「まあ、少し設計をかじったくらいだけどね」
「えっ!? 設計って、……まさか建築士の資格、持ってたりするんですか?」
「ああ、ちょっと必要に迫られて一級建築士を取った――というか、会社で取らされたんだ。ペーパー建築士だけどね。でも、こういう設計図から加工図をおこすと言うのは、正真正銘初めてだよ。けっこう、面白いものだね」
うひゃー。これは、真面目にビックリだ。
大手ゼネコンの監督なんかでも、持っているのはほとんど『二級建築士』の免許止まり。
『一級建築士』っていったら、設計士の先生よ。
はっきり言って、鉄骨の加工図書くのに必要な資格じゃない。
っていうか、思いっきり宝の持ち腐れじゃない。
なんで、この人、この会社に来たんだろう?
と、気持ちよく紙の上を滑っていくシャープペンの芯と、それを操る長い指先に見ほれていたら、不意に視線が合って思わず呼吸停止。
「と、ここの収まりもこれで良いのかな?」
ん?
と、伺うような瞳に見詰められて、またドキドキと鼓動が跳ね回る。
「え、あ、はいっ! バッチリOKですっ」
ああ誰か。
このイカレタ脳みそを、何とかしてください……。
切なる願いは、誰にも聞き届けられることはなく。
就業時間も終わった午後七時。私は、ますます困った状況に陥っていた。
「それでは、谷田部、新・工務課課長の着任を祝って、乾杯ーっ!」
こういうシーンでは断然張り切りモード全開になる美加ちゃんの音頭で、近所の和食料亭において、めでたく谷田部課長の歓迎会が執り行われていた。
今日は花の金曜日。おまけに、気前が良いことに会費は全額会社持ち。
これで盛り上がらない訳がない!
私だって、こういうお祭り騒ぎは嫌いじゃない。
職場の仲間とわいわい楽しくお酒を酌み交わす。おおいにけっこう、大歓迎!
だけど、このポジションはどうよ?
「さあさあ、梓センパイ! 谷田部課長も、どんどん飲んでくださいよー。帰りのタクシー代も出ますから、思う存分本性だしちゃってOKですよ! まずはビールビール!」
本性って、美加ちゃん。どんな本性よ?
とばかりに、人聞きの悪いことを言う美加ちゃんに半眼でジト目を送るけど、正直なところ、私の全神経は左側面に集中している。
なぜなら、『私の左隣』には、実に人当たりが良いニコニコ笑顔を浮かべている、新任課長様が鎮座されているからだ。
そう。
よりによって『私の隣』。
補佐役の私は、『課長のお隣』。
何だか、瞬く間に工務課内でそう言う暗黙の了解が出来てしまったみたいで、当たり前のように私の席は課長の隣に用意されていた。
なるべく課長から遠く離れて、こっそり影を薄ーくして目立たないでいようと言う私の企みは、かくも儚く砕け散ったのだった。
それにしても。
これって、拷問に近いんですけど?
「高橋さん――」
「は、はいっ、なんでしょう」
「君には、当分面倒をかけてしまうが、改めてよろしく頼みます」
って、課長は柔らかい笑みを浮かべて、ビール瓶を差し出した。
今日は、お酒を控えよう。
そう思っていたけど、社会人として、これを断る訳にはいかない。
そもそも、部下の私の方が先にお酌してしかるべきなのだ。
「いいえ、こちらこそ。まだまだ未熟者ですが、私に出来ることでしたら、なんでも言いつけてください」
ニコリ。
ちょっと引きつり気味の笑顔を作ってみたけど、成功しているか甚だ怪しい。
「ビールで良いですか? 後は、日本酒とウイスキーもありますけど」
「そうだな、じゃあ、薄目の水割りを貰おうかな」
「はい、水割りですね」
思えば、東悟と付き合っていた頃、私はまだ十八、九歳で。
缶ビールを美味しそうに飲んでいる東悟の傍らで、いつもオレンジジュースを飲んでたっけ。
悪戯心で舐めたビールの、ほろ苦い味。
こんな苦いモノをどうして『美味しい』というのか、不思議だったけど。今じゃ、その味も分かるようになった。
「はい、どうぞ。良かったら、食べて」
ビールをちびちび舐めながら遠い昔に思いを馳せていたら、低い囁き声と共に隣からスッと大きな手が伸びてきて、白い小鉢を私のお膳に置いてすぐに引っ込んだ。
私の好きな、『ホウレンソウのゴマ和え』。
ああ、もう。
こういうことするのか、このお人は。
火に油を注がないでよ。
胸の奥でくすぶり続けていた埋み火が、にわかに熱を帯びていく。
その温度を下げようと、思わず私はビールを飲み干した。
「おお~、梓センパイ、さすがに酒豪! 良い飲みっぷりっ!」
誰が、酒豪だ人聞きの悪い。
景気のいい美加ちゃんの声とともに、空になったコップに、再び黄金色の液体が満たされる。それは実に魅惑的に、私の目には映った。
……まあ、いいか。今日ぐらい。
楽しくお酒を飲んだって、許されるわよね?
