翌朝、俺は外の喧噪で目が覚めた。
「千さん、聞いとくれよ!」
勢いよく引き戸を開けて入って来た月星丸の後ろに、見知らぬ女が立っている。
「なんだそいつは」
「立派なブリだろ?」
月星丸は、手にした大物のブリを掲げる。
「これさ、いくらしたと思う?」
「俺はそんな話しを聞いてるんじゃない」
「お初目にお目にかかります」
後ろにいた女が、丁寧に頭を下げた。
「百五十文したんだ、高い? 安い?」
「あぁ?」
女はくすくすと笑う。
「旬の季節でもないのに、そのお値段は高すぎるのではないかと、魚屋に私が掛け合ったのでございます。聞けば、言い値で買い取ってくれる上客が、このあたりにいると聞いて来たとかで」
「なに?」
そういえば、ここ最近の飯はやたら豪華だったな。
俺は小さな物入れの引き出しを開ける。
中にあったはずの金がほとんど消えていた。
「誰だ、こんなに無駄使いしやがったのは!」
「一分金をぱらぱらと撒いて、釣りを受け取らないと、この辺りでは話題になっていたらしいですよ」
俺は頭を抱える。
金の大半は万屋に預けてあるから困りはしないが……。
「お前、金の計算もできねぇのか!」
「金子なんて、本物を見たのは生まれて初めてだ」
「笠を売りに行っただろ!」
「その時はみんな、ちゃんと金を払ってくれたじゃないか」
あぁ、俺も付き添いでいたから、騙そうって奴もいなかったのか。
「釣り銭のもらい方をお教えしたのでございます」
女の言葉に、俺は月星丸をにらみつける。
「お前、もしかして算術も出来ないのか」
月星丸はくるりと女を振り返った。
「お礼と言ってはなんだが、このブリを料理するから、一緒に食っていってくれ」
「まぁ、それはうれしゅうございますこと」
二人は揃って背を向けると、きゃっきゃ、きゃっきゃとわめきながら、飯の支度を始める。
俺は布団から這い出した。
今の一大事は、ブリなんぞのことではない。
この家になぜ女が入ってきたのかということの方が問題なのだ。
脈が速い。
布団をなおして、できるだけ壁に沿い離れて座る。
腕を組み、女の姿を見なくてもすむように目を閉じていても、ややもするとうっかり気を失いそうだ。
ほどなく出汁のよいにおいが漂ってくる。
「千之介さまを、お待たせしてしまっているのではないですか?」
女が振り返る。
歳の頃は俺と変わらないか、少し若いくらいだ。
男装でボロの月星丸と比べると、化粧を施した大人のこの女には、ぐっと色気がある。
俺の最も苦手とする部類だ。
「先に、おみおつけだけでも、お出しいたしましょうか?」
卒倒しそうになるのを何とか堪えて、首だけを横に振る。
叶うことなら今すぐここから出て行ってもらいたい。
息も出来ぬほどの緊張で全身が硬直しているというのに、出された飯がのどを通るわけもない。
月星丸はこの女に心をすっかり許してしまったようだが、俺にとっては迷惑きわまりない話しだ。
食事を始めた二人の前で、腕組みをしてじっとこの時間を耐える。
女は俺の方を気にしているのか、時折ちらちらとこちらを見上げていた。
その度にいちいち心臓が縮こまる。
「千さまは、何かお気に召さないことでもあったのでしょうか?」
「お萩さん、大丈夫だよ。この人はちょっと変わってるんだ」
食べ終わった月星丸が片付けを始めると、お萩も慌てて土間に下りた。
あっという間にきれいに片がつく。
「じゃ、俺はお萩さんを送ってくるから、千さんはさっさとご飯を済ませておいてよね」
月星丸は冷ややかな視線を俺に投げかけておいてから、長屋を出る。
お萩は月星丸の後を追って、ぺこりと頭を下げてから出て行った。
やっと安堵の息をつく。
あいつの連れてきた女のせいで、背中はじっとりと汗で濡れている。
たまらない。
俺は箸を取ると、勢いよく飯をかき込んだ。
お萩を送ってくるとは言ったものの、それからしばらく月星丸は戻って来なかった。
俺は笠を編みながらイライラと帰りを待っている。
どこまで送っていったのだろうか。
行き先を聞いておけばよかった。
俺も一緒に行くという手もあったが、そんなことは今になって思いついたことで、あの瞬間にそんな自殺行為のようなことは頭に浮かびもしない。
ふと葉山の顔が脳裏を横切る。
もしや、今度こそ奴が強引に連れ戻す計画を立てたのかもしれぬ。
帰り道にでも連れ去られたか?
