全身に熱がともって、血がたぎってしまいそうで、息をついて目を閉じたら、体が心に正直になった。
おれはカイリを抱きしめた。
カイリがおれの腕の中にいる。思っていたよりも細くて小さな、しなやかな体。カイリの髪が、おれの頬や耳に触れている。
「ユリト?」
ささやく声に呼ばれた。自分の名前が唄みたいに聞こえた。
「寂しくて怖いんだ。大人に近付いて、子どものころにはつかんでいたはずのものが、いつの間にか手からこぼれ落ちていて、記憶が消えていくみたいで、迷って。自分が誰なのか、見失いかけてた。でも、カイリは見付けてくれる。おれが誰なのか、教えてくれる」
「ユリトが誰なのか教えられる人は、ほかにもいるよ。ハルタがそう」
「違う。カイリじゃなきゃダメなんだ。カイリは、おれの見栄もプライドも、いつの間にかはがしてしまう。こんなこと、ほかの誰にもできない。たとえそれが、特別な力を使っているからだとしても」
歌うような声がささやいた。
「わたしの力は、そんなふうには働かない。言ったでしょう。わたしにとって、人間は不思議なの。わからないことだらけ。ユリトがユリトのことをわからないと言うのと、たぶん同じ」
「じゃあ、おれが気になって仕方ない相手っていうのは、人間の女の子と同じなんだね。相手の心をのぞき込めるわけじゃなくて、相手を知るためには、言葉を重ねなきゃいけない」
鼓動の音が聞こえる。抱きしめた体の間に、確かに響く音がある。カイリが、そっと笑った。
「やっぱり、人間は不思議。眠り方も忘れるくらい、ユリトの生命力は弱ってたのに、今はこんなに温かい」
「まだ終われないんだよ。自分を愛せるようになりたい。自分の夢を信じてみたい。夢の果てにある現実にたどり着きたい。そこでもう一度、何度でも、夢を描き続けて生きていたい。おれは、生きることをあきらめたくない」
子どものままの自分を好きになりたい。大人に近付く自分を認めてやりたい。世渡り上手じゃなくていい。他人の理想に振り回されたくない。自分の道を駆け抜けていきたい。
やりたいことが、生きたい道が、見えてくる。迷いが晴れたわけじゃないけれど、その濃い霧の中を突っ切っていく勇気は、この胸に確かに存在する。
「よかった。ユリトが命を手放さないでいてくれて」
カイリの腕が、おれの体に回された。
「おれ、まだ生きてるんだよね?」
「生きてるよ。だから、奇跡を起こそう」
「奇跡?」
「命あるものにだけ、奇跡は訪れる。わたしもやっと眠りに就く覚悟ができたから、このたわむれの夢と引き換えに、ユリトの進む道に奇跡を起こそう」
震えながら歌うような言葉に、おれはハッとして、カイリの顔をのぞき込んだ。カイリは泣いてはいなかった。ただ、静かな微笑みは限りなく寂しそうだった。
「カイリ、引き換えにするって、それは……」
おれの唇に、カイリの唇が触れた。言葉も呼吸も吹き飛んだ。
キスをしている。
柔らかな感触は、あっさりと離れていく。海の色をした瞳に、おれの意識は閉じ込められる。カイリはささやいた。
「くちづけは、約束のあかし。巡り巡る時の流れを少しだけやり直して、ユリトが進んでいけるように祈るから。わたしは眠る。たわむれは終わらせる。龍ノ里島に住むカイリという娘は、役割を果たした。カイリはもう、初めから存在しない」
カイリの瞳の青色を最後に、おれの前から色彩が消える。抱きしめ合うぬくもりも、荒れ狂う波の冷たさも、上も下も右も左も、一切の感覚が消えてなくなる。
声だけが聞こえている。夜風を伴奏にひっそりと紡がれた歌だけが、耳ではないどこかからまっすぐに、心の奥まで飛び込んで、命と魂に共鳴する。
しおさいさわぐ つきよのかげに
ほしをあおげば みちるなみだの
ゆめじをたずね まようはだれぞ
いのちあるもの たゆたいゆけば
いつかねむりに おちるときまで
みみをすませて ちしおのながれ
かぜのかなたに さやかにひかる
きみのゆくえは とわずがたりの
せつなにであい わかれはとわに
ねむりねむれば いつかはあわん
かたるにたりぬ ゆめまぼろしよ
いのちあるもの きみにさちあれ
カイリ、やることがメチャクチャなのはお互いさまじゃないか。勝手に一人で納得するなよ。おれはイヤだ。おれと出会ったカイリが幻だったなんて、絶対にイヤだ。
「それなら、魂の奥に刻んでおいて。もしも、いつかどこかで、わたしと同じ魂の持ち主がユリトに出会ったら、間違いなく見付けられるように」
必ずおれと出会ってよ。おれは必ず見付けるから。絶対にカイリをつかまえて、離さないから。約束、交わしただろ?
