翌朝になって、うとうととした後で目を覚ますと、部屋はもぬけの空だった。

俺はふらふらと立ち上がる。

板の間では、関と葉山が朝飯を食っていた。

「早かったのだな」

「お前が遅いだけだ」

葉山は箸を置いた。

「では関どの、大変世話になった。このご恩は決して忘れぬ」

「いえいえ、大変なお勤め、ご苦労さまでした」

関と葉山は、揃って頭を下げる。

俺は出された膳の箸をとった。

「では、先に失礼する」

葉山はすたすたと、振り返りもせずに出て行った。

俺はその背中を見送る。

関はまだゆっくりと、飯を食べていた。

「あいつは一体、何しに来てたんだ?」

「お仕事ですよ。とても心労の大きな、お役目を引き受けておいでだ」

俺は関を振り返る。

関は白飯を口に運んだ。

「何かしゃべったのか?」

「そりゃあ少しくらいは、話しをしましたよ」

「何を話した」

関はため息をつく。

「ここで私が何を話しても、どうせあなたは納得なさらないでしょう?」

俺はそれには答えず、みそ汁をあおる。

「そうそう、昨夜から気になっていたのですが、あなたから何か、とても不思議なよい香りがします。なんのお香ですか?」

「知らん。で、月星丸の容態はどうだ」

関はため息をつくと、珍しく片肘をついて俺を見上げた。

「全く。あなたのその鈍感さというか、無神経さというか、その思慮と関心のなさには時折呆れます」

その言葉に、俺はムッとする。

「どういう意味だ」

「さぁね。ご自分でお気づきにならない限り、その病も治りませんよ」

「なら放っておけ。馳走になったな!」

俺は食べ終わった椀を、ドンと膳に置いた。

「で、月星丸の容態は!」

「すっかりよくなったようですよ」

「あれだけの怪我をしておいてか」

「えぇ。今朝早くに、私が止めるのも聞かず、ここを出て行きました」

関の顔を見る。

俺は立ち上がった。



全くどいつもこいつも、月星丸に関してだけは薄情すぎる。

そういう俺だって、やっかいな問題に巻き込まれてしまっていることには、重々気づいている。

だけど放っておけないからこうやって走り回っているのだ。

知ってしまった以上、どうして無視出来る?

深手を負った女の体だ。

そう遠くまでは動けまい。

刺客はどうした? 

昨日の今日で、さすがに見張りも立てていなかったか? 

もし医院を一人で抜け出すところを見られていたら、もうお終いだ。

月星丸の足を運びそうなところを考えてみる。

あの楼閣? 万屋? 

だとしたら関の所にいても同じこと。

大体、何故こうもあいつは、いつもいつも逃げ出すのだろうか。

今までどこでどのようにしていたのかは知らんが、元いた場所からも逃げ、河原で斬られかけた時も逃げ、刺されて傷を負った今も、また逃げている。

「逃げてばっかりだな」

逃げる事は悪いことだとは言わぬ。

逃げるが勝ちの場合なんて、幾らでもある。

相手が悪ければ逃げるに限る。

剣を振る者の常識だ。

現に俺だって数多くの敵から逃げおおせた身。それで今がある。

だけどあいつは、月星丸はどうだ。

剣術の腕前どころか、今時読み書きもろくに出来ず、算術にも疎い。

どこかの立派な武家の娘なのだろうが、なぜそのような修練を一つも受けていないのか。

薙刀の一つも振れぬようでは、武士の娘とは言いがたい。

それでもこうして俺が探しているのは、あの娘をどこかで助けてやりたいと思っているからだ。

さもなくば、あの萬平も動くまいて。

そもそも、だからこそ、あいつはこの話を俺のところへ持って来たんだ。

俺や関を救った萬平は、商売一辺倒のようにみえて、情に厚い。

俺は万屋の前に立っていた。

とにかく事情を知っていて、月星丸が立ち寄りそうなところを順に当たっていくしかない。

「やい、萬平! 萬平よ、出て来い!」

勝手知ったる万屋の店先だ。

俺は人目も気にせず大声を出す。

「何ですか、朝からやかましい」

「あんた、今からどこへ行くんだ」

萬平はいつだって小綺麗な格好をしていたが、今日はまた一段と、身だしなみに気を使っている。

「どうにもこうにも、こう見えて私も、日々忙しくしているんですよ」

駕籠屋まで呼んで、お供の小姓にも真新しい着物を着せている。

「月星丸が消えた」

その言葉に、ようやく萬平は足を止めた。

「何を寝ぼけたことをおっしゃっているんでしょうね、このお方は。そんな報告はいりませんよ、さっさと探していらっしゃい」

眉根を寄せてそう言う萬平に、俺もムッとなる。

「探そうにも行き先が分からぬ上に、こうも黙って逃げられてばかりでは、こちらの意欲も削がれるというものだ。なんとかならんのか」

真顔で言ったつもりの俺に向かって、萬平はふっと笑った。

「またそんな冗談をおっしゃって。私は私で、あの方を何とか生かそうと、鏡月楼の藤ノ木さまと手はずを整えているところでございます」

萬平は俺を見上げた。

「藤ノ木さまのお気持ちを変えたのも、月星丸さまのお気持ちを変えたのも、全てあなたご自身の成した技。大丈夫、月星丸さまはどこかであなたが迎えに来てくれるのを、待っておいでです。早く行っておあげなさい」

萬平は大きな包みを抱えて、駕籠に乗った。

「そうそう。関さまのところでかかった治療費と薬代は、あなたの預かり金から差し引いておきましたからね」

にこにこと手を振って、駕籠に乗った萬平はどこかへ行ってしまった。

俺は深く息を吐き出す。

商才があり、人を見る目にだけは長けている奴だ。

おかげでこの俺も、いいように扱われている。

あの萬平が肩入れするだけの理由が、月星丸にはあるのだろう。

「くそっ」

あぁそうですよ。

あんな奴になんか改めて言われなくたって、俺は探しに行きますよ。

なんでこんなことをやってんのか、自分でも分かんねぇけどな!