side:航大 《過去》

天井の傷の数は百を超えたあたりから数えられなくなった。あのノイズだらけのオールナイトジャパンが昔の記憶を蘇らせ、心の傷を疼かせる。最後にこの音を聞いたのは、確かあの夜だ。
……
「ねぇ航大君、君はどうしていつも私の事見てくれないの?」
「なんでだろ。でも、七海も俺のこと見てないでしょ?」
「ん、そうね。確かに。どうせこういう関係だし」
「たまたま身体の相性が良かったからだとか、お互い秘密には干渉しないから楽だとか、色々理由はあるんだと思うよ」
「それも確かにそうだけどさ、セックスしてる時くらい私の事見てくれてもよくない?いつも私の顔見てる様で、見てないみたい」
「そう見えた?」
「なんか、目線は確かに私の方を見てるんだけど、私の目じゃなくて、別の何かを見てるみたい」
「そっか、そう見えてるんだね」
「違ってたらごめんね。でも、私にはなんとなくそう見えてさ」
「別に七海とのセックスが気持ちよくない訳じゃないよ。ただ、ここ最近なんか俺の中で、モヤモヤしたものがあってさ」
「あぁ、なんかそれは分かる気がする。たまにだけど私もそういうことある」
「なんなんだろうね。セフレだからとか、そういうのは多分関係ない気がする」
「私は多分だけど君のことを好きにはならないと思う」
「それは多分俺も同じだよ」
汗が染み込んてひんやりとした布団に包まれながら二人、背中合わせで話す。その場のノリでナンパして、名前も知らなかった女の子と身体の関係になって、もう半年くらいが経つ。お互いプライベートには絶対に干渉しないで、週末にはこの休憩三千円かそこらのボロボロの部屋に来る。安っぽい装飾と申し訳程度のグッズが置いてある部屋の景色も、もう見慣れた。長袖が半袖に変わって、何も分かっていなかったお互いの事も少しは分かるようになった。
「あのさ」
「俺達、そろそろ終わりにしようとでも言いたいのかな?」
「いや、なんで分かるんだよ」
「やっぱり。なんかね、彼氏とかいう関係じゃない人の方がそういうのって分かりやすいの。別に航大君が単純とかそういう意味じゃないよ」
「そうなんだ。まぁ、でもそれは否定しない」
「そっか、それならそれでいいのかもね。別に私たち、未練がどうとかいう関係でもないわけだし」
「そうだよ。いつか終わりが来るって分かってる関係だったし、それが今日だったってだけなんだから」
「都合のいい関係って本当に都合がいいんだね」
「それどういう意味?」
「そのまんまの意味。都合のいい時に始まって、都合のいい時に会って気持ちよくなりたい時だけセックスして、都合のいい時に終わる関係」
「よかったよ。七海が俺と同じ考えで」
「同じ考えじゃないかもって思う人なんかにナンパされてもついて行かないもん」
「そうだよなぁ。大丈夫?寒くない?」
「別に、寒くない」
背中合わせの声が少し震えていた。七海はきっと、強がって嘘をついた。俺ももしかしたら、強がっていたのかも知れない。だから、振り向けなかった。もし振り向いたとして、そこに涙を堪えた七海の顔があったら、もう俺は戻れない気がしてた。終わらせるのは簡単だと思ってた。終わらせるのが怖かった。怖くて、必死に言葉を絞り出した。
「なぁ、シャワー浴びて来なよ」
「意地悪だね」
「知ってるよ。俺は弱かったから、意地悪にならなきゃいけなかったんだ」
「私も。私も弱かった。だから、いつもこの部屋に逃げてきてた。だけど、やっぱり、ダメなんだな」
そう言って七海は身体にバスタオルも巻かず、バスルームに向かった。胸が張り裂けそうだった。あれほど冷めた関係だと思っていたのに、いざ終わりそうになってこのザマだ。こんなことなら、半年前にナンパなんてしなきゃ良かった。二人一緒にいる時、行為を盛り上げる為だけに「愛してる」なんて自分勝手で、薄っぺらいにも程がある言葉を吐いた自分が嫌になる。
数分と経たないうちに七海はバスルームから出てきた。目が少し赤かった。俺は何も言わずに、バスタオルを巻いてシャワーを浴びに行った。
勢いの無いシャワーを頭から浴びる。涙をごまかすようにぬるいお湯を浴び続ける。昭和時代から残っているような、黒カビが少しこびり付いた風呂のタイルを殴りつける。俺はもう女の子は抱かない。そう強く思った。
バスルームから出た。七海は既に服を着ていた。俺は声をかけられず、黙ったまま脱ぎ捨てた服を集めてもう一度着ようとする。
「航大君」
「なに」
「もう、ほんとにサヨナラなんだよね。終わりなんだよね」
「……そうだね」
「分かった。ありがとう」
「なんで、ありがとうなんて」
「この半年、楽しかった」
「それだけで……」
「セックスしてる時だけでも、嘘でも、薄っぺらくても、愛してるって、言ってくれた」
「……」
もうやめてくれ。と、心がそう叫んだ。言葉にもっと切れ味や力があったなら、俺はもうボロボロだったと思う。必死に破裂してしまいそうな心を抑え込むので精一杯だった。そこからはもう何も言えなかった。
服を着て、部屋の入口にある機械のボタンを押す。無機質な精算機の声が沈黙の中に響く。料金を告げられ、言われた通りの金額を投入する。
「ありがとうございました。お気をつけてお帰りください」感情のない声に見送られ、俺たちは部屋を出た。帰る方向が反対だった俺たちは、部屋のドアが閉まってから一言も口をきかず、歩き始めた。人生で一番あっさりとした別れのはずが、こんなことになるなんて。陰鬱とした気持ちで歩き、着いた最寄り駅のベンチで電車を待ちながら、七海とのトーク履歴を消し、ブロックした。
俺はもう、女の子は抱けない。