なんて思ったのが、そもそもの間違いだったのかもしれない。
否。
大きな、間違いだった――。
全部忘れて、飲んじゃおう! と、調子に乗ったのがいけなかった。
久々の、ビール・日本酒・ウイスキーのチャンポンは、浮かれた脳細胞にやたらと効いて効いて、効きまくり――。
歓迎会がお開きになるころには、私は、ここ最近になく『酔っぱらって』しまっていた。
それも、あまり良い酔い方じゃない。
はっきり言って悪酔いだ。
「……うえっぷ。きぼじばるい……」
うわぁ、トイレの床と天井が、グルグル回ってる。
いくら何でも飲みすぎだわ、こりゃあ。腰が立たないぞ。
「はぁっ……」
洗面台の前で床にしゃがみ込んだまま立てなくなってしまった私は、酔いの回った頭でひとり、反省モードに突入していた。
いくら隣に課長がいてテンパっているからって、何、やってるんだか。
ああ、私って……。
「相変わらず、要領の悪いヤツ」
背後から聞こえてきた声に、アルコールで既にフル回転状態だった鼓動が大きく跳ねまわり、ただでさえズキンズキンしているこめかみに、更に負荷をかけていく。
ああ、うるさい。
もう、いい加減に慣れても良いのに、この心臓め。
低い声音には、あの頃と同じ響きがあった。
からかいと。
そして、そこに垣間見える優しさ。
なんで、こんな所に顔を出す?
下腹にぐっと力を込めて、私は、何とか立ち上がった。
「あによ。二十八歳の大人の女を捕まえて、その言いぐさはないんじゃない? 私は、もう、アンタが知ってる、十八歳の女の子じゃないんらから!」
若干、ろれつの回らない言葉でそう言い放ち振り返る視線の先には、東悟の真っ直ぐな瞳。
谷田部課長じゃなく、大好きだった『東悟』の真っ直ぐな瞳。
そこには、社交辞令の笑顔は張り付いていない。
「大人ってのは、自分の酒量限度を知っている人間を指して言うモノだと思うね、俺は」
「……嫌いよ」
ああ、これはきっと、飲み過ぎたアルコールのせい。
じゃなきゃ、仮にも上司に対してこんなセリフは吐けやしない。
「知ってた? 私……、アンタなんて、大っ嫌いっ!」
今まで必死に押さえていた危うい理性という名の『タガ』は、いとも簡単にすっ飛んで、剥き出しの感情が口から溢れ出していく。
酷いことを言っている。そう言う自覚はあるけど、一度口から飛び出してしまった言葉は、もうどうしようもない。
たぶん、私は彼を怒らせたいんだ。
大人ぶった『谷田部課長』の仮面をはぎ取って、あの頃の東悟に戻って欲しい。
そう、心の何処かで思っている。
なのに東悟は、怒るでもなく、悲しむでもなく、ただ私を見詰めている。
くだを巻く私を、ただ真っ直ぐな眼差しを向けて見詰めている。
なによ。
なにか、言いなさいよ、この薄情男!
