表のそれを見たのは偶然だった。
 と言うより。この店の前を通ったことすら偶然だ。
 古書店が立ち並ぶ独特の界隈。
 本を読むのは好きだけれど、古書は興味なかった。買うなら普通に本屋で新書を買うもの。

 日曜の昼下がり。特に予定も無くて、もうすぐ切れそうな柔軟剤だとかハンドクリームなんかを買い足しに行こうと散歩がてら、歩いて15分ほどのショッピングセンターに行った帰り道。
 桜も終わって、こんな爽やかな風が吹いていなければきっと、寄り道でもしてみようなんて気は起こさなかった筈なのに。

 その路地の入り口にはちゃんと、『橘橋商店会』の名入り看板があって、いかがわしい店が集まってる風でもないんだろうとは思ってた。ただ。たまに通りがかっても、ひとが歩ってる姿は見たことが無かったし、パッと見でどんな種類の店があるのか見当もつかなかったから。

 だから、たまたまだったんだろうと思う。
 ちょっと年配のおばさんが、何かの買い物袋を下げ一人でそこに入って行ったのを見て何となく。
 本当に何となく、足を向けてしまったのだ。
「古本屋・・・」

 思わず苦笑い。
 右も左も、連ねているのは古書店だった。
 電飾看板も無く、古びた大きめの表札のような店名が入り口の横、あるいは上に付けられているような。
 どうしてここに集まっているのかが不思議だったけれど、わざわざそれを訊ねに店内に入る勇気も無く。
 きっと向こう側の道に抜けるだろうと、通りすがりの振りで視線だけあちこち。
 そこで不意に目に止まってしまった。急募の二文字。

『お好きな時間にお手伝い下さい』
『書庫の整理など、どなたでも出来ます』
『ご希望条件、承ります』
『紙宝堂(しほうどう) 店主』

 ・・・バイト募集?
 ちょっと頭の隅を過ぎったのは、持て余す休日の時間(ヒマ)を潰せてお金も稼げるっていう、自分の都合勝手な事情。

 店構えを見ると、他の古本屋とはだいぶテイストが違う。
 昭和初期の洋風建築物。とでも言えばいいのか。外壁はコンクリートのようだし、入り口は重厚そうな木製の両開きの扉がきっちり閉まっていて、店というよりは事務所、・・・倉庫。

「ナシ・・・よね」

 足を止めて、その達筆な募集広告をもう一度眺める。
 イーゼルに立てかけられた小さな黒板。よく日替わりランチのメニューが書かれてあったりする、あれだ。
 扉の前に二段、階段があって上段のポーチにそれは置かれていた。 
 白のチョークで書かれた、読みやすい綺麗な文字列。
 でも直感で男の人の字だと思った。
 字が綺麗なひとは心も綺麗。母がよくそう言ってたから何となくそう思ってしまうのだけど。
 せめて連絡先でも書いてくれれば、電話でだいたいの雰囲気も掴めるのに。
 溜息雑じりに行き過ぎようと。ほぼ同じタイミングで、扉が内側から開いた。

「こんにちわ。今日はいいお天気ですね」

 にこりと微笑んだおじさまが、あんまりにダンディだったもので。
 思わず言ってしまった。

「あの・・・この募集って・・・」



 



『もちろん、あれはタイミングを計ってドアを開けたんだよ』

 叶(かなえ)は、クスクス笑いながら教えてくれたっけ。

『上の窓から君が見えて、良さそうな娘だなぁって思って』

 そしてこうも言った。

『リツと出逢えたのは、神様のプレゼントかな』

 
 さあ・・・?
 運命なんて全部、後付けでしょう。
 現在進行形でいるうちは誰も気付かない。気付けない。
 自分が撰んだつもりで、撰ばれたつもりで。
 

『でも引き寄せたのは僕の実力だけどね』

 ・・・そういうところが、やっぱり叶だ。
「乃宮理津子(のみや りつこ)さん・・・、OLさんですか」

 木製の猫足テーブルと椅子。
 深みのある色合いは、年代物そうだ。

 
『もしお時間があるのなら、店内をご覧になりますか?』

 面接しましょう、でも無く。
 押しつけがましさも感じない軟らかな微笑みで言われ、頷いてしまったのだ。
 一抹の警戒心も無かったとは言わない。ただ、人けは無くても周り近所も一応お店だし、声を出せば筒抜けだろうと踏んだから。
 後はもう直感で。悪そうな人には見えなかった。・・・ってそれだけ。

「もしかして転職をお考えとか」

「えっ? あ・・・違います。土日が休みなので・・・空いた時間に出来るかとちょっと思って。すみません」

 暇潰しの理由で希望するなんて雇う側としたら、話にならないだろう。
 こっちとしても成り行きでこんな事になってるし、断られてもそれはそれで構わない、と、真剣には考えていない。
 テーブルに置かれたティーカップからはダージリンの香りが仄かに立ち上っている。綺麗な色が出ていて、多分葉っぱから入れてくれたもの。
 折角だから手を付けたほうがいいのか。
 何となく躊躇しながら、受け答えしていた。

