最初は、工場の一角を仕切って作られている事務所で、順調に打ち合わせをしていたのだそうだ。
美加ちゃんは大木社長と事務所の応接セットのソファーに向かい合って座り、別段何の問題もなく今まで通りに、図面上での注意点などを説明していた。
いつもと違うのは、時間帯。
時計の針はもう、午後八時半。
工場はとっくに終業時間を過ぎて、唯一の社員で社長の弟でもある職人さんも家に帰っている。それに、常に社長の隣りにある奥さんの姿が今日はなかった。
「女房が実家に行ってて、お茶も出せないですまないね」と、大木社長は、冷蔵庫から缶コーヒーを出してくれたりして、和やかに打ち合わせは進み三十分ほど経った頃。
概ね説明をし終えた美加ちゃんは、『それでは、宜しくお願いします』と頭を下げて、帰ろうと立ち上がった。異変が起きたのは、その後だ。
「ねえ、佐藤さん。私は、柔道の有段者なんだよ。とっても強いから、この辺では敵う人はいないんだ」
ソファーから腰を上げた社長が突然、ニコニコ笑顔でそう言い出した。
いきなり脈絡のない話題を振られて訝しく思ったものの、自慢話でもしたいのかな? くらいに思って、「そうなんですか? 凄いんですねぇ」と、ニコニコと応対したのが間違いだったと、美加ちゃんは悔しそうに呟いた。
「そう、色々と凄いんだよ……」
笑いを含んだ低い声と浮かんだ表情を目にした瞬間、美加ちゃんの脳裏に嫌な予感が走った。
ニヤリ――と上がった口の端と、下がった目じり。今までと変わらない人の良い笑顔の中で、その部分だけが違っていた。
――『目』だ。
笑っているはずの目は穏やかさの欠片もなく、ギラギラとした、『欲望』と言う名の醜悪な光が揺れていた。