♪side:航大

西口から古本屋へ向かう途中で、まだ夕方も早い時間からあからさまに安い素材の法被を着た飲み屋のキャッチがいた。スーツを着た人や若いカップルに声をかけていたり、チラシを渡していたりする。見た目三十くらいのその男は、目の前を通る俺をスルーした。俺はそんなに飲み屋に行きたくない顔をしていたのだろうか。
飲み屋やパチンコ店が建つ細い路地を抜けて、古本屋のドアをくぐった。古本独特の埃というか、黴というか、そんな様な臭いが鼻につく。
用事がない本の棚をスルーし、CDのコーナーに向かう。洋楽のCDが並んでいる棚が広すぎて探すのすら面倒になってきた。ひとまずアーティスト名の頭文字がTの辺りをずっと探したが見当たらない。同じ棚を二度、流し見したが、ビートルズのCDは一枚も無かった。いや、せめてレット・イット・ビーくらいはあって欲しいと思った。ダメ元で近くの棚を整理していた店員に聞いてみた。
「すみません、ビートルズのCDって在庫あったりします?」
「それでしたら。アーティスト名の頭文字がBのところに並んでると思います」
「あぁ、すみません。ありがとうございました」
いや、ザ・ビートルズじゃないんかい。とか思いながらBの棚の前に来たが、俺も普段はビートルズと呼んでいるので何も文句は無い。
Bの棚にビートルズのCDがある事はあったが、案の定レット・イット・ビーが四枚しか無かった。というか、なんでレット・イット・ビーだけ四枚もあるんだ。さっきはせめてレット・イット・ビーくらいはあって欲しいと思ったけど、四枚もあるとなんだか勝手に虚しくなる。
アビイ・ロードが無かったからと言って冷やかしみたいな事はしたくなかったので、税込五百円の雑にビニールに包まれたレット・イット・ビーを買って店を出た。
少し歩いたところにある個人経営のレコードショップには久しぶり来た。前はちょくちょく来ていたのだが、音楽への興味が薄れてからは疎遠になっていた。サビだらけの看板も、壊れて開け放たれた自動ドアも高齢の男性店員も、以前来た時と何も変わっていなかった。
店内に入ると、その高齢の男性店員が話しかけてきた。
「おう若いの、久しぶりじゃないの」
「あれ、覚えてるんですね」
「お前さんみたいに若いのは珍しいからなぁ。覚えとるもんだ」
「すみません、ビートルズのCDとかってありますか?」
「ビートルズか?レコードはどっかにあったと思うが……CDはあったかなぁ……。待っててくれるなら探すが、どうする?」
「あ、それなら待ちます。ビートルズのアビイ・ロードっていうCDを探してまして」
「おぉ、あの横断歩道の写真のやつだらな。昔その辺の在庫の引き出しにしまってそのまんまかも知れんなぁ」
「もしあれなら待ってますので、探していただけるとありがたいです」
「分かった、ちょっと待っててくんねぇ」
そう言って腰をさすりながら店のバックヤードに引っ込んで行った。確かに老舗だけあって、有名な古いレコードが壁に所狭しと飾られている。マイナーなアーティストのレコードは下の方の棚にまとめて入れられている。もちろんビートルズのコーナーもあって、こっちはちゃんとアーティスト名の頭文字がTのところに並べてあった。なんとなく感動した。
十分と経たずに店員がバックヤードから新品のCDを一枚持って出てきた。埃を被ってはいたが、シュリンクも剥がれていない完品だった。
「これだろう、探してたのは」
「あ。これですこれです。ありがとうございます」
「それなぁ、お前さん、良かったら持って行かねぇか」
「あ、もちろん買います」
「いや、買って欲しいんじゃねぇんだ。代金はいらないから持ってってくれ」
「それはダメですよ、貰えませんよ」
「俺はなぁ、歳も歳で嫁もいない、遠い親戚も疎遠になっちまって、無い無い尽くしでここまでやってきたんだけどさぁ。そろそろこの店も閉めてゆっくり生きようかと思ってるんだ」
「え、閉めちゃうんですか、この店」
「こんなヨボヨボにまだ鞭打って店をやれってか」
「いやいや、まだまだ元気じゃないですか」
「元気のあるうちにやりたい事とかやって、そんで最後は笑って死ぬのよ。これだけは誰にも文句は言わさんぞ。だから、若いの、それは俺からのプレゼントだ。いつも来てくれて、嬉しかった」
「そうですか……ありがとうございます。本当に」
「礼なんて別にいらねぇよ」
「ありがとうございました。お元気で」
「お前さんも、元気でな」
俺が店を出るまで朗らかに笑いながら話を続けてくれたそのおじいさんの今までの人生がどれだけいいものだったか、悪いものだったか、俺には分からない。でも、俺が産まれるずっと前から今まで営んできた店を閉める時に、あぁやって笑えるのが少し羨ましいと思ってしまった。ここ数か月か、もしかしたら一年以上、本気の笑顔になれていないかも知れない。