駆け込んだ関の家の板の間に、月星丸は寝かされた。

刺された鋭利な短剣を引き抜くと、関はその傷口を熱した鉄の棒で焼き、酒を振りかけてからきつくさらしを巻く。

煎じた薬を月星丸に無理矢理飲ませ、手当てを終えると、用意した客間で布団に寝かせた。

「下手人の検討はついているのか」

看病を他の女に任せてから、関は月星丸の体から引き抜いた短剣を俺に差し出した。

「暗殺用に特別にあつらえたような剣だ。弱い力でも簡単に深く突き刺さるような形状に、刃が加工されている」

ひょうたん型のような、その鈍く銀色に光る短剣を見た。

「男だけが犯人とは、限らないということか」

「人混みの中での出来事だ。誰にやられてもおかしくはない」

一体誰が、執拗にあの月星丸の命を狙うのだろう。

特別な恨みをかっているとも思えない。

「すまぬが、あの者を少しの間、預かってはもらえぬか」

関はふっと息を吐く。

「仕方あるまい。目が離せぬ状態のうえに手当ても必要だ。よほど特別な者と思われるが、そなたも素姓を知らぬのか」

「それを今から確かめに行く。本人が何者か分からぬことには、敵方の様子もうかがえぬ」

俺はその短剣を懐にしまうと立ち上がった。

「関、月星丸にはよろしく伝えておいてくれ。暇を見つければ、また顔を出す」

「本人に挨拶はしていかぬのか?」

「あの部屋には、女の数が多すぎる」

関は笑った。

俺は日の傾きかけた通りを全力で駆け抜け、事件現場となった門前町の通りにたどり着いた。

わずか数時間前の喧噪は嘘のように消え去り、閑散とした通りに人影もまばらだ。

葉山の姿を探したが、当然のようにそこにはなく、部下らしき侍の姿も見当たらない。

そういえば、俺はあの葉山の正体も知らないな。

会いたいと思わずとも向こうが勝手に姿を見せる。

どう連絡をとっていいのか、その手段さえ分からない。

万屋か? 