そう思うと、また脈が速くなる。
やはりついていくべきだった。
俺は勢いよく立ち上がった。
その時、ガラリと引き戸が開いて、月星丸が姿を現した。
真っ青な顔でふらふらと土間に入り込むと、そのままドサリと倒れ込む。
「どうした!」
助けおこした瞬間、胃の内容物を吐き出した。
全身が小刻みに震えている。
「誰か! 誰か、医者を頼む!」
口元がおぼつかないのか、焦点の定まらない目でパクパクと口を動かす。
吐いたものが独特の色味を帯びている。
俺は月星丸の口に手を突っ込むと、中のものを全て吐き出させた。
異変を察知した長屋の住人が、すぐに駆けつける。
俺が手を洗っている間に、月星丸は布団に寝かされた。
「患者は?」
呼ばれた医者に事情を聞かれる。
この医者の関という男は、俺と同じように万屋の連れてきた、お抱えの医者だ。
「出かけていた。帰りが遅いと思ったらこれだ」
この症状は、俺も関も嫌というほどよく知っている。
ヒ素だ。
「千さん、万屋へ行ってこの薬をもらってきてくれ」
渡された紙切れを手に走り出す。
萬平の選んだ医者だ、腕は十分に信用出来る。
駆け込んだ万屋の店先で店子に用件を伝えた。
混雑している店の片隅に、葉山が座っていた。
「血相を変えてどうした」
葉山は店で出された湯飲みを片手に、それをすすった。
「そういや、あんたんとこのガキがさっき真っ青な顔で歩いてたぞ。どうした、具合でも悪いのか」
それを俺は、上からにらみつける。
「誰の仕業だ」
「さぁな、俺は歩いてるのを見かけただけだ」
「どの方向から歩いてきた。まさかあんたが仕組んだんじゃねぇだろうな」
「どの口が言う。次に無礼を働いたら、叩き斬るぞ」
丁稚から薬が手渡される。
葉山には聞きたいことが山ほどあったが、今はこの薬を届ける方が先だ。
「話しはあとだ。首を洗って待っておけ!」
長屋に駆けもどる。
関に薬を手渡すと、関はすぐにそれを飲ませた。
月星丸が薄目を開ける。
「千さん、聞いとくれよ!」
勢いよく引き戸を開けて入って来た月星丸の後ろに、見知らぬ女が立っている。
「なんだそいつは」
「立派なブリだろ?」
月星丸は、手にした大物のブリを掲げる。
「これさ、いくらしたと思う?」
「俺はそんな話しを聞いてるんじゃない」
「お初目にお目にかかります」
後ろにいた女が、丁寧に頭を下げた。
「百五十文したんだ、高い? 安い?」
「あぁ?」
女はくすくすと笑う。
「旬の季節でもないのに、そのお値段は高すぎるのではないかと、魚屋に私が掛け合ったのでございます。聞けば、言い値で買い取ってくれる上客が、このあたりにいると聞いて来たとかで」
「なに?」
そういえば、ここ最近の飯はやたら豪華だったな。
俺は小さな物入れの引き出しを開ける。
中にあったはずの金がほとんど消えていた。
「誰だ、こんなに無駄使いしやがったのは!」
「一分金をぱらぱらと撒いて、釣りを受け取らないと、この辺りでは話題になっていたらしいですよ」
俺は頭を抱える。
金の大半は万屋に預けてあるから困りはしないが……。
「お前、金の計算もできねぇのか!」
「金子なんて、本物を見たのは生まれて初めてだ」
「笠を売りに行っただろ!」
「その時はみんな、ちゃんと金を払ってくれたじゃないか」
あぁ、俺も付き添いでいたから、騙そうって奴もいなかったのか。
「釣り銭のもらい方をお教えしたのでございます」
女の言葉に、俺は月星丸をにらみつける。
「お前、もしかして算術も出来ないのか」
月星丸はくるりと女を振り返った。
「お礼と言ってはなんだが、このブリを料理するから、一緒に食っていってくれ」
「まぁ、それはうれしゅうございますこと」
二人は揃って背を向けると、きゃっきゃ、きゃっきゃとわめきながら、飯の支度を始める。
俺は布団から這い出した。
今の一大事は、ブリなんぞのことではない。
この家になぜ女が入ってきたのかということの方が問題なのだ。
脈が速い。
布団をなおして、できるだけ壁に沿い離れて座る。
腕を組み、女の姿を見なくてもすむように目を閉じていても、ややもするとうっかり気を失いそうだ。
