「どうぞ、よろしく――」
動じるふうもなく、男は右手を差し出して、少し鋭さを感じさせる目元を微かに綻ばせた。その姿も声も、私が知っている元恋人『榊東悟』その人に違いはないのに。
ないはずなのに。
内心、混乱の極地で動揺しまくっている私に対する男の表情は至って冷静で、まるで平常心。そこに、『私を知っているそぶり』は、微塵もみられない。
私はますます混乱して、頭一つ分高い位置にあるその男、工務課の新課長・谷田部東悟の顔を呆然と見上げた。
――東悟じゃ、ないの?
本当に、他人の空似なの?
黒い男の瞳には、驚きも、戸惑いも、なんの感情の動きも見られない。
「センパイ? 梓センパイってば、どうしたんですか?」
「あ! いいえ、ごめんなさいっ、なんでもないの。高橋梓です。よろしくお願いします!」
傍らに立つ美加ちゃんの訝しげな声に、ハッと現実に引き戻された私は、一礼してから慌てて差し出されままの男の右手に自分の右手を伸ばした。
そして指先が男の大きな手に触れた瞬間、ドキリと心の奥に震えが走った。
手のひらから伝わってきた、サラサラとした温かい感触。
――手が、覚えている。繋いだ手の感触を、私の手が覚えている。
その私の驚きを感じ取ったのか否か。
長いようで恐らく実際は数秒間くらいだろう握手の最後。一瞬だけ、男は右手にグッと力を込めた後、すうっと私の手を放した。
「じゃあ、まずは工務課に案内して貰えますか、高橋さん?」
ニコリと、男が笑う。
「あ、はい! こちらです、どうぞ」
これが、私のただの思いこみなのか。それともこの男は間違いなく私が知っている東悟で、私だと気付いていて『すっとぼけている』のか。
もしくは、私のことなど忘れ去っているか。
色々な可能性が頭の中をグルグル駆け回り、もう、何が何だか分からない――。