「ああ、よろしかったらどうぞ。冷めてしまいますから」

 すると自分もカップを取り上げながら、あたしに勧めてくれる。
 よく気のつくひと。
 それもさり気なく。
 たとえば。
 笑ってても嘘くさい人はすぐ判るし、だいたい目に反映されてる。好意だとか侮蔑だとか。
 短大卒で今の会社に就職。6年もいれば相手を嗅ぎ分ける本能ぐらいは身に付くものだ。
 目の前のこのひとは。・・・濁った感じはしない。
 言葉遣いも笑顔もナチュラルで。 
 お店の中は見回せば、古書店と言うよりは図書館の趣だった。
 表からは普通の二階建てに見えた。
 中に入って少し、・・・かなり驚いた。
 天井まで吹き抜けになっていて開放感があり中二階、つまりロフトのような造りで、書棚は上段下段とも六、七列ぐらいづつ並んでいる。

 あたしが通されたのは入り口からすぐ右手のホールで、今座っている円卓席と同じものがあと二組。
 上から吊り下げられたシーリングファン付きのシャンデリアと言い、まるで図書館に併設した喫茶室にいるかのよう。
 床材は花梨か何かで、暗褐色の落ち着いた色調がクラシカルな雰囲気を醸している。
 そして、その空気に溶け込んで違和感の無いひと。
 清潔感のある髪型、端正な顔立ち。
 紳士服店の折込チラシでモデルでもやっていそうな。
 白のドレスシャツの首許にスカーフなんて、普通なら気取ってそうだけれど品良く見える。・・・贔屓目かな、ずい分。

「本はお好きですか」

 低めの、少し鼻に掛かったような聴き心地のいい声。
 
「・・・子供の頃から読むのは好きです。今は漫画とか小説ぐらいですけど」

 なにか言わなくてもいいことまで喋ってる自分。

「古書はちょっと興味無かったので、初めてです、お店に入ったのも」

 苦笑い気味に、正直に。

「専門書が多いですしね。普通は足が遠のいて当然です。でも・・・もし良かったら手伝っていただけませんか。OLなさってる乃宮さんでしたら、電話応対などもお任せできるでしょうし、都合のつく時だけで構いません。何より丸っきり本に関心のない方にお願いするよりは、僕も落ち着くんですが」

 古書には古書の価値があり、単なる物扱いは避けたいのだと淡く笑みを浮かべてる。
 ・・・どうしようかな。
 心が揺れ動いてる。
 仕事自体はきっと、問題ないだろうと思う。
 ただ。

「日曜はわりとお客様もいらっしゃるので、助かります」

 ・・・懸案事項クリア。
 二人きりは、どう考えても気まずいと思ったから。

「空いてる日だけで本当に宜しいんですか・・・?」

「こんな小さい店ですから、きちんとしたパートさんを雇う程でも無いですし、猫の手を借りる程度の雑用を手伝わせてしまうようで申し訳ないんですが」





 その答えを聞いて、決めてしまったんだっけ・・・。 
 どんな猫の手のつもりだったんだか。

『いい娘だね。・・・リツ』

『・・・かな、え・・・。ぁ、・・・んっ・・・』

『さあ・・・〝仕事〟の時間だ。大丈夫、僕はいつでも君のそばにいる。・・・安心して啼きなさい。・・・いつものように』

 闇の中。叶が耳許に囁く魔法の呪文。
 足の間に這う指に、躰ごと融かされながら。
 ここからがあたしの・・・、ほんとうのお仕事。
 
 〝お客様・・・、ようこそ人形堂へ〟
 遠くに響く叶の声。

『今宵一夜限りの・・・虚夢(ゆめ)をどうぞお愉しみ下さい・・・』  




 
「では来週、お待ちしています」

 丁寧に外まであたしを見送り、最後についでのようにそのひとは、

「僕は叶(かなえ)、と言います。これから宜しくお願いしますね、乃宮さん」

と、柔らかに笑った。





 仕事は本当に簡単なことで、在庫問い合わせのメールチェックとか本の発送とか、電話の取次ぎも会社での仕事とほぼ一緒。
 あとは書棚の本を一冊一冊、状態を確認しながら埃取りをしたりだとか。
 叶さんは、あたしのやりやすい様にやってくれたらいい、と基本的な事だけを教え、たまにアドバイスをくれるぐらいだ。
 好きな時間に来ていいと言われタイムカードも無い。お給料に至っては時給でも日給でも無く、一回の出勤につき七千円という手当制。
 交通費込みだと言われても、アパートから歩いても大したこと無い距離を自転車で来てる訳だし。
 とりあえず貰う金額に見合うだけの仕事はしようと、日曜の朝11時の開店から夕方6時の閉店まで、あたしは紙宝堂で過ごすようになっていた。