だがあの萬平が簡単に、依頼主の口を割るようには思えぬ。

俺は歩き出した。

やがて日は完全に落ち、あたりはすっかり闇に覆われる。

そういえば、この道は以前にも通ったことがある道だ。

逃げた月星丸を追いかけて、一晩中歩き回った通りだ。

立ち並ぶ家屋の向こうに、ひときわ明るい光の塊を見つける。

昼間は目立たぬその光も、夜の闇の中ではぽっかりと島のように浮かび上がっていた。

花街だ。

俺は何となくそこへ近づく。

そういえば、あの時に葉山から、ここで飲みに行かないかと誘われたな。

その柱のあった場所へ行ってみたが、むろん葉山はいなかった。

「よっ、お兄さん。ちょいと寄って行かないかい?」

客引きに声をかけられる。

女郎小屋の中で、檻に入れられた女どもが、派手な格好で俺に手招きをしている。

ある意味、絶対に手の届かない所にいるから安心だ。

それぞれの小屋の柵の中を、ゆっくりと見て回る。

特に収穫などあるわけ無い。

戻ろう。

そう思い始めた俺の前に現れたのは、萬平だった。

「おや、千之介さま。こんなところでお会いするとは、珍しい」

そう言って、にこりと微笑む。

「……。ちょうどよかった。そなたに話しがある」

「おいでなさい。あなたにも一度、会いたがっておられましたから」

たぬきオヤジに誘われて、俺は仕方なくついていく。

大通りから脇道に入った。

そこから二度、三度と角を曲がると、花街にしては珍しい、見世も台も何もない、質素な建屋の引き戸を引いた。

中に入ったとたん、俺はその光景に目を奪われた。

別天地、という言葉以外に、頭に浮かんでくるものはなかった。

平安時代の、寝殿造りを模したような建物が並んでいる。

庭の池には小川が流れ、浮島には庵が立っている。

しっかりと手入れされた砂利道の左右には、小さな灯りが均一に並べられ、効率よく配置されたかがり火が、庭全体を照らしている。

壁のないひさしの下には、客らしき男どもと女たちが、琴か琵琶でも弾いているのだろうか、微かな音楽の音に乗って、焚かれたお香のよい香りまで漂ってくる。

「何だ、ここは?」

「この世には、様々なところがございます」

萬平は勝手知ったる様子で、さくさくと砂利の上を歩いて行く。

花街の女郎らしい派手さが一切ない、落ち着いた格好をした女が、上から俺を見下ろして微笑んだ。

心拍数が上がる。

草履のまま上がってよいものか、迷うほどつやのある木造の階段を数歩上がる。

これは縁側と呼んでもいいのだろうか? 

板の間から一段高くなったところに、青い畳が引かれている。

萬平がそこで履いていた下駄をぬいで畳に上がったので、俺も同じようにしてついていく。

香のにおいに混じって、煙草の煙が漂い始めた。

萬平が両膝を折って腰を下ろす。

俺はそのすぐ後ろに、どかりとあぐらをかいた。

丁寧に頭を下げた萬平の先には、一人の妖艶な女が座っている。

「おや、萬平どの、そちらのお方は?」

「こちらが千之介さまにございます」

「おぉ、そなたがそうであったか」

女はとたんに、うれしそうな笑みを浮かべた。

キツネが化けたような、歳の頃も分からぬ妖しげな女だ。

バケモノが気の向くままに化け、今はたまたま人間の女のナリをしているだけのような、不思議な感覚がある。

女としての恐怖心を煽られない。

それを上回る狡猾な姿態が、本能的に俺を引き締めさせていた。

「先日も世話になったばかりであったな」

女郎小屋から抜け出すという、二人を見送った仕事を思い出す。

「あの時の?」

「礼を申す」

女は煙草の灰を、ぽんと火鉢に落とした。

この女があの時の真の依頼主というのか。

「して、月星丸の具合はどうだ」

女は萬平に言った。

「この千之介さまがお世話をさせていただいております。ただ……」

「話しは聞いた」

女はふぅと煙草の煙を吐いた。

「こちらの準備も進めてはおるが、こればかりは今日明日というわけにはいかぬ。もう少し、お月の気持ちが落ち着いていてくれればよかったのだが」

「済んだことを申しても、始まりません」

「そうだったな」

女はまた煙草の煙を吐いた。

「萬平どのにはいつも助けられる」

「千之介どの」

女がこちらをのぞき込んだ。

「これからも、月星丸をよろしく頼みますよ」

女が合図を出した。

とたんに用意されていた、いくつもの膳と酒が運ばれてくる。

俺の前にも豪華な膳が置かれ、女が酌を申し出た。

俺はつい、ビクリと体を震わす。

「おぉ、千之介どのは女が苦手であったな。これ、酌を若衆に代われ」

「そんな気遣いは無用だ」

俺は立ち上がった。

こういう宴席は苦手だ。

「すまぬが、月星丸の様子が気になるため、早々に退席させていただこう。この度の歓迎、心より感謝する」

立ち上がった俺を見て、女は笑った。

「少しお待ちを」

引き出しから何かを取りだした。

「これは、わたくしからの、ご武運をお祈りするお守りにございます」

盆に載せられたそれが、俺の前に運ばれてきた。

「どうかこれをお持ちになっていて下さい。ほんの気休めではございますが」

小さな布の袋に、簡単な刺しゅうを施しただけの、白いお守りだった。

「恩に着る」

俺はそれを袂に入れた。

「それでは」

すっと差し出した指先を丁寧に揃えると、女は両手をついて頭を下げた。

その場にいた給仕の者ども全てが、一斉にこちらに向かって頭を下げる。

「またお目にかかれる日を、楽しみにしております」

そのしなやかな身の振る舞いに、この者の本性を見た気がした。

俺はぐっと頭を下げ会釈を返すと、この地を後にした。