今まで聞きたくても聞けないでいた、あの時の失踪理由。
とっくりと、聞いてやろうじゃないの。
あの後、私がどんな思いであなたを捜したか。
理由さえ言ってくれれば、思い切れたかも知れないのに。
それさえもなく姿を消すとは、なんて悪行三昧。
この、人でなしっ!
この際だから、一切合切ぶちまけてやるうっ!
と力いっぱい睨み付けていたら、あまりに変な力が入ったのが原因か、急に鳩尾の辺りから酸っぱいモノが込み上げてきた。
「うっぷ……」
ヤバイ……吐きそうっ。
べ、便器プリーズ!!
いくら酔っぱらっていても『洗面台で吐くわけにゃいかない』と妙な理性が働き、口を両手で押さえてトイレに行こうとするけど、体が思うように動かない。
一歩、足を踏み出した所で、ぐるんと世界が一回転した。
首筋の辺りから、すぅっと一気に血の気が引いていく。
ああ、もうダメかも。
ここで床に頭を打ち付けて、ゲロにまみれて死ぬんだわ、きっと。
高橋梓、享年二十八歳。
新任課長の歓迎会にて、事故死。
そう、朦朧とした意識の下で、覚悟した。
なのに。
いつになっても、頭の痛みも、冷たい床の感触も伝わってこない。
あれ?
もう、既にあの世行き?
それにしては、フワフワと心地が良い。
そうか、これが天国というヤツかも……。
「やだ、梓センパイどうしたんですか!?」
あれ、美加ちゃんの声がする。
ゴメンね。
美加ちゃんが幹事の歓迎会で、迷惑かけてゴメンね。
「少し、悪酔いしたみたいだから、このまま送っていくよ。どうせ、同じ方角だからね」
ん? なんで東悟の声がするんだ?
あの史上最大の薄情野郎は、理由も告げずに私を捨てて行って、何処に居るのか分からないのに。
「そうですか? じゃあ、よろしくお願いします、谷田部課長」
谷田部課長?
誰だっけ、それ?
すうっと意識が遠のいて、次に気が付いたのは、タクシーの中だった。
体に伝わる、微かな振動音。
窓の外には、半分眠りに就いた夜の町が、ゆっくりと流れ去っていく。
そして。頭の下には、『誰かさん』の広い肩――。
背広越しに感じる微かな体温は、妙に温かくて、急に鼻の奥に熱いモノが込み上げてきてしまう。
「っ……」
一生懸命、押しとどめようとするけど、無駄な抵抗で。
ポロポロと、後から後から溢れ出す涙。
泣き上戸じゃなかったはずなのに。
涙が止まらない。
この肩の温もりを、体温を、愛おしいと思う自分に気付いてしまったから。
涙が止まらない。
「俺の前で、あまり無理をするな……」
優しい囁きと共に、そっと触れた彼の指先が、頬を伝う涙を拭っていく。
お願い。
優しくしないで。
私に、あなたを好きでいてもいいって思わせないで。
私は、もう嫌なの。
あの時みたいに、
自分の半身が裂かれるような、あんな思いをするは嫌なのよ――。
――懐かしい、夢を見た。
薄闇の中、目を開けると、東悟がいた。
焦がれて、焦がれて。
心が壊れるんじゃないかと思うほど、恋焦がれて。
それでも。
会うことが叶わなかった、愛おしい人が、目の前にいた――。
でも、何だか違う。
私が知っている東悟とは、何かが違う。
急に不安に駆られて、私は両手を伸ばした。
「東……悟?」
何が、違うんだろう?
ああ。髪だ。前髪が、違う。
私は、伸ばした両の手で、セットしてある東悟の前髪を『くしゃくしゃ』っとかき回した。
額に、バラバラと前髪が落ちかかり、私の知っている東悟が顔を出す。
ああ。
「東悟だぁ」
会いたかった。
ずうっと、会いたかった。
その真っ直ぐな瞳で、見詰めて欲しかった。
優しい声で、名前を呼んで欲しかった。
温かい大きな手で、抱きしめて欲しかった。
やっと、会えた。なのに。
なぜ、そんな顔をするの?