【ワケあり上司の愛し方】~運命の恋をもう一度~



 だーかーらーっ。

 そんな風に笑わないでって、昨夜も言ったでしょうが!

「し、心配しますよ、そりゃあ。大切な上司ですから!」

 まさか、わざとやってるんじゃないでしょうね?

「大切な、上司――と、思ってもらえているわけか」

「もちろんです!」

 以心伝心。

 目は口ほどに物を言う。

 嬉しそうに目元をほころばせる課長を見ていたら、なんだかこっちまで嬉しくなる。

 ああ、私って、なんて単純。
 
 いくら本人が『平気だから』と言っても、さすがに発熱中の病人を一人で部屋に戻すのは気が引けるので、一緒にお供をすることにした。

 ホテル住まいって、どんな感じなんだろう? と、その生活ぶりに少し興味がわいてしまう。

 昔、付き合っていた頃の彼の部屋は、モノトーンのシンプルなものだった。

 女の自分から見れば味気なさを感じる色味の無いその部屋を始めて訪れたときの、新鮮な驚き。胸のトキメキ。

 甘酸っぱい思い出が、鮮やかに蘇る。

 今も、あんな感じなのだろうか?

 でも、ホテルだから、『自分の好みに模様替え』というわけにはいかないか。

 それにしても、そもそも、なんでホテル?

 などと一人、とりとめもない脳内妄想に浸りながらエレベーターに乗り込んだとき、課長がおもむろに口を開いた。




「ところで、高橋さん――」

「は、はい?」

 にっこりと。

 若干覇気はないものの、いつもの営業スマイルを浮かべた課長の表情に、なにか不穏な空気を察知して、思わず浮かべた笑顔が引きつってしまう。 

 エレベーターは、鬼門だ。

「寝汗をかいて、かなり気持ち悪いから、シャワーを浴びたいんだが」

 課長は、白いワイシャツの胸元をつまんで、パタパタと振って眉根に皺を寄せてみせる。

 な、なんだ。そんなことか。そりゃあ、もちろん。

「だめです」

 ニッコリと全否定。

 気持ちはわかるけど、今の状態でシャワーなんて言語道断だ。

 さらに熱が上がりかねない。

 それに、私だってシャワー浴びてないんだから課長だけずるい。

 なんて、本音は言えないけど。

「十分ですむから。ほら、病院にいくなら、清潔にしないと」

「熱が高いんですから、シャワーなんてだめです」

「じゃあ、五分で」

「着替えだけにしてくださいね」

 にっこり、課長の十八番(おはこ)の営業スマイルを真似てみたら、ご本家様は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。

「怖いよ、その笑顔」

 それは、お互い様です。

「と言うことで、病院の診療時間があるので、急ぎましょうね」




 大げさに溜息をつく課長の、尚も『シャワーを浴びたいんだモード』の全開放出をニッコリ無視したところで、エレベーターが止まった。

 辿り着いたのは、最上階の十五階。

 大理石調の、もしかしたら本物? かもしれないオフホワイトの艶やかなタイル敷きの広い廊下には、木製の、素人目にもかなり高価そうかつ重厚なダークブラウンの扉が左右対称で二つあった。

 その一つ、向かって左側の部屋の入り口に付けられている暗証番号用だろう十センチ四方ほどの数字の並んだ電卓状の端末に、課長は何やら入力している。

 澱みない一連の動作を、呆然と見つめる。

 ホテルの構造にはあまり詳しくないけど、これはもしや、『ペントハウス』とか言うものじゃないのだろうか?

 滞在用のキッチンスペースやランドリーを備えた高級居住スペース。

 もちろん、私はその存在を漠然と知っているだけで、実物を見たことはない。

 谷田部課長は、そんな場所に住んでいる。

 ううん、住むことが出来る人種。

 私の日常からは縁遠い、ハイソ・ザ・ワールド。

 彼は、そんな世界の住人なのだ。

 二人の間には、高くて分厚い壁が立ちはだかっている。

 例の『遊園地婚約者候補嬢鉢合わせ事件』のときに感じた、そんな隔絶感が輪をかけて襲ってきた。

「高橋さん?」

 ズーーーン、と。

 ネガティブ思考であやうくその場に穴を掘りかけたとき、既に開錠し終えた課長から名を呼ばれ、はっと我に返った。

「あ、はい」

 いけない。

 今は、課長の保険証を取りに来たんだっけ。

「保険証か……」

 課長も本来の目的を忘れていないようで、口の中でボソボソと呟きながら、やたらと広い玄関スペースとやはり広めの通路を抜けて続く部屋の中へ入っていく。

「確か、リビングボードの一番上の引き出しに入れてあったはずだが……」

「おじゃましまーす」

 先を行く課長の背中越しにぺこりと会釈して、部屋に一歩足を踏み入れ視線を上げた次の瞬間、思わず目を見張った。

 うわ。

 なにこれっ?