カイリが微笑む気配があった。
好きだと告げたかった。きみが好きだ。その笑顔が好きだ。宝物みたいに美しいこの島の、きみと出会ったこの夏が好きだ。
すべてがいとおしいと、今、気付くことができたのに、消えていく。ただの幻のように。明け方の淡い夢のように。
待って。どうか、どうかこの魂の奥に、想いよ、残って。
好きだと告げたかった。
何もかもが消えていく。何も知らなかった自分へとさかのぼって、おれは忘れていく。
「さよなら」
☆.。.:*・゜
海の色も空の色も深く輝いて、目に染み入るほどに強い。今日は一体、何時間、こうして二つの青色を見つめているだろう?
フェリーを乗り継いで、龍ノ里島という離れ小島にやって来た。弟のハルタは、港に降り立った瞬間から元気いっぱいで、おれは呆れてしまう。
港まで迎えに来てくれた越田スバルさんは、おれの担任、田宮先生の大学時代の後輩だ。龍ノ里島で風力発電や海流発電に関わる仕事をしているという。
「突然お邪魔することになって、ご迷惑をおかけします。これから一週間、よろしくお願いします」
「迷惑なんて、全然。こちらこそ、よろしく。ぼくも楽しみにしていたんだよ」
スバルさんは優しげな印象で、日に焼けていて、実際の年齢よりも若く見える。おれが発電施設に興味があると言ったら、喜んでくれた。丁寧語を使えないハルタへの態度も寛大で、ありがたいけれど申し訳ない。
「さて、ここにいても暑いだけだし、我が家に移動しようか。改めまして、ユリトくん、ハルタくん、龍ノ里島へようこそ。海と空と風と山を、ゆっくり楽しんでいってほしい。家は広いんだけど、ぼくひとりで住んでるから、のんびりできると思うよ」
「スバルさん、結婚してねぇの?」
「残念ながら、出会いがなかったからね。流体力学が専門の機械工学系の研究室から、同じ系列の会社に入って、すぐに龍ノ里島に派遣された。その間、同世代の女性が一人もいなかったんだよ」
「うげ。大学の工学系って、女子いねぇの? 兄貴、ヤバいじゃん」
「そうそう。ユリトくんも、中学や高校での出会いは大事にしたほうがいいよ。まあ、そういうのは運命次第なんだろうけどね」
サイエンスが専門なのに運命を説くなんて、スバルさんは少し変わった人だ。おれは曖昧に笑ってごまかした。恋って、まだよくわからない。唐突な失恋を一つ経験しただけで、恋に落ちる過程も恋が実る瞬間も知らない。イメージすらできない。
スバルさんの家は、龍ノ原の集落を見晴らす山手にある。港からたいした距離じゃないけれどクルマで移動したのは、スバルさんが仕事場からおれたちの出迎えへ直行したからだ。龍ノ里島はけっこう大きくて、発電施設の見回りにはクルマが必須だという。
今は寂れた印象の龍ノ里島も、昔は大きな漁業基地として活気があったらしい。龍ノ原湾は港として優秀な上に、不思議なジンクスが信じられていたんだそうだ。意外なことに、ハルタがそのジンクスについて知っていた。
「ジンクスってか、伝説だろ? 龍ノ神が守ってる島だから、ここから船出したら、海で遭難しにくいって。遭難しても、奇跡的に助かったり。だから、昔の龍ノ里島にはデカい漁船が集まってきてたんだろ。おれ、ネットでその話、見付けて読んだ」
クルマを運転するスバルさんは、バックミラー越しにハルタに微笑んだ。