ほどなく出汁のよいにおいが漂ってくる。
「千之介さまを、お待たせしてしまっているのではないですか?」
女が振り返る。
歳の頃は俺と変わらないか、少し若いくらいだ。
男装でボロの月星丸と比べると、化粧を施した大人のこの女には、ぐっと色気がある。
俺の最も苦手とする部類だ。
「先に、おみおつけだけでも、お出しいたしましょうか?」
卒倒しそうになるのを何とか堪えて、首だけを横に振る。
叶うことなら今すぐここから出て行ってもらいたい。
息も出来ぬほどの緊張で全身が硬直しているというのに、出された飯がのどを通るわけもない。
月星丸はこの女に心をすっかり許してしまったようだが、俺にとっては迷惑きわまりない話しだ。
食事を始めた二人の前で、腕組みをしてじっとこの時間を耐える。
女は俺の方を気にしているのか、時折ちらちらとこちらを見上げていた。
その度にいちいち心臓が縮こまる。
「千さまは、何かお気に召さないことでもあったのでしょうか?」
「お萩さん、大丈夫だよ。この人はちょっと変わってるんだ」
食べ終わった月星丸が片付けを始めると、お萩も慌てて土間に下りた。
あっという間にきれいに片がつく。
「じゃ、俺はお萩さんを送ってくるから、千さんはさっさとご飯を済ませておいてよね」
月星丸は冷ややかな視線を俺に投げかけておいてから、長屋を出る。
お萩は月星丸の後を追って、ぺこりと頭を下げてから出て行った。
やっと安堵の息をつく。
あいつの連れてきた女のせいで、背中はじっとりと汗で濡れている。
たまらない。
俺は箸を取ると、勢いよく飯をかき込んだ。
お萩を送ってくるとは言ったものの、それからしばらく月星丸は戻って来なかった。
俺は笠を編みながらイライラと帰りを待っている。
どこまで送っていったのだろうか。
行き先を聞いておけばよかった。
俺も一緒に行くという手もあったが、そんなことは今になって思いついたことで、あの瞬間にそんな自殺行為のようなことは頭に浮かびもしない。
ふと葉山の顔が脳裏を横切る。
もしや、今度こそ奴が強引に連れ戻す計画を立てたのかもしれぬ。
帰り道にでも連れ去られたか?
そう思うと、また脈が速くなる。
やはりついていくべきだった。
俺は勢いよく立ち上がった。
その時、ガラリと引き戸が開いて、月星丸が姿を現した。
真っ青な顔でふらふらと土間に入り込むと、そのままドサリと倒れ込む。
「どうした!」
助けおこした瞬間、胃の内容物を吐き出した。
全身が小刻みに震えている。
「誰か! 誰か、医者を頼む!」
口元がおぼつかないのか、焦点の定まらない目でパクパクと口を動かす。
吐いたものが独特の色味を帯びている。
俺は月星丸の口に手を突っ込むと、中のものを全て吐き出させた。
異変を察知した長屋の住人が、すぐに駆けつける。
俺が手を洗っている間に、月星丸は布団に寝かされた。
「患者は?」
呼ばれた医者に事情を聞かれる。
この医者の関という男は、俺と同じように万屋の連れてきた、お抱えの医者だ。
「出かけていた。帰りが遅いと思ったらこれだ」
この症状は、俺も関も嫌というほどよく知っている。
ヒ素だ。
「千さん、万屋へ行ってこの薬をもらってきてくれ」
渡された紙切れを手に走り出す。
萬平の選んだ医者だ、腕は十分に信用出来る。
駆け込んだ万屋の店先で店子に用件を伝えた。
混雑している店の片隅に、葉山が座っていた。
「血相を変えてどうした」
葉山は店で出された湯飲みを片手に、それをすすった。
「そういや、あんたんとこのガキがさっき真っ青な顔で歩いてたぞ。どうした、具合でも悪いのか」
それを俺は、上からにらみつける。
「誰の仕業だ」
「さぁな、俺は歩いてるのを見かけただけだ」
「どの方向から歩いてきた。まさかあんたが仕組んだんじゃねぇだろうな」
「どの口が言う。次に無礼を働いたら、叩き斬るぞ」
丁稚から薬が手渡される。
葉山には聞きたいことが山ほどあったが、今はこの薬を届ける方が先だ。
「話しはあとだ。首を洗って待っておけ!」
長屋に駆けもどる。
関に薬を手渡すと、関はすぐにそれを飲ませた。
月星丸が薄目を開ける。