印象はそこそこ悪い。
「・・・申し訳ありません。外出しておりまして」
ほんの少し愛想を乗せて口許だけ緩ませる。
つい数ヶ月前まで日常だったやりとりだ。この手の対応は慣れてると言うか、体が覚えていると言うか。
「なら、待たせてもらうわ」
言うと、男はホールの円卓席にどっかりと腰を下ろした。
あたしは何も訊かずに紅茶を入れ、テーブルに置くとそのまま自分の仕事に。
それから40分ほどして叶が戻るまで互いに一言も喋らず、それが樹(いつき)とのファーストコンタクトだった。
「理津子さん。彼は樹君。志穂(しほ)の、・・・亡くなった妻の弟さんでね。今でもときどき遊びに来てくれるんだよ」
叶は彼に、「僕の大切なひと」だとあたしを紹介した。
「いいんじゃねぇの。・・・アンタが決めたんなら」
樹は、あたしをちょっと見てから叶にそう言った。
志穂さん。
前の奥さんが8年前に事故で亡くなったのは聴いていた。
七回忌の時、あちらのご両親が叶に言ってくれたのだそうだ。
指輪を外して、次のひとを見つけなさいと。
叶の左薬指には確かに何も嵌まっていない。
でも何となく思う。
彼は多分、二度とその指には嵌めないんだろう。
何となく。
志穂さんへの感謝・・・というか。叶にとって〝妻〟と呼べるのは今でも、彼女ひとりだけなんじゃないかと思えるから。
あたしは。
・・・叶の傍にいられればいい。今は。
可愛がってもらうばっかりで、全然そんな立ち位置には無いって自分が一番よく知ってるし。
「そんな年下好きだったとは知らなかったけどな」
樹が肩を竦めて見せたのを、あたしはちょっと訝しく反応。
三十六歳と二十六歳って、そんなに言われるほど?
すると叶が小さく笑った。
「理津子さんは可愛く見えるけど、僕と十しか離れてないからね」
「・・・マジ?」
「僕も最初は女子大生かと思った」
はいはい。すみせんね、童顔で。
子供の頃から背も小さかったし、これは母譲り。
前の会社でも、取引先の新人営業マンとか、勝手に年下扱いしてくれたっけ。
「理津子さん、樹君はスポーツマンなんですよ。格闘技のジムに通ったりね。力仕事があったら遠慮無く頼んだらいい」
「ああ、それじゃ書棚の移動とか楽ですね」
「ほんとに遠慮ねーな」
ぼそりと呟く姿に、思わずあたしも笑いが溢れた。
無遠慮で、取っつきにくい人なのかと思ったけれど、馴れたらもう少しフランクに話せそう。
何より・・・叶のとても近しいひとなのだから。
あたしにとっても特別。だなんて、ちょっとおこがましいかな。
「じゃあ、また来るわ」
やっぱり別れ際も素っ気ない。
でも、そんなに他人行儀でもない風で。
あたしより3つ上らしい樹は男っぽくて、叶とはかなり色が違う。合うのかな、と不思議な感じがした。
「ご機嫌だね、リツ」
リビングのソファで、覆い被さったあたしに悪戯しながら叶はクスリと笑う。
「・・・樹を紹介されて嬉しかった?」
耳たぶを甘噛みされ、妖しく囁かれた。
「樹にもこんなこと、されたい?」
脈絡があるような無いような問いかけ。
「かなえ、だけ・・・」
「可愛いね、君は・・・」
指が躰中を這い回って、どんどん理性を追い詰める。
「樹に見せてあげたいな」
「や、・・・だめぇ」
「僕の好きにされてるリツを見たら、あの子もきっと我慢出来なくて・・・欲しくなるかも知れないね。・・・おいで」
蕩けながら、言われるままに叶と向かい合う恰好で彼と繋がった。
いつも思う。
叶のは、何の負荷も無く受け容れられる。
キスもどれも、全部いい。
呼吸が整わずに、まだ起き上がれないあたしの頬に触れながら叶は微笑む。
「君を欲しくならない男なんて、・・・きっといないよ」
「理津子さん。明日はお店は休みますから、一緒に出掛けましょう」
叶がそう言ってくれたのは12月23日。クリスマスイヴの前の日のこと。
多分あたしの顔には思い切り「嬉しいっ!」って書いてあったと思う。
そんなに喜んで見せると、まるでプレゼントでもねだっているかのように思われそうで、ちょっと恥ずかしくて。
平静を装って「どこ行くの?」と訊いてみる。
