からかうでもなく、まして呆れるでもない。
恐いくらいの、まっすぐで真摯な瞳が私を見つめ返す。
それが、私にとって吉凶どちらの領域のモノなのかは分からない。
でも今課長は、何か大切なことを言おうとしている。そんな気がした。
「谷田部課長?」
不安に駆られた私が名を呼ぶと、課長は、少し苦笑気味に口の端を上げた。
「すっかり、『谷田部課長』ってのが板についてしまったな。まあ昔も、『榊先輩』ってのが、なかなか抜けなかった気がするが」
「あ、え……っと」
――名前で、呼んで欲しいのかな?
でも、アレにはかなりの気合いと勢いが必要で、今の私には、どちらも少しばかり足りていない。
それに、名前で呼ぶと、気持ちまで昔に引き戻されて錯覚しそうになる。
この人が、自分の恋人だって。
たかが名前を呼ぶだけ。
だけど、それを無制限に自分に許したら、少しでもボーダーラインを下げたら、きっと『もっともっと』と欲が出てしまう。
それが分かっているから、名前を呼べない。
この人は、私の恋人だった『榊東悟』じゃなく、ただの上司の『谷田部課長』なんだから。
幾度となく繰り返された自問に、出る答えはいつも同じ。
私には、今の立ち位置から飛び出す勇気なんかない。
結局、私はこの場所から一歩も出られない。
それは誰のせいでもなく、自分のこだわりと弱さゆえだ。