「龍ノ里島のこと、調べてきてくれたんだね。嬉しいな。龍ノ神の祭りは、昔はずいぶん盛大だったんだ。でも、島から人が少なくなって、十数年前からやらなくなった。山のあちこちに龍ノ神の祠があるんだけど、それもほったらかしでね」
祭りも祠も忘れ去られたら、神さまは消えてしまうんじゃないだろうか。そんなことを、おれはぼんやり考えた。非科学的だな。バカバカしい。
スバルさんの四輪駆動車がカッコいいという話から、小学生時代に熱中していた自動車模型、ミニ四駆の話になった。ハルタはおかまいなしだけれど、おれは恥ずかしかった。だから、スバルさんのリアクションにちょっと驚かされた。
「ぼくも昔、きみたちと同じ趣味を持ってたよ。男は誰でも通る道なのかな? ちなみに、ぼくはユリトくんと同じく、コーナリングに重きを置くセッティングにしていた」
中学生なのに意外と子どもっぽいんだね、と笑われるかと思っていた。だって、言ってしまえばおもちゃの話だ。特におれは、年齢の割に大人びていると見られていて、模型云々と口にするようなタイプじゃない。
ハルタは、話に乗ってくれたスバルさんに尻尾を振る勢いだった。
「へへん、おれの勘、大当たり! スバルさんへのおみやげ、大正解だな」
「おみやげかい? 何だろう?」
「今は内緒! ついでに、兄貴にプレゼントがあるんだ」
「は? プレゼント?」
「家に着いたら速攻で渡す」
スバルさんの家は、さっき聞いたとおり、一人で住むにはずいぶんと大きい。瓦屋根が特徴的な、和風なところのある洋館だ。玄関で靴を脱ぎながら、二階まで吹き抜けのホールを見渡して、ほう、と息をつく。
「カッコいい建物ですね」
「だろ? ぼくも一目惚れでね。龍ノ里島に住むことになって、いくつか空き家を紹介されたんだけど、もうここ以外は目に入らなかった。エアコンが付いてなかったり、何かと設備が古いのが玉にキズかな」
風が抜ける造りになっているらしい。エアコンなしでも十分に涼しくて、快適だ。白いレースのカーテンが風に揺れている。
ハルタが早速、ホールの真ん中で自分の荷物をあさって、中からビニール袋を取り出した。袋には、赤と青の双子星のロゴ。
「じゃーん、プレゼントとおみやげ! ついでに自分のぶん。えーっと、これが兄貴のぶんだな」
ハルタに押し付けられた箱は、ミニ四駆のシャーシだった。おれが小学生のころから愛用している、後輪の車軸の上にモーターが入るタイプのものだ。
「え、何、どうして急に?」
「急じゃねぇだろ。兄貴のシュトラール、だいぶ長らくシャーシ割れてんじゃん。何で交換しねぇの? 金がないってわけでもないくせに」
「いや、だって……」
「だっても何もねぇだろ? 走らせなきゃ、シュトラールがかわいそうだ」
「……もう遊んでばっかりもいられないだろ」
子どもっぽい趣味を卒業しなきゃいけないと、まわりからのプレッシャーのようなものを感じる。だって、おれはもう中学三年生だ。半年後には高校受験を控えている。
部活に打ち込んでいるとか、ギターを始めたとか、サッカーなら誰よりも知っているとか、将来の夢を見据えているとか、あっさり童貞を卒業したとか、大人に近付くことがおれたちの年代のステータスだ。
ミニ四駆のレースなら負けないよなんて、もう胸を張ったりできないだろ。ハルタは何でそれがわからないんだよ?
