昔の恋人時代から今の上司と部下時代まで、私はお酒を飲んで正体を無くしたこの人を見たことはない。
でも、これは、この行動は変だ。変すぎる。
ふだんの彼からは考えられないあまりの異常行動に、そんな嫌な予感が脳裏を掠める。
「梓」
ぎゃーーーーっ!
囁きざま耳朶にキスを落とされ、思わずのけぞった。
こ、これ。
名前を呼んだら、開放してくれるのだろうか!?
更に状況が悪化しそうな気がしないでもない。
で、でもっ、背に腹はかえられないっ!
観念した私は、震える声でその名を呟いた。
「……東悟っ」
「――うん?」
って、聞こえない振りするんじゃない、この上司!
いくら小さな声だったからって、この距離で聞こえないはずはないのに。
訝しげに小首を傾げられて、私は少し開き直った。
「東悟っ」
最初よりは、はっきりした口調で音量アップ。
でも。
「――うん?」
ニッコリ小首を傾げられて、私は完全に開き直った。
「東悟、東悟、東悟、東悟-っ!」
やけっぱちの名前連呼攻撃で、ぜえはあ息が上がってしまった私に向けられる彼の瞳に浮かぶのは、情熱の欠片を宿した、それでいてたとえようもなく柔らかな光。
私は、この瞳をしっている。
九年前、私だけに向けられていた、やさしい瞳。
『キュン』と、
胸の一番奥深い場所で、何かが鳴き声を上げる。
たぶんそれは、忘れてしまった、
ううん、
忘れようとしていた、恋心――。