「内緒。それとも僕のエスコートじゃ不安?」
「全然」
即答。
今までだって映画に誘われれば、あたしが観たいと話した作品のチケットを予約済みだったし、食事に出掛けても、最初から叶の頭にあるお店を選んでくれていて、パーキングに迷ったりだとかも無い。
・・・前カレは案外思いつきで行動するタイプだったから、映画行くにも、適当に行って上映時間が合うのを選んだり、買い物がカラオケになったり。
まあ若さ故の、それはそれで楽しんではいたけれど。
叶の場合、何でもそつ無くこなすから。
完璧主義とか理想主義じゃなく、・・・先回りが出来るひとなんだと思う。
ちゃんと相手を見て考えて行動するから的を外さない。そういうひとだって思う。
どんな一日であれ、明日は特別の想い出になる。
期待とか期待とか期待とか。・・・どうしても色々考えてしまって、眠れなかったらどうしようかと心配したけど全く問題は無かった。
いつものように叶に啼かされて。
夢見ることも無く、深い眠りに堕ちていたから。
どれ着ても可愛いよと、服に迷うあたしを見て叶は笑う。
別に。初めてのイヴだから気合い入れたいとかじゃなく。
出掛ける時は特に恰好好すぎる叶の隣で、せめて釣り合う自分でいたいだけ。
何しろ今日の叶はスーツ姿なのだ。前に古書関連の何かに出席するとかで初めて見た時。・・・言い方はあれだけど、これが自分のものなんだと、どれだけ優越感に浸ったことか。そのくらい似合う。
背も180近くあって、頭の大きさとか躰つきとかバランスも良いし顔も好いし。
反対にあたしは歳より幼く見えるほうだし。
叶に見合うような、大人っぽい服が合わない現実はどうしようも無いから、一番自分が納得できる服を選ぶ。
格子柄のプリーツスカートに、上は首元ラインにビジューをあしらった、黒のタートルニット。丈が短めのボレロ風ジャケットを羽織って、カジュアル過ぎず、フォーマル過ぎないコーディネイトにしてみた。
「似合うよ。とてもリツらしくて」
車の助手席に収まったあたしの額にキスをすると、目を細めるようにして叶は微笑んだ。
二人きりだとリツって呼ぶのは、ちょっと反則・・・。
嬉しすぎて血圧上がるんじゃないかな、あたし。
車を発進させた叶の横顔にうっとりと。
夢見心地の、シンデレラさながらに。
クリスマスとかバレンタインとか。
こういうのって何歳になっても、初めての相手だと浮かれて舞い上がるものなんだと思った。
あたしの歩幅に合わせてゆっくり歩く叶。
彼のコートのポケットには、繋いだあたしの手ごと収まって。
車だから手袋は持って出なかった。
ランチの後、少し歩くからと叶はすぐにそうして、ひと時も離れてる感が無い。
赤。緑。白。
クリスマス色に染まった街。
この日に独りじゃないってだけだって、奇跡みたいなものなのに。
さっきのランチだって和懐石のお店で。予約しか受け付けていないらしく、席もすべて個室のようだった。かなり前からリザ-ブした筈だと想像がつく。
叶が。
この日を用意しておいてくれたことが、こんなに嬉しいなんて。
だって。先のことなんて判らないって思わなかった?
あたしがいることを当たり前って・・・思ってくれてた?
ああもう。
世界が明日で終わっても後悔ないぐらい、何に感謝しよう。
「・・・理津子さん、さっきからご機嫌ですね」
言われてちょっと赤面。
隣を見上げると、叶にクスリと笑い返される。
思ってる事がぜんぶ顔に垂れ流しになっていたみたい。・・・恥ずかしい。
叶がふと一軒の店の前で足を止めた。
「ちょっと寄ってもいいかな」
三角に突き出た小ぶりのショーウィンドゥ。
懐中時計が数点、飾られている。
英語かドイツ語か、店の名前は読み取れない。
木製の扉を押し開け、叶はあたしを連れて中に入っていった。
「いらっしゃい」
ルーペを付けた年配のおじさんが、こっちを見て愛想も無く声だけ掛けて来る。
店内は思ったよりも手狭で、ショーケースが一列だけ。その奥にコの字型のカウンターがあり、おじさんは内側に座って何かの作業をしていた。
「叶と言いますが」
彼がそう言うと、「出来てるよ」とついでのような返事が返った。