こんな風に私を思っていてくれたという事実は、とても嬉しい。それこそ涙が出そうなくらいに嬉しい。
だけど、それでも。
「すみません。今はまだ、その人の事を忘れることが出来ないんです。だから、飯島さんとお付き合いすることはできません」
動き続ける観覧者の中に流れる沈黙を破ったのは、静かな、でも私の心臓を鷲掴みにするほどの核心を突いた、飯島さんの言葉だった。
「その人って、谷田部さん……ですよね?」
真っ直ぐに向けられた飯島さんの瞳に、怒りの色は見えない。
違います、と言うのは簡単だ。
嘘をつけばいい。
家庭のある上司に、恋心を抱いているなんて。
仮にも、大口の取引先の会社の人に、言って良いようなことじゃないと分かってるけど。
「はい、そうです……」
私の口からこぼれ出したのは、真実を告げる言葉だった。
彼には、確信に近いものがあったのだろうか。
私の想い人が既婚者である谷田部課長だと聞いても、飯島さんの表情には、さして大きな変化はなかった。
「正直に話してくれて、ありがとう」
と、それまでと変わらない柔らかな笑みを湛えた顔で礼を言われ、なんと反応して良いのか分からず、ただ彼の真っ直ぐに向けられた瞳を見つめ続けることが出来ずに、すうっと、逃げるように足元へ視線を落とした。
心の内に揺れるのは、羞恥心。
私は、自分が嘘を付くのが嫌だっただけ。
ことさら、飯島さんの気持ちを思い遣って真実を話したわけじゃない。
なのに、こんな穏やかな表情で礼を言われたら、罪悪感を覚えずにはいられなくなる。
いっその事、『非常識なヤツ』となじられた方が、自覚している分耐性ががあるし、素直に『ごめんなさい』と謝れて楽だろうと思う。
ああ、恥ずかしい。
二十八年生きて来て、今だかつて、こんなに自分の行動を恥ずかしいと感じたことはなかった。