 人間の想像力というものには、限界がある。

 しょせん、自分が見聞きした情報をもとに『こんなかんじだろう』と予想をするに過ぎないのだから、おのずと限界があるのだと思う。

 目の前に広がるのは、私の想像を遥かに越えた、ひたすら広くてゴージャス&リッチな居住空間だった。

 東側全面に取られた開口部には、品のいいライトベージュのカーテンに覆われたオーダーメイド・サイズの大きなはき出し窓。

 カーテンの隙間から覗くのは、私の部屋よりも遥かに広いベランダスペース。

 階下には、どこかのんびりとした市街地の昼下がりの風景が、ゆったりと広がっている。

 オフホワイトのおしゃれなガーデンテーブルセットでは、余裕でバーベキューパーティーが開けそうだし、夏の夜に夜景を眺めながらキーンと冷えたビールなんて飲んだら最高だろう。

 部屋の中に視線を巡らせればまず目にとまるのは、ライト・オークの重厚な家具類。けっして華美ではないけれど、上品で機能的なその設えには、思わず『よっ、職人技!』と賞賛を贈りたくなる。

 部屋の中央に配された、応接セット。

 壁際にずらりと配されたリビングボード。

 リビングボードの中央には、何インチなのだろう?

 家のテレビとは、象とアリくらいにサイズの差を感じてしまう、巨大なテレビモニターが、どんと鎮座している。どれをとっても、溜息が出そうなくらいに、ゴージャス&リッチ。

 でも、生活感がなくて、なんだか――。


「味気ない部屋だろう?」

 まるで心を読んだみたいに、部屋の入り口で呆然と立ち尽くしている私に、課長の苦笑交じりの声が飛んできた。

「え……、そんなことないですよ? 私の部屋なんかと違って広くて素敵だなぁって」

 心情を図星されて、思わず挙動不審になってしまう。

 そんな私の様子を見た課長は、愉快そうに口の端を上げた。

「味気ないなぁって、顔に書いてあるよ?」

「ないですよ!」

 否定しつつ、思わず手のひらで顔を撫でて確認してしまう。

「書いてあっただろう?」

「ありません!」

 なんですか、そのエスパーみたいな観察眼は?

 逃げるように、ちらりと腕時計に視線を走らせれば、時は既に午前十一時十五分。

 やばい、病院にいくんだった。

 これ以上時間をくったら、午前中の受付時間に間に合わなくなる。

「課長。私をからかって遊んでないで、保険証探してくださいね!」

「了解、了解」

 クスクスと笑いながら、課長が壁際のリビングボードの方へ歩み寄ったときだった。

 プルル、プルル――と、リビングボードの上の白い電話機が、着信音を上げた。



 電話は、フロントからの内線電話だったようだ。

「俺に、客……?」

 昨夜は留守にしていたこと、今からまたすぐに出かけることなどを簡単に説明した課長は、相手の言葉に耳を傾けながら、訝しげに眉根を寄せた。

「今、フロントに来ているのか?」

 どうやら、課長に来客があるらしい。

風間(かざま)――。ああ、間違いなく知り合いだ。わかった、部屋に通してくれ」

 相手は、風間さんという課長の知人で、今から部屋に来る。と言うことは……。

「悪い、高橋さん。今から客が来るんで、病院は後回しになってしまうな……」

 受話器を電話機に戻した課長は、申し訳なさそうに肩をすくめた。

「大丈夫ですよ。今日は平日ですから、午後も普通に病院は、やってます」

「えーと。これ以上、君に迷惑をかけるわけにはいかないから、今日は、見合わせるってことで……」

 明日になったら、『もう大分良くなった』とかなんとか言って、ぜったい行かないにきまってる。腐っても『元カノ』、そのくらいの行動パターンは、予想がつく。

「私なら気にしないでください。車の中ででも待ってますから。御用がすんだら来て下さい」

「いや……。それじゃ、申し訳ないから」

 鼻の頭を人差し指でポリポリとかく課長の心底困ったような表情を見て、あることに思い至ってギクリとする。

 もしかして、来訪者は『今カノ』、あの『ですわ』の婚約者候補嬢……とか?

 なら、課長の困った様子も納得がいく。




 うげげっ!

 だったらこの状況はやばい、やばすぎるっ。

 いくら会社の上司と部下でしかない関係でも、平日のこんな時間に部屋に二人きりでいるところを見られたら、ぜったい変な誤解をされてしまう。

 たとえ客人が婚約者候補嬢じゃなくても、課長の知り合いに変な誤解をされたくはない。相手が部屋に来る前に、退散しなきゃ。

「あ、じゃ、そういうことで、私は車で待ってますんで!」

 泡を食ってハンドバックを抱え、くるりと入り口ドアの方へ体を向けたが、時既に遅し。

 ピンポーン!

 ピンポーン、ピンポーン!

