「……ほう、プライベートね」
低い声音に少しばかり漂う、不穏な空気。
――もう、これくらいでいいだろう。
この辺が、本当に引き時だ。
蛇が本気を出して鎌首をもたげないうちに、いたいけなカエルは、さっさと逃げ出すにかぎる。
わざとらしく、チラリと腕時計に視線を走らせれば、時計の針はもう夜の八時を回っていた。
美加ちゃん、この時間なら、まだ残業しているな。
美加ちゃんの顔を思い浮かべたとたんに、戻ってくる日常性に、自然な笑みがこぼれる。
ほっとしたら、なんだか急にお腹がすいてきた。
美加ちゃんへの差し入れのスイーツと、自分用のコンビニ弁当でも買って帰ろう。
「お話がそれだけなら、そろそろ、失礼させていただきますね」
ハンドバックを小脇に抱えて、いそいそとソファーから立ち上がる算段をしつつ言えば、彼は腕組みをして、こちらを睨んだ。
「いくら欲しい?」
重低音の声が、床を這う。
「……は?」
イクラが、なに?
ひどく聞きなれないフレーズを聞いた気がして、小首を傾げる。
「いくら払えば、東悟とヨリを戻すと、聞いている」
聞き違いではなかったらしい。
課長の過去話を暴露して気持ちを揺さぶる作戦が失敗したら、今度はお金で懐柔する作戦で攻めてくる。
腹が立つよりもむしろ、呆れてしまう。