#1

山茶花町に着いたのは、午後6時を過ぎてすぐだった。駅を出る直前、私はじわじわ来る蒸気が目に刺さってくるのを感じながら、ゴーグルを装着した。
山茶花町は、蒸気機関と魔法が普及し、人々の生活や情報通信の基盤となっている、いわば、小さな準インディペンデントタウン。その中央に、僕がこれから行く夕凪荘がある。
駅から夕凪荘まではバスで15分ほどかかると、夕凪荘に住む僕の恋人・夕凪のまどに言われたし、バスならタクシーで向かうより安く住むよとも言われたので、僕はバスを選んだ。
山茶花2丁目で降りると、空はすっかり藍色に暗くなっていたが、すぐ目の前の夕凪荘の入り口の門の上にある明かりのおかげで、何とかインターホンが見えたので、押してみる。
出てきたのは、赤いショートボブなヘアスタイルがチャーミングポイントで、健康的な細身の、メガネの似合う小顔な女性ーー夕凪のまど、その人だった。
「久しぶり。元気だった?」
「うん、元気だったよ。・・・・・・おとぎちゃんは、もう高校3年生ぐらいかな?」
おとぎーー夕凪おとぎは、夕凪のまどの妹にあたる。つまり、今話している僕の彼女の妹さんなのだ。
「そうそう、今じゃ彼氏できたらしくて、しょっちゅう出かけるぐらいよ。でも、帰りはちゃんと、私からの門限の午後7時を守ってるから、健全な恋なんでしょうね」
「へぇ、そうなんだ。まぁ、姉妹揃って美人だしな。そりゃモテるだろうな」
「ふふっ。何言ってるのかしら、柚人ゆずひと さんたら」
さぁ、入って入って。と、夕凪荘の中へ入るよう促されたので、僕はのまどの後ろについて、夕凪姉妹の部屋にお邪魔させてもらった。
夕凪姉妹は5階の502号室に住んでいるらしい。
「ここが私たちの部屋よ。一応、ある程度は片づいてるから、きれいでしょ?」
姉妹の部屋は、リビングにはテレビとそれを下から支える書棚、それから少し離れた位置にあるダイニングテーブルと、椅子が4脚置いてあり、夕凪のまどの部屋も、焦げ茶色のデスクと、その上にーー今はレース地の布で隠されたーーパソコンが一台と、その手前に背もたれ付きの椅子が一脚あるだけで、他に何もなく、クローゼットもきちんと閉じられた、こじんまりとした部屋だ。
こと、おとぎの部屋は本人不在ーーおそらく彼氏と出かけているのだろうーーのため、どんな感じなのかは知らないのだが。
ーーおっと。ここにきて僕は、まだ自分がゴーグルを付けていたのに気づいた。あわてて外すと、のまどに笑われてしまった。
「そこに座って待ってて。今、お茶を出すから」
「ありがとう。麦茶だと嬉しいな」
 今日は天気予報どおり、真夏日でとても暑かったため、何となく麦茶を飲みたくなったのだ。
「麦茶ね。ーーお夕飯も一緒にどうかしら?」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「それじゃ、三人分作るわね。・・・・・・はい、麦茶」
「ありがとう。いただきます」
渇いた喉に、キンキンに良く冷えた麦茶が流れる。夏はやっぱり麦茶が1番美味しい。
「そういえば、仕事は最近どう?」
「私? 私は・・・・・・、今は喫茶店は妹のおとぎに店ごと託して、今は同人活動で稼いでる。元々、人気喫茶店の店長だったし、それなりにお金にはゆとりあるし」
「へぇ、同人活動か。ということは、小説書いたりとかマンガ描いたりとかしてるの?」
「今は小説書くだけで、マンガはお休みしてるけど、近々マンガも復帰する予定よ。ーー柚仁 ゆずひと さんは?」
「俺は今もイタリア料理屋でアルバイトしてるよ」
「ずっと同じ職場で働き続けるって、なかなか大変なことよね。柚仁さんのそういうとこ、えらいし、すごいなぁって思う」