ぶつけたかった言葉は、改めて押し付けられたシャーシの箱に叩きつぶされた。物理的に。箱が唇にぶつかって、あまりの痛みに、涙目になる。
「グダグダ言わずにシャーシ交換! そんで、おれのトルネードとレースだ! トルネードもスイッチがいかれ気味だし、一緒に交換するぞ。あっ、そうだ。久々にスピード組み立て勝負しようぜ」
ちょっと待て、ハルタ。本当に意味がわからない。おれは、ミニ四駆はもうやめようと本気で思っているんだってば。
ところが、スバルさんまでハルタみたいに床に座り込んで、おみやげの箱を開けて大喜びしている。おみやげというのは、新品のミニ四駆一式だった。
あのシャーシは癖の少ないバランス型だ。しかも、使わなくなったパーツも再利用できるからと、ハルタが山ほど、いろんな素材を分けてあげている。スバルさんはミニ四駆経験者である上、機械工学に通じているから、すぐ、いい感じにマシンを進化させられるだろう。
いや、おれはやらないってば。
だけど、胸がざわめく。どうしようもなく、ざわめく。
スバルさんは屈託なく笑っている。
「なるほど、これはおもしろい。最近のミニ四駆って、昔とはけっこう違うんだな。いじり甲斐がありそうだ。今日はもう仕事は終わらせてあるし、ぼくもレースの仲間に入れてもらうよ」
「とーぜん! やったね。これで今回の夏休みは絶対、一瞬たりとも退屈せずにすむぞ。なっ、兄貴!」
「どうしておれを巻き込むんだよ?」
「そりゃ、兄貴が巻き込まれたがってるからだよ。シケたツラばっかしてんじゃねえって。兄貴がポンコツになったの、ミニ四駆やめるとか言い出してからだろ」
「学校のことで忙しいから、遊んでる場合じゃないって、自分で選んだんだ。いつまでも子どもの遊びなんかしていられないって」
「子どもの遊びか? でも、ミニ四駆の開発してんのって、大人じゃん」
「そりゃそうだけど」
「ま、ぐちゃぐちゃどーでもいいこと言ってんじゃ、時間がもったいねぇよな。まずは、スバルさんに見せるエキシビジョンってことで、シャーシのスピード組み立て勝負、やるぜ! 工具箱くらい持ってきてんだろ?」
「当たり前だ」
口走って、ハッとする。走らせもしないミニ四駆なのに、いつでも連れて歩いて、メンテナンスを欠かさず、旅先にまで小さな工具箱を持ってきている。
ハルタが真夏の太陽みたいな笑顔で、おれの背中を叩いた。
「やっぱ、そうだよな! いつもそのバッグ使ってるもんな。シュトラールと工具を持ち運ぶときの、いちばんちっちゃいバッグ。ケータイと財布はポケットに入れてんのに、バッグに何入ってんだって、シュトラール以外ないよな」
ハルタに見透かされていた。カッと体の芯が熱くなったのは、恥ずかしさのせいでも怒りのせいでもなかった。忘れたつもりになっていた純度の高い何かが、その存在を主張するように、おれの体を内側から激しく揺さぶったんだ。
卒業なんか、できるはずないんだ。
だけど。だから。
必死になって、古い自分に別れを告げて、前へ前へ進もうと決めたのに。追いすがってこられても、おれは前みたいに、好きなものを好きだと、きちんと言える自信がないのに。
一台六百円、全長十五センチちょっとの自動車模型。輝きという名前の相棒を、好きなままでもいいんだろうか。子どもの夢を卒業しないままで、いいんだろうか。
迷っている。悩んでいる。
おれは今、立ち止まっている最中だ。次の一歩を、どんなふうに踏み出せばいいんだろう? わからなくて苦しい。でも、うずくまってあきらめることだけはしたくない。
ふと、白いレースのカーテンをふわふわ舞わせて、潮風がゆったりと過ぎていった。頬を撫でる潮風は、甘いような、なつかしいような、不思議な香りがする。
窓の下に見晴らす海から潮騒の音が聞こえてくる。海が歌っているようだと思った。
小型のチャーター船の甲板から浮き桟橋に移ると、カメラは、ぐるりと周囲を見渡した。海の青、空の青、山の緑、入道雲の白。
じりじりと熱い日差しの中を、やむことのない潮風が渡れば、山並みの木々の葉がきらめきの波を起こす。セミの合唱が山から押し寄せてくる。
「ああ、すごい。やっぱり、龍ノ里島はきれいですね」
すごいとか、きれいとか、そういう安っぽい言葉しか出てこない。サイエンス一辺倒の高三男子に詩的な言葉を期待するのが間違いだ。