 玄関のチャイムがせわしなく三連打。

 は、早っ!?

 まるで、相手の苛立ちが乗り移ったかのようなその響きに、私は思わず、全身金縛りに陥った。

「ったく、せっかちだな……」

 ピンポーン!

 ピンポーン、ピンポーン!

 反応がないことに大激怒。

 更に鳴り響くチャイムにせかされるように、ため息混じりの呟きをもらしつつ、私の横を通りすぎようとした課長の腕をはっしと掴む。

「か、課長!」

「どうした?」

「私、どこかに隠れた方がいいですよね!?」

 これだけの豪華な設備の部屋だから防音対策も万全だろうけど、念のため小声でまくし立てると、課長は意味がわからないように目を瞬かせた。

「え……、どうして?」

 どうしてって、あなた。

「だって、こんな時間に私と二人っきりで部屋にいたら、お客様に誤解されちゃいますよ!」

 ぱちぱちぱち、と。私の言葉の意味を咀嚼するようにゆっくり瞬きしたあと、課長は思いっきり噴出した。そのまま苦しそうに、お腹を押さえて笑っている。

「なんで笑うんですか? 変な誤解されてもいいんですか!」

「ほんっと、君といると、飽きないな」


 

 なによ、それ?

 私は携帯お笑い芸人ですか?

 人の心配を、腹を抱えて笑うとはなんてヤツ!

 若干ぶすくれていると、サラリと前髪を撫でられて、ぎょっと身を縮める。

「課長っ」

「別に、誤解されても構わないよ」

 あなたは構わなくても、私は構うんですっ!!

 私の慌てっぷりなど意に介さないように、くるりと背を向け、玄関ドアの方へ歩み寄る課長の後ろで、私は最後の抵抗を試みた。

 言ってだめなら、行動あるのみ。

 隠れてしまえば、こっちのもの。

 ハンドバックを胸にかき抱き、私は部屋の中をグルリと見渡した。

 ベランダは、丸見えだからNG!

 トイレは、お客様が使うかもしれないからNG!

 残る選択肢は、玄関ドアから対面にあるもう一つのドアの向こう側。

 ここだっ!

 動き出してから、瞬時にこれだけのことを、ほとんど脊髄反射のように考えた私は、目的地に突進した。

 ドアノブを引っ掴み、ガチャリと扉を押し開く。半開きになったドアの隙間から目に飛び込んできたのは、部屋の真ん中にドーンと鎮座した、やたらとでかいサイズのベット。

――げげっ。

 ここ、課長の寝室!?

 一瞬、入るのをためらったのがイケナイ。

 そもそもどう見積もっても、タイミング的に私が隣の部屋に飛び込む時間より、課長が玄関ドアを開ける時間の方が早いわけで。

「あれ? 高橋梓――さん?」

 客人の笑いを含んだ声に背中を叩かれ、私は半開きのドアのノブを力いっぱい掴んだまま、ピキンと動きを止めた。

 フルネームで呼ばれた割に、その声にはまったく聞き覚えが無い。

「なんだ、こんな時間に二人揃って仕事をサボって、お取りこみ中だった?」

 飛んできた予想通り過ぎる台詞に、背筋を嫌な汗が伝い落ちる。

 私はドアノブを掴んだまま、体をねじって、おそるおそる振り返った。




 玄関ドアの前で谷田部課長と対面している人物は、例の婚約者候補嬢ではなかった。

 濃紺のスーツをきっちりと着込んだ、サラリーマン風の男性で、たぶん、年齢は三十代そこそこ。

 課長ほどではないけれど上背があり、手足が長いひょろっとした痩せぎす体躯の持ち主で、ホワンとした、柔らかな空気を身に纏っている。

 大型の草食獣を思わせるつぶらな瞳と、ひょうきんな小ぶりの丸メガネが、特徴と言えば言えるかもしれない。

 なんとなくキリンを思い出させる、妙に愛嬌のある人物。

 人の良さそうな、どこにでも居るようなサラリーマン。

そんな感じだ。

 どこかで会ったと言われればそんな気もするけど、私の記憶の網にはまったく引っかかってこない。

「見ての通り、じゅうぶん取り込み中だから、用件は手短にしてくれよ、風間」

「心得ていますよ。用件の半分は君の所在確認ですから、もう済みました。後の報告は五分もあればOKです――が、『本当に』取り込み中なのでしたら、出直しましょうか?」

『本当に』のイントネーションに、かなりの皮肉の成分が込められている気がする。

 風間さんに、にこにこと邪気のない笑顔を向けられて、課長は苦笑いを浮かべた。

 見るからに『只今お取込み中』の看板を首から下げた状態の私は、半開きの、寝室のドアノブをつかんで固まったまま、笑顔をひきつらせるしかない。

――こういう場合、なんて挨拶すればいいんだろう?

 こんにちは?

 初めまして?

 いらっしゃいませ?

 ま、間抜けだ……。