♪side:翔一

一緒に会社を出てそのまま駅に向かった。ネクタイを緩めながらぼんやりと歩く。直哉も俺も、寒い夜の空に見惚れていた。東京の街灯とイルミネーションが偽りの星空を創り出していた。オリオン座もふたご座も見えないけれど、歌舞伎町のネオンよりは綺麗だと思えた。昨日のことを引きずったまま、直也としっかり向き合えるだろうか。
駅の自販機でホットの缶コーヒーを買って、総武線に乗り込む。黄色のラインが入った車体がゆっくりと動き出す。ボックス席の向かいの窓の外を見ながらぼやっとする。
直哉からの提案には、正直乗り気ではなかった。部屋を全く片付けていないのはこの際どうでもよくて。昨日あんな事があって、「お前の過去を塗り替えられるんじゃないか」なんて歯の浮くようなセリフを言われ、手袋をプレゼントされて現実を突きつけられた今日に直哉を部屋に呼ぶのはまずい気がした。俺たちは、このままあと少しでも進んでしまえば、もう後戻りができない関係になりつつあった。今日部屋に呼ぶことで、「あとに戻れない二人になる」十分条件を満たしてしまう可能性もあった。俺は直哉に出会った時から、この人とは一線は超えないと決めていた。はずなのに。昨日の夜のどうしようもない悲しさと虚しさと、昼間の言動に流されて、決意が少しだけ揺らいでしまった。神田の店に連れていくと言ったのも、少しでも遅く家に帰る為だけという理由だった。だって、部屋で二人とも落ち着いてしまえばもう、その先は分かりきっていた。俺はきっと直哉と肉体的な関係を結んでしまう。男として、同性として彼を愛してしまう。ただ「好き」というだけじゃない。「愛して」しまう。かつて航大を愛したみたいに。
「翔一、おい翔一」
「ん?あ、なに?」
「おい、ぼけっとしてんなって。次で乗り換えだぞ」
「すまん、寝そうだった」
嘘だった。
「昨日なんかあったんだろ。目のクマやばいぜ」
「知ってる。昼間も言ったけどいろいろあったんだよ」
車内アナウンスがまもなく市ヶ谷駅に到着することを伝えた。カバンを持って立ち上がり、ドアの前に立つ。行きつけの喫茶店までの道のりを辿る。
「あとはちょっと歩いて新宿線に乗り換えて神保町駅まで行くだけ」
「一本で行けるのかと思ったら違ったんだな」
「それくらい苦労した方が飯も美味く感じるだろ」
「もう仕事で苦労してるから俺としては早くお前の言うナポリタンを食いたいんだけどな」
「まぁもうちょい我慢しろって」
「あぁ、わかったよ、わかりました我慢します」
「笑いながら言うセリフかよ。もうちょい拗ねた顔で言うならわかるけど」
「うるせぇな、腹減ってんだよ」
「あともう少しで着くからな」
市ヶ谷駅から新宿線に乗換える。その店は、神保町駅A7の出口から歩いてすぐだった。
駅の出口から歩いて数十メートルのところにある目的の店に入る。レトロな雰囲気の喫茶店の扉も、あの頃と変わっていなかった。お冷を持ってきた店員にナポリタンを二つ注文して、直哉と話す。
「あのさ、今日、ほんとにうち来るのか?」
「え?ダメなの?」
「いやダメじゃないけどさ。ただ単に、ちょっと乗り気じゃないだけ」
「なんだよ乗り気じゃないって」
「いやすまん。やっぱりなんでもない」
「え?なんか思った事あんならそれ言わなくていいのか?」
「まぁ、いいよ。特に問題ないし」
直哉の気持ちが俺にはあまりよく分からなかった。俺の家に来たいと言ったのも、わざわざ遠いところの店についてきたのも。ただ俺と話がしたいからという理由では無さそうだ。
「お待たせ致しました。ナポリタンがお二つですね」
横からナポリタンを運んできた店員に声をかけられ、同時に二人とも黙った。別に他人に憚るような内容でもないとは思いながらも、なんとなく変な感じがして黙った。
手を合わせて、フォークを持つ。大きめの皿に盛られたナポリタンを一口食べる。店の外観と同様、変わらない味だった。
「え、美味いな。正直ナポリタンなんか冷凍パスタでも変わんねぇと思ってたりしたけど、確かにこれは美味い」
「だろ。気に入ったか?」
「すげぇなお前、昔からこんな店知ってるのか」
「まぁな、ちょっとグルメぶってた時期もあってさ」
「うわ、翔一がグルメぶってる所とか想像できねぇ」
「おいくだらんこと言ってないで黙って食えよ」
「分かったよ」
少し大盛り目のパスタがすぐに無くなるくらいには二人とも空腹だった。グラスに残ったお冷を全て飲み、席を立つ。テーブルの端に置かれた伝票を持つ。
「ここ、俺の奢りでいいよ」
「マジ?いいの?」
「あぁ、その代わり家で飲んだり食べたりする食品の買い物の時の端数は出してくれよ」
「代わりになってねぇよ。その時の買い物は、じゃあ俺が出すから」
「いいのか?」
「ここ奢ってくれるんだろ?だから次の買い物は俺の奢りでチャラって事にしていいか?」
「まぁいいけど。ありがとうな」
「こちらこそ」
店を出ると、すっかり日が沈んで夜になっていた。息が白くなる。暗い路地裏のビルの隙間から見える真上の夜空には、オリオン座が浮かんでいた。