おれはディスプレイから目を上げた。どっしりと重たい、古くてつややかな木のテーブルの向かいに着いたスバルさんは、ノートPCに映した動画の音量を下げながら、日に焼けた顔を微笑ませた。
「今年度からうちの研究所に配属されたスタッフが、カメラの扱いに長けているんだ。写真も動画も、かなりうまく撮影して、編集までこなしてくれる。この映像も、彼が撮ったものでね」
「なるほど。道理で。とてもきれいで、臨場感がある映像ですね」
「DVDに焼いてきたよ。ユリトくんたちへのおみやげだ」
「本当ですか? ありがとうございます。龍ノ里島の景色、ぼくも見たかったし、見せてあげたい人もいて。DVD、すごく嬉しいです」
スバルさんは、ノートPCが入る大きめのビジネスバッグから、クッション材に包装されたCD-Rを取り出した。おれはお礼を言って受け取る。
ディスプレイに展開される景色を眺めながら、スバルさんは静かに言った。
「人が住まなくなって、たった三年で、町だった場所は自然の中に呑まれ始めていた。木造の建物の中には、見る影もなく倒壊してしまっていたものもあったな。でも、その景色すら、悲しいくらいに美しかったよ」
「ぼくもその景色を自分の目で見てみたいところです。三年前は気分がふさいでいて、ハルタに連れ出されない限り、自分で外に出なかったから。もったいないことをしました」
「大学生になったら、うちの研究所に遊びに来るといい。チャーター船を使えば、龍ノ里島にもすぐ行けるよ」
「ええ。来年、お邪魔できればと思います。スバルさんや田宮先生の後輩になれたら、ぜひ」
「ユリトくんの顔色を見た感じ、問題なく合格できそうだと思うけどな。オープンキャンパスで手応えを感じられたんだろう?」
「はい。楽しかったです」
スバルさんは満足げにうなずいた。
おれの第一志望は、スバルさんの出身校である東京の国立大学だ。今日はオープンキャンパスだった。朝っぱらから暑くて人が多いことにはまいったけれど、いざ模擬授業が始まると、鬱陶しさなんか吹っ飛んだ。学問の世界というものは、それくらい強烈に魅力的だった。
龍ノ里島を引き払った後も、スバルさんは発電機構を管理するエンジニアとして、西の果ての離島に住んでいる。年に何度か、東京の本社に出張があって、そのたびにちょっと足を伸ばしておれたちの町までやって来ては、田宮先生のところに一泊していく。
スバルさんがこっちに出てくると、おれとハルタも呼んでもらって、一緒に食事をしている。今回はイレギュラーだ。ちょうどスバルさんが東京に来るタイミングで、おれもオープンキャンパスのために東京にいるし、田宮先生も出張で横浜にいる。
ハルタが「じゃあ、おれが東京に出ていったら、そっちで集合できるじゃん」と言ったから、それぞれ都合のついたタイミングで、大学のそばの古い喫茶店で落ち合う、という約束になった。
スバルさんや田宮先生が学生時代によく利用していたという喫茶店は、BGMのかかっていない空間だった。読書をする客ばかりで静かなときもあれば、ゼミの続きの議論を闘わせる集団がいてにぎやかなときもあるという。
「コーヒーを一杯で、何時間でもここに居座ったものだよ」
スバルさんはそう言って、初めからミルク入りで提供されたコーヒーをすすった。
「勉強をしているかた、多いですね。大学生の人たちですよね?」
「たぶん、大学院生のほうが多いかな。彼らが読んでいる本や、聞こえてくる会話からの推測だけど」
「わかるんですね。さすがです」
「これでも一応、サイエンスに関するアンテナは張り続けているからね。それに、この喫茶店の客層には、伝統というか、傾向があるんだ。ここに入るのは、学部の四年生になって研究室に配属されてから、みたいな人が多かった」
「なるほど。高校生と大学生って、丸っきり、生活や価値観が違うものなんですね。今日一日で、世の中の広さとか人々の多様性とかをたっぷり目撃しました」
「そうだろうな。特にうちの大学は、変わった人も多いから。ここに来られたら、楽しいと思うよ。本当に」
はいと応えながら、三年前の自分を思って、不思議な気分になる。
中学三年生の、心の折れかけていたころのおれなら、変わった人が多いなんて聞けば、顔をしかめてしまっただろう。お上品な優等生でいなければと、自分で自分をがんじがらめに縛り付けていた。あのころは苦しかった。
何をそんなに恐れていたんだろうかと、今にして思う。おれは、おれだ。普通だとか理想だとか、まわりが勝手に決めた型に嵌まるなんて、窮屈に過ぎる。操り人形も王子さま役も、まっぴらごめんだ。
