♪side:翔一

眠れなかった。宅飲みの残骸を片付けながらフラッシュバックした記憶を振り払う。あのコンビニの灰皿の横で見た風景を未だに鮮明に覚えている。そんな記憶をつまみの乗っていた皿の汚れと一緒に洗い流してしまえたらどんなに楽だっただろう。焦げ付いたフライパンをたわしで擦るように、半ば強引に忘れ去ろうとした時もある。その度傷ついて、それでも汚れは落ちなかった。綺麗になっていくのは、三枚の皿といつかの記憶だけだった。
正面に見える扉の向こうで、一番かわいく、かっこいいと思える人が寝ている。ペンを持つ指とか、優しい眼差しとか、たまに見せる笑顔とか、そういう日常の一瞬が俺の心を揺さぶる。さっきもそうだ。俺の手の甲に触れる指がどうしようもなく優しかった。冷たい手を温かく包み込んでくれた。俺も直哉も、お互いの冷たい手を絡ませて温めあった。そんなことを思い出しながら、お湯で泡を洗い流す。当たり前のように汚れた皿は純白に戻っていく。抱けねぇよ。あぁ、ばかやろうだ。
あれだけ直哉を男として抱くと覚悟を決めていたのに余計なことをちょっと思い出しただけで決心が揺らいだ。もうあのドアノブは回せない。
逃げるように逸らした視線の先。カーテンの隙間から見える窓には夜が溶け込んでいて、真っ黒だった。外気と室内の温度差で結露して水滴だらけだ。月がぼんやりと滲んで見えてはいたが、星が出ているのかどうかは分からない。
愛情以上に、美しいと思うものを俺はまだ知らなかった。そりゃもちろん、北斗七星とかオリオン座とか、美しいモノは多々ある。でも、愛情よりも美しい感情は知らなくても良かった。だって、あの時はお互い本能っていうろくでもない物に正直になっちまった結果、欲望なんてものに溺れたんだ。その先にあるのが愛情よりも美しい感情なら、俺は知りたくなかった。愛と欲情が背中合わせで立っていたならば、俺はもう二度と欲情には傾かないと決めていた。釣り合わない弥次郎兵衛がずっとゆらゆら揺れていた。

こういう劇的な一日だと思っていた日でも、次の日にドラマチックな朝なんかやってこない。何の変哲もない日曜の朝を寝ずに迎えた俺は、少し疲れていた。一睡もしていないのに、何故か夢を見た感覚に陥っていた。
結局あれから一度も開けられなかった扉があっさりと開いた。俺の顔を見た直哉が笑いながら声をかけてきた。
「おはよう、目のクマやばいな」
「おはようじゃねぇよくそ野郎」
「開口一番辛辣だな、寝てねぇの?」
「寝れなかったんだよなぁ、なんか変に考えすぎたり要らんこと思い出したりしちゃってさ」
「あぁ、ちょっと分かるわ」
「マジか」
「なんか、俺は夢見てたよ。東京スカイツリーから街をずっと眺めてる夢」
「夢ねぇ。俺は最近見てねぇなぁ」
「夢見てない時の方が深く眠れてるらしいよ」
「レム睡眠とか何とかいうやつ?」
「逆、ノンレム睡眠な」
「知ったかぶりってしない方がいいんだな」
「そういう事やね」
「ちょっと一服してくるわ」
「あ、俺も行くわ。また一本貰っていいか?」
「あ、え、別にいいけど」
そのまま二人でベランダに出た。ろくに着替えもせずに寝癖も直さないまま煙草を咥えた。渇き気味の喉を煙草の煙が撫でる。いつもよりキツく感じる。