「君だって、5年間喫茶ゆうなぎの店長だったんだから、すごいし、えらいとも思うよ」
二人で微笑み合っていると、おとぎの「ただいま~」という声が聴こえてきた。
のまどがすぐに玄関口へ駆け寄っていった。
「おかえりなさい、おとぎ。今日は柚仁さんが来てるわよ」
「そのようね。ーー柚仁さん、こんばんは~!」
「こんばんは、おとぎちゃん」
おとぎちゃんはのまどと違って、銀髪のサイドアップなヘアスタイルが印象的だ。細身は細身ながら、ちょっと病的な華奢さなのが少し心配なところではあるが。
「今日は大変だったんだよ。副店長がこけちゃってお客様にアイスコーヒーがかかってしまって、そのフォローのために一旦デート中止で、急いでお店に戻ったんだから」
「恋よりお店を優先したところ、やっぱり私の妹だけあって、しっかりしてるわね。ナイス判断よ」
それで、と、のまどが続ける。
「副店長さんに怪我はない?」
「自分のことは何ひとつ言わなくて、ただただお客様に謝って、土下座していたから、聞くに聞けなかったけど、大丈夫そうだったわ」
「そう・・・・・・。なら良いのだけど」
「お客様の服は私が魔力で元通りにしたから、お客さんもあまり怒ってなかったし、むしろ、汚れる前よりきれいになったって、喜んでたぐらいだから、結果的には良かったわ」
「もう、これからはあまり遅くまで彼氏といちゃいちゃできないんじゃないの?」
「そうね。明日副店長と話し合って、私のシフト増やしてもらうわ」
ゴーグルやカーディガンを脱ぎ、Tシャツとジーパン姿のおとぎが一瞬ちらと見えたけど、すぐに浴室の方へ入って行った。
その直後、のまどがこちらに戻ってくる。
「ごめんね、待たせてて。今、用意するから」
のまどはささっとキッチンへ入っていく。


夕凪姉妹ーー夕凪のまどとその妹のおとぎと僕の三人で夕食をすませたあと、僕はのまどの部屋のベッドの上に座っていた。
のまどのパソコンの奥の窓から、三日月が顔を覗かせている。
間もなく、のまどがビールとマグロの刺身が入った小さめの平皿を載せたお盆を持って入ってきた。
「はい、ビールとおつまみよ」
「ありがとう」
「今日は月がきれいね」
「あぁ、そうだな」
僕はくぃっとひとくち飲む。と、止まらず、ぐいぐい飲む。
「そこは、月よりのまどのほうが一段とキレイだよ、でしょ」
「あぁ、すまない。でも、内心ではそう思っているよ」
「ほんっと、柚仁さんのシャイなところは、出会ったときからずっと変わってないわね。そこもまた好きなんだけどね」
ビールのおかわり、持ってくるわね。と、のまどが盆を持って冷蔵庫があるキッチンへ行ってしまうと、僕はつまみのマグロの刺身を食べつつ、携帯を取り出し、のまどの個人ホームページにアクセスし、彼女のこれまで書いてきた小説を読む。
栞を挟んでいたページを開いて、読みふける。
読了する頃には、作者が赤面しながらお盆におかわりのビールと冷やしトマトが切りそろえられた平皿を載せて立っていた。
「ぅおあっ、いつからそこに?」
「今さっきからよ。流石に、目の前で読まれると、何だか気恥ずかしいわね」
「恋人の書いてるものぐらい、彼氏として読んでおきたいと思ってさ。それに、のまどが書いた話、全部面白いし」
「最新作はどう?」
「まだ読んでないけど、タイトルからして面白そうだから、あとで読むよ」
ローテーブルの上に、2杯目のビールと、冷やしトマトが並ぶ。
「今日は、うちに泊まってく?」
「いいの?」
「ダメだったらそもそも聞かないわよ、こんなこと」
「じゃ、1泊だけ」
「お風呂も沸かしてあるわよ。これ飲んだら、入ってきたら? 私はその間にお布団敷いとくわね」
「気が利くね。ありがとう」
その日の夜は、自分の家で寝るよりずっと良い睡眠をとれた。愛のヒーリング効果は偉大だ。