カラランッと、ドアベルが勢いよく鳴った。ドアのほうを向いたスバルさんが笑顔を輝かせて、軽く手を挙げた。このリアクションはハルタだな、と思いながら、おれは振り返る。正解だ。
「おー、いたいた。何だ、兄貴のほうが先に着いてたのか」
クラシカルな喫茶店には見事に不似合いなハルタは、おれの隣に、どさりを腰を下ろした。スバルさんは、にこやかに目を見張っている。
「ハルタくん、デカくなったね。背も伸びたし、日に焼けて、ずいぶんがっしりして」
「そりゃー、伸び盛りだし、筋トレ好きだし。それに、近所のクルマの整備工場でバイトさせてもらってて、何本もタイヤかついだり、工具や部品がやたら重かったりで、気付いたら、すげー筋肉付いてた」
「高校生でバイトか。ぼくは進学校で、バイトは禁止だったから、ハルタくんの高校生活の話を聞くと、新鮮だよ。ねえ、ユリトくん」
「そうですね。工業高校は全然違うなって思います。バイトのこともなんですが、実践に即した機械工学の授業がいろいろあって、うらやましくなります。今は、ぼくよりハルタのほうが、機械いじりのチャンスが多いんですよ」
「兄貴、機械系の実習んとき、代わってやろうか? 細かい作業ばっかで、ひたすら面倒くさいんだぞ」
ハルタは思いっ切り、眉間にしわを寄せた。お冷を持ってきた店員に、アイスコーヒーを注文する。
工業高校に通うハルタは、授業よりもバイトに熱意を燃やしながら、週末にはサーキットに通ってレーシングカートを続けている。サーキットの中でいちばん強いらしい。プロへの道も開けつつあって、たまに新聞やウェブニュース、ラジオなんかの取材を受けている。
ハルタはお冷を一気飲みすると、日に焼けた顔をまっすぐ俺に向けて、ニッと笑った。
「兄貴とまともにしゃべるの、久しぶりだよな。同じ家に住んでんのに、全然、時間が合わねぇんだもん。兄貴、家じゃ、ずっと部屋にこもって勉強してるし。朝もやたら早くに出ていくし」
「課題が多いんだよ。朝は補習がある」
「完璧に合格圏内なのに、いちいち補習なんか出なきゃいけねぇのか?」
「当たり前だ。内申点も一応、稼いでおくほうが安心だし」
「生徒会長やって、部活もレギュラーだったろ。今さらその内申点を引っ繰り返そうと思ったら、よっぽどヤベェことしなきゃ無理じゃねーの? たまには遊べよ。ちゃんと寝てるか? 頑張り過ぎると、息が詰まって、またぶっ倒れんぞ?」
笑っていたはずのハルタは、いつの間にか真剣そうに眉をひそめていた。くっきりと大きな目は情感豊かにハルタの心模様を映し出す。ひどくまっすぐな熱を向けられて、おれは気まずくなった。
「息抜きはできてる。中学のころみたいに、誰にも弱音を吐けないなんてことは、今はない。志望校のレベルが近くて、成績や勉強のことでも遠慮なく話せる相手がいるし」
「え、そんな相手いるのか? マジで? 兄貴、点数の話をするの、すげー嫌がってただろ。いちいち噂を立てられんのが面倒くさいっつって」
「お互い、成績の話は口外しないっていう暗黙の了解がある。だから、安心して話せるんだよ」
ぱちぱちとまばたきをしたハルタが、急に、心得顔になった。
「この前、兄貴と一緒にいた女の子、そういう子だったのか。一緒に東京の大学受けるってことだな。もう付き合ってんのか?」
ぱんっ、と風船が割れるような衝撃が頭の中で起こって、思考回路が断裂した。ゆっくりゆっくり時間をかけて、ハルタに何を言われたのかを理解する。そして、理解が至った瞬間、湯気が噴き出しそうな勢いで顔が熱くなった。
「お、おまえ、根拠もなく何言ってんだよ!」
「根拠あるし。見たもんな」
「い、いつどこで!」
「はい、その言い方。身に覚えがあるんだな。おれの見間違いじゃなかったわけだ。兄貴も水くさいな。カノジョができたんなら、教えてくれりゃいいのに」
やってしまった。言葉の詰まるおれに、ハルタはニヤッと笑ってみせる。
スバルさんが目尻にしわを刻んで笑った。
「ユリトくんにはカノジョがいるのか。同じ学校の子?」
「ち、ちょっと、待ってください。カノジョじゃないんです。付き合ってるわけじゃなくて」
「でも、いい雰囲気の女の子がいるわけだ。いやぁ、うらやましい。青春だね」
「だから、違うんですって。お互い、肩肘張らずに話せる相手ってだけで、向こうは全然、恋愛とか望んでるタイプじゃないから、おれも今はまだ……って、うわ」
