「そうだな」
まるで憑き物が落ちたように、穏やかな表情を浮かべて。
「困らせて、悪かったな。もうこんなことは二度としないから」
『二度としないから』
待っていたはずのその言葉が、胸の奥に深い傷を穿つ。
答えることが出来ずに俯く私の頭に、すうっと大きな手が乗せられた。
そしてその温もりに宿る、既視感。
それが今日、会社の玄関先で頭に感じた温もりと同じものだと不意に気づく。
『あああれは、気のせいなんかじゃなかったんだ』と、なぜか湧き上がるのは哀しくなるくらいの、安堵感。
「すまなかったな。今日のことは忘れてくれ……」
降りつもる、穏やかな声が、心の奥に眠る琴線を優しく鳴らす。
――本当はね。
本当は一緒に、サバの味噌煮缶で白いご飯を食べたかった。
ビールと酎ハイで乾杯して、柿ピーをつまんで。
今まで、こんなことがあったのだと、
十八歳の女の子だった私も一緒にお酒が飲める大人の女になったのだと、二人でゆっくりと語らいたかった。
でも、きっとそれだけじゃすまなくなる。
そこで止めておけるほどには、まだ私は大人じゃない。
だから――。
「はい……」
口からこぼれ出したのは、それだけで。
『忘れます。だから課長も忘れて下さいね!』と、本当は明るく言いたかった肝心の言葉は、声にはならなかった。