口が滑った。今の言い方じゃ、おれのほうは彼女との恋愛を望んでいる、と表明したようなものだ。
こういうときだけは頭の回転が速いハルタが、すかさずおれを冷やかした。
「モテモテ野郎の兄貴が初めて、自分から女の子にアプローチしてやがるー」
「う、うるさい」
「いいじゃんいいじゃん! 兄貴ってプライド高いから、肩肘張らずに話せる相手、あんまりいねぇだろ? ナチュラル系のきれいな子だったよな。かあちゃんが喜ぶぞ。これからの展開が楽しみだ」
おまえの楽しみになんかされたくない。バイト三昧でけっこう忙しいくせに、ちゃっかり目撃しやがって。
彼女とは家の方角が正反対だから、行き帰りで一緒になることはない。彼女はショッピングやイベントにはまったく興味を示さないし、生徒会役員だったおれが寄り道なんていうマナー違反をやらかすわけにもいかないから、学校帰りにどこかに行ったこともない。
でも、おれはそういう出不精な関係に悩んでなんかいない。おれと彼女の場合、二人になるために、わざとらしい理由をこしらえる必要はないから。
今年から同じ理系の特進クラスで、志望校の難易度別の授業も同じで、放課後の自習室でも何となく近い席に座ることが多い。参考書の貸し借りや、過去問の答案を題材にした議論、より美しい計算式の模索。そういうところには、ほかの誰も入ってこられない。
学校の外で彼女と会ったのは、今までに一度だけ。奇跡的に補習も模試もなかった日曜日に、Tシャツにジーンズのラフな格好で、おれの家から近いバス停で待ち合わせをして。ハルタに見られたのは、このときしかあり得ない。
あの日の目的地は、おれが小学生のころに行きつけにしていた模型屋だった。おれは久々にシュトラールをコースに放って、小さなマシンのスピードを楽しんだ。彼女はミニ四駆を一台買って、初めてとは信じられない手際のよさで組み立てて、早速コースを走らせた。
楽しいね、と彼女が目を輝かせたのが嬉しかった。ドキドキして、ワクワクして、また模型屋で会う約束を取り付けた。デートと呼んだら、叱られるだろうか。
去年、生徒会室で偶然出会った彼女は、どこかなつかしい感じのする大きな薄茶色の目の持ち主だ。初対面のときにきれいな声だと感じたけれど、歌ったらもっときれいだった。合唱コンクールでソロのパートがあって、それがすごくよかった。
彼女は一目でミニ四駆を気に入った。もともとラジコンやプラモデルをいじるのが好きで、ラジオでも何でも自力で組み立てることができるという。
失礼な言い方だけど、機械いじりが得意って、女の子なのに変わってるね。おれがそう言ったら、彼女は得意げに笑ってみせた。変わってるって言われるほうが嬉しいの、と。
彼女はいつも自然体の等身大だ。その姿はきれいで、ほかの誰とも違う。だから、おれも同じように、自分のままでありたいと思えるようになった。型の中に嵌まり切れない自分を、きちんと自分で認めてやりたい。
最近、おれは、趣味はミニ四駆だとハッキリ言っている。受験対策の一環で、自己PRの文章を書く機会が多いのだけれど、ミニ四駆を題材にすると、自分という人間を表現しやすい。評価も上がった。彼女のおかげだ。
実は今も、バッグの中には、プラスチックケースに入ったシュトラールがいる。オープンキャンパスにあたって、実は少しナーバスになっているところもあったから、守護神に同行してもらった、という感じ。
シュトラールのデザインは、ボディが白地に赤いグラデーションで、シャーシもそれに合わせたカラーリングで通してきた。最近、一つだけ変化があった。
シャーシの上にボディを固定するために、キャッチという部品を使う。この間、シュトラールのキャッチを、彼女のブルー系のマシンのキャッチと交換した。だから何だと訊かれても、うまく答えられないけれど、とにかく交換してみたかったんだ。おそろい、というか。
連鎖的にいろいろと思い出してしまって、頬の熱がなかなか引いてくれない。おれは、ハルタのニヤニヤ笑いとスバルさんの温かな笑みから顔をそむける。
さまよわせた視界に、スバルさんのノートPCのディスプレイが映った。海の風景が一時停止されて、キラキラしながらそこにある。コンクリートの防波堤と、海底まで見透かせる澄んだ水、小さな魚の影。
早朝の銀色の波と、白く溶けていく星空を思い出した。なつかしさに、ああ、と声が漏れる。
「龍ノ原小中学校のところの防波堤ですね。突端に灯台があって。撮影したときは、かなり潮が引いてたんでしょう? 防波堤があんなに高く見える」
「おっ、兄貴が話そらした。照れんなよ。応援してやるって」
しつこい。おれはハルタを無視して、輝く海を見る。
「引き潮のときに防波堤から飛び込んだら、海面まで三メートルくらいありましたよね。思いっ切り遠くにジャンプしないと、海底に突っ込んでケガすることになるからって、助走をつけて飛び込んだのを覚えています」
ハルタが、すっとんきょうな声をあげた。
「はぁ? 防波堤から飛び込み? 寝ぼけんなよ、兄貴。おれたちが飛び込んで泳いだのって、船着き場の浮き桟橋んとこだろ」
「え? いや、昼間は船着き場で泳いだけど、朝、日が昇るのを防波堤で見て、それから海に飛び込んだぞ。レディー、ゴーで勢い付けて」
「違う、絶対違う! 防波堤には絶対、行ってねぇよ。かあちゃんに言われて、毎日、やったことのメモを取ってたんだ。スバルさんにも協力してもらってさ。だから、あの夏のことだけは、兄貴が覚えてないことでも、おれは覚えてる」
「でも、おれ、朝から一人で散歩に出て……あれ? 散歩?」
「兄貴は引きこもってた。おれがうるさく言って、ようやく外に連れ出せるって感じだっただろ。あっち方面に行ったのは、学校の跡地に忍び込んだときだけだ。しかも、あんとき、校舎の鍵が開いてなくて、外から眺めただけだった」
「学校には行った。そっちの方面は、確かにハルタの言うとおり、探検できるような場所はほかになくて、だけど……あれ、校舎? 鍵……?」
埃っぽくこもった空気を覚えている。蒸し暑かった。寂しげに語られる島の滅びのストーリーを、子どもたちの文字が黒板に残る教室で聞いた。
何かが引っ掛かる。これは夢、それとも記憶? おれはあのとき、誰と一緒にいた?
薄茶色の大きな目。透き通るような声。どこか神秘的な唄。
違う。彼女がそこにいたはずはない。いや、だけど。
不安げで真剣な目をしたハルタが、おれの肩に手を掛けて、軽く揺さぶった。
「兄貴、大丈夫か? あの時期はマジで調子悪かったし、記憶もちょっと混乱してんじゃねぇか?」
「そうかもな」
おれはハルタに笑ってみせた。笑ってごまかさなければ涙が出ると、直感的に思った。
これは喪失感だ。胸にぽっかり穴が開いたような、どうしようもない悲しみがあることに、今、唐突に気が付いた。忘れてはならないものを、この手から取りこぼしてしまった。おれは何を忘れてしまったんだろう?
心の奥の魂に刻まれた何かが、ディスプレイ越しの海に呼ばれて、共鳴する。目を閉じれば、あまりにも鮮やかなその情景の中に、ふっと意識が飛んでいく。
青く光る空を仰いだ。甘く匂う潮風が過ぎていった。潮騒の唄に包まれた。ささやき合って交わした、秘密の約束があった。胸が疼いて仕方がない、この想いの正体は何だ。
おれはあの島で何を得て、何を失ったんだろう?
間違いないと言えることは、宝物のようなあの島に、おれのスタートラインが横たわっていたという事実。おれはあの島に命をもらった。心を燃やすレースのたびに口ずさんだ言葉を、あの夏、失意の中でつぶやいた。
レディー、ゴー!
つぶやくおれの声に寄り添いながら、潮風は、遠い空へと舞い上がった。その行方を追い掛けて、おれは幾度も幾度も空を見上げて、輝く色を胸に焼き付けた。美しかった。言葉にならないくらい大切な思い出が、情景が、そこにあった。
それなのに、おれは一体、何を忘れてしまったんだろう?
「兄貴?」
ハルタがまた、おれの肩を揺さぶった。
コーヒーの香りが鼻孔をくすぐる。BGMのない喫茶店の、静かなざわめき。おれは二度、三度とかぶりを振って、重なり合った二つの記憶の残像を、頭の隅に追いやった。
「いつかまた行こうな。おれが大学に通って、おまえもレーシングドライバーとしての所属先が決まった後とか」
肩の上にあるハルタの手を、ぽんぽんと叩く。微笑んで見守ってくれているスバルさんに、微笑み返す。冷めかけたコーヒーを口に含む。
忘れてしまった。交わした言葉のひとつひとつは、初めから存在しなかったかのように、記憶の中のどこを探しても見当たらない。
でも、唄が聴こえる。命の奇跡の唄が。
あれは、何の唄だったんだろうか。誰が歌ったんだろうか。あの夏は二度と巡ってこない。新たな夏に、また新たな唄を確かめに行きたい。命のきらめきに満ちた